張ダビデ牧師の神学的洞察:恵みへと進む敬虔の訓練と福音の希望 (Olivet University)

Pastor David Jang

ジョン・バニヤンの古典『天路歴程』において、巡礼者は数多くの誘惑と試練の中でも、狭い道を歩み続け、決して足を止めません。彼が荒れた荒野を通りながら、絶えず自らを励まし、訓練し続けることができた理由はただ一つ、視線の先にある永遠の天の都を見つめていたからです。このような巡礼者の旅路は、大きな世の流れの中で真の信仰の道を探し求める私たちに、なぜ敬虔の訓練が必要なのかを教えてくれます。テモテへの手紙第一4章の御言葉に基づいて牧会の本質を考察した張ダビデ牧師の講解は、まさにこの永遠の希望に向かって歩む者たちが備えるべき内面の態度と霊的権威とは何かを、精密に示しています。

生ける神に望みを置く魂の霊的訓練

使徒パウロが霊的な息子であるテモテに、エペソ教会という大きな共同体を任せながら伝えた励ましと教えの真髄が、テモテへの手紙第一に込められています。この書簡は、牧会の原論とも言えるものです。霊的指導者が最優先にすべき使命が真理を守り抜くことであるなら、その次に重要な課題は、信徒一人ひとりが内面の聖さを形成できるよう助けることです。偽教師たちの誤ったささやきが飛び交う時代の中で、真のキリスト者は、世と区別される霊的習慣を形づくらなければなりません。身体の訓練がこの地上でわずかな益をもたらすだけであるなら、人生全体を貫く聖なる訓練は、現在の生活だけでなく、来たるべき永遠の命の約束にまで及ぶ益を持っています。

私たちが毎日、夜明けの静けさを破り、涙をもって祭壇を築き、世の激しい誘惑の中でも聖さを守るためにもがく根本的な理由は、私たちの究極的な望みが、この地上の有限な栄光にあるのではないからです。物質的な豊かさや世俗的な成功は、マタイによる福音書4章でイエス・キリストが直面された試みのように、むしろ魂を縛る危険な誘惑となり得ることを警戒しなければなりません。人は決してパンだけで生きる存在ではなく、神の口から出る命の御言葉によって生きる存在です。だからこそ、真の信仰者の望みは、ただ生ける神お一人にのみ固定されるべきです。永遠の価値に望みを置いて行う日々の鍛錬こそ、惜しみなく人生をささげるに値する最も価値ある投資であり、主の御前に立つ日に大きな称賛を受ける秘訣なのです。

権威主義を越え、人生の五つの美しい模範となる道

使徒パウロは、エペソ教会の指導者として立てられたテモテに向かって、だれもあなたの若さを理由にあなたを軽んじることがないようにしなさい、という力強く厳粛な命令を下します。断固として宣言されたこの教えは、世の中で霊的リーダーシップを回復しようとするすべてのキリスト者に、深い責任感を与えます。しかし、ここで犯しやすい最も致命的な過ちは、外的な地位や抑圧的な態度によって権威を立てようとする、見せかけの権威主義に陥ることです。真の内面的な霊的権威は、自分自身を高めようとする高慢な執着からではなく、軽々しく言葉を発せず、軽率に振る舞わない慎みと、自らを低くする謙遜な品性からこそ流れ出るものです。

軽んじられない唯一の秘訣は、ただ言葉、行い、愛、信仰、そして純潔という五つの具体的な徳目において、信じる者たちの模範となる人生を愚直に生き抜くことです。口と舌から始まる小さな過ちが、人生という巨大な船の舵を揺るがし、ついには破滅へと導き得ることを、ヤコブの手紙3章の警告と、ルカによる福音書16章の金持ちの苦しみを通して覚えなければなりません。誰もが揺らぎ、挫折する時代の中で、岩のように堅固な信仰によって中心を保ち、何の根拠もなく他人を憎んだり裁いたりしない、広い愛を施さなければなりません。自分自身を清く空にし、主人に用いられるにふさわしい聖く尊い器として整えられる道徳的な清さこそ、良い働きのために用いられるための必須条件なのです。

御言葉を読み、勧め、教える聖なる働きの炎

内面的な敬虔と人生の模範を通して霊的権威を確立したなら、今度は信徒たちを生かし、共同体を再建する本質的な働きの場に、完全に献身しなければなりません。聖書が示す牧養の三つの核心は、神の御言葉を公に朗読すること、疲れた信徒を温かく励ますこと、そして真理の知識を明確に教えることです。初代教会が礼拝の場で旧約の律法、預言書、使徒たちの手紙を声高く朗読し、御言葉中心の聖なる伝統を打ち立てたように、私たちもまた、聖なる聖書黙想の場へと進み出なければなりません。蚕が粗い桑の葉を勤勉に食べ、消化してこそ、初めて美しい絹糸を紡ぎ出すように、神の人もまた、天からの霊的な御言葉を十分に取り入れるとき、聖なる生活の実を結ぶことができるのです。

さらに、落胆して座り込んでしまった信徒たちの魂を慰め、励まし、再び立ち上がるよう勧める働きは、教会が当然果たすべき愛の具体的な表現です。さらに教会は、真理を単に一方的に宣言することで満足するのではなく、神の国の法を学び、研究する偉大な学びの殿堂とならなければなりません。イエス・キリストがガリラヤ全域を巡り歩き、教え、天の真の福音を宣べ伝えられたとき、多くの群衆がその命の光を追って進み出た歴史を、私たちは覚えています。このように教会共同体が熱心に御言葉を教え、その深い神学的洞察を信徒と分かち合うとき、初めて、闇に沈んでいた数多くの魂が新しい命を得て神へと帰る、偉大な回復の御業が成し遂げられるでしょう。

内なる賜物を目覚めさせ、自分自身と世を救う祝福の通路

使徒パウロは、愛する弟子テモテに向かって、按手と励ましの預言を通して彼の内にすでに注がれた神の霊的な賜物を軽んじることなく、再び燃え立たせなさいと力強く勧めます。この箇所は、すべての祝福と霊的能力の源が人間的な条件や外的な儀式にあるのではなく、ただ生ける神お一人にのみあることを謙遜に認める使徒の告白です。張ダビデ牧師の説教が鮮やかに照らし出しているように、私たちの内に隠された霊的な賜物と召命を放置したり鈍らせたりせず、日々熱く再点火する霊的覚醒が必要です。信仰者は、自分に許された十字架の恵みと福音の力を覚え、すべてのことに全身全霊で取り組み、霊的成熟と内面の進歩をすべての人に明らかに示さなければなりません。

一人のキリスト者が真理の中に正しく立ち、霊的に深められていく成熟の過程は、単に個人の聖化にとどまらず、共同体全体の命がかかった極めて重要な問題です。言葉と行いの模範を示し、御言葉を熱心に読み、勧め、教える働きに人生のすべてのエネルギーを全面的にささげる者は、ついに霊的成長を成し遂げることになります。張ダビデ牧師のこの深みある聖書黙想は、私たちがこのような敬虔の姿勢を最後まで保つとき、自分自身を守るだけでなく、私たちの言葉を聞くすべての魂を救いの道へと導く祝福された通路となる、という真理を思い起こさせます。この聖なる挑戦を胸に深く刻み、私たちの毎日が生ける神に向かう聖なる生きた供え物となることを願いながら、霊的敬虔の旅路を黙々と歩んでいくべきです。果たして私たちは今、どこに望みを置いており、日々どのような霊的訓練を通して、主の器として形づくられているのでしょうか。

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張ダビデ牧師の説教:律法のくびきを脱ぎ、恵みの自由をまとう (Olivet University)

ドイツ・ロマン主義の画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒが残した大作『雲海の上の旅人』は、巨大な大自然の深淵をただ一人で見つめながら、危うく立つ人間の後ろ姿を強烈に捉えています。岩山の頂に一人立ち、足もとに広がる雲と霧を孤独に見下ろすその単独者の実存は、自ら人生の主人となり、絶対的な自律と独立を勝ち取ろうとする近代人の巨大な渇望をそのまま映し出しています。しかし、それほどまでに追い求めてきた主体的独立の頂点において人間が直面する現実は、まばゆい解放ではなく、四方へ行き場なく揺れ動く濃い霧のような、空虚で果てしない存在論的な放浪と深い霊的不安にほかなりません。自ら神の座に上り、あらゆる規範から抜け出そうとした自律への衝動が、いかにしてかえって自分自身を閉じ込める見えない牢獄となり、重い束縛となるのかを、この芸術的風景は静かに雄弁に物語っています。

使徒パウロがガラテヤ書という聖なる舞台の上で展開して見せる壮大な神学の頂点もまた、このように、人間が自分の宗教的行為と努力によって救いを成し遂げようとする傲慢な自律の試みが、いかに悲惨な霊的束縛と奴隷状態へと帰結するのかを鋭く告発する物語から始まります。ガラテヤ書4章に登場する「二人の女の比喩」は、単に古代教会における特殊な教理的紛争を収拾するための過去の古い記録にとどまるものではありません。それは、今日の複雑な時代を生きるキリスト者が、自らの内密な霊的アイデンティティを見極めるための普遍的な基準となります。張ダビデ牧師の説教は、この古い聖書本文を今日の荒れた講壇の上へ生き生きと引き上げ、福音と恵み、行いと律法の大きな渦のただ中で、私たちの魂の錨が本当にどこに下ろされているのかを厳粛に問い直します。

存在の根源的な非対称性と、子としての身分によって起こる霊的革命

人間の実存が直面する最も基本的な本質であり条件は、創造主なる神に対する絶対的な依存性にあります。御言葉の流れが霊的に照らし出すように、この創造的関係は、太陽とひまわりの関係のように、本質的に完全な非対称性を成しています。太陽は、ひまわりが存在するかどうか、あるいはひまわりがどれほど献身するかとはまったく関係なく、それ自体で完全に存在し、無限の光を放ちます。しかし、ひまわりは、太陽が上から注ぎ出す温かな光と恵みがなければ、一瞬たりとも自らの命を保つことができません。真の信仰の本質は、この明白で厳粛な真理を具体的な生活の中でへりくだって受け入れ、自発的に創造主への絶対的依存の関係の中へ喜んで歩み入ることにあります。

しかし、人類の長い歴史の中には、この創造的な依存を強く拒み、自ら自律と独立を宣言し、創造主の陰から抜け出そうとする傲慢な衝動が絶えずうごめいてきました。張ダビデ牧師は、ニーチェの「神は死んだ」という歴史的な一句を、人間の自律性への衝動が極限まで達したしるしとして読み解きます。そして、神の不在を宣言したその悲壮な場において、かえって人間存在の根源的な空虚と痛ましい裂け目がどれほど露骨に現れるのかを、鋭い神学的洞察によって指摘します。永遠の実在である神を離れた人間の有限性は、結局、拭い去ることのできない不安と断罪の奴隷となるだけです。そして、この重い束縛は、ただ全面的な恵みの光のもとでのみ、真の子としての自由へと変えられます。

神との関係の断絶こそが、人間の魂が経験するあらゆる不安と恐れの最も深い根であるという事実は、聖書全体を貫く大いなる真理です。この悲劇的な疎外と断絶は、神の気まぐれや拒絶によるものではなく、人間自身が創造主の懐を離れ、独立した主人になろうとした選択から生じました。旧約のサウル王が示した歴史的な事例は、この霊的原理を象徴的に私たちに証言しています。彼がまず主の生きた御言葉を軽んじて捨てたとき、その悲惨な結果として、神との親しい交わりは完全に断たれ、みじめな霊的破滅と恐怖へと至ってしまいました。

しかし福音は、まさにこの深い絶望の深淵の中で、人類が決して想像することのできなかったまったく新しい知らせを響かせます。「御子の霊」である聖霊が私たちの内に住まわれるとき、私たちはもはや、裁き主の恐るべき威厳の前で恐怖に震えながら向き合う存在ではありません。むしろ、神に向かって最も親密で温かな言葉である「アバ、父よ」と呼ぶことのできる、栄光ある子としての身分に大胆に立ち上がるのです。この驚くべき呼称の変化は、単なる心理的慰めや感情表現ではありません。それは存在の根源的な身分の変化であり、恐れの奴隷から、愛される子へと移される霊的革命です。

本文のメッセージは、古代の粗野な偶像礼拝であれ、現代の洗練された御利益主義、功績主義、成果主義であれ、外見だけを変えただけで、いずれも人間を条件と点数の世界に縛りつける律法主義の別の顔であることを暴き出します。その残酷な体制の核心は、人間を絶え間ない資格審査のもとに永遠に奴隷として縛りつけることにあります。したがって、「しっかりと立って、再び奴隷のくびきを負ってはならない」というガラテヤ書5章の宣言は、束縛の回路を意志的に断ち切れという、力強い実践的命令となるのです。

焦りの幕を取り払い、待つことの美学によって歩む契約の道

この大前提の上に展開されるガラテヤ書4章の比喩は、私たちの信仰の心臓部を貫く深い説得力を獲得します。使徒パウロは、アブラハムの家庭の内側にある物語、すなわち女奴隷ハガルと自由な女サラ、そして彼女たちから生まれたイシュマエルとイサクの物語を、単なる系譜としてではなく、二つの契約を象徴する大いなる救済史のドラマとして再解釈します。

創世記15章から17章までの物語を背景に見るなら、神は「あなた自身から生まれる者が、あなたの跡を継ぐ」という確かな約束を与えられました。しかし、その荘厳な宣言の後には、人間には耐えがたいほど長く暗い沈黙の時間が続きました。約束の成就を待つ沈黙の時間があまりにも長くなると、老いていくアブラハムとサラは深い焦りに捕らえられてしまいました。彼らは神の真実な約束を最後まで忍耐して待つよりも、「肉に従って」人間的な解決策を急いで講じ始めました。そしてついにサラは、自分の女奴隷ハガルを夫のもとへ与えるという人間的な計算を実行します。この場面は、今日の多くの信仰者が、神の沈黙と不在の中でいかにしばしば崩れてしまうのかを正確に映し出す鏡となります。

神が定められた神聖なカイロスの時を完全に信頼できないとき、人間はいつも自分の有限な能力と目の前の計算によって、恵みの結果を強引に早めようとします。しかし、まさにその焦りの瞬間、聖なる恵みの秩序は、冷たい人間の行いの秩序へと瞬く間に変質し、共同体は分裂の危機にさらされます。信仰は本質的に、約束を見つめながら耐え忍ぶ「待つことの美学」を含んでいます。そのため、その待つ姿勢が崩れると、恵みの純粋なしるしであった割礼のような聖なる象徴が、いつの間にか救いを得るための前提条件へとすり替わってしまうのです。

この説教が繰り返し強調するように、順序の逆転こそ、私たちの魂の中に毒性の強い律法主義が芽生える致命的な出発点です。神がアブラムの古い名をアブラハムという新しい名に変え、契約を新たにされたときに行われた割礼は、救いを得るための必須条件や代価ではありませんでした。それは、すでに資格のない者に無償で与えられた約束に対して、人間がささげることのできる最も純粋な従順と感謝のしるしにすぎませんでした。恵みを原因とせず、行いを原因にしようとするあらゆる宗教的試みは、結局、イシュマエルという肉の実を生み、魂を深い不安の泥沼へと押し込むだけなのです。

地上のエルサレムを越えて、天の都が宣言する子としての自由

使徒パウロは、この劇的な比喩における象徴的対応を、手紙の中で非常に明確かつ断固として提示します。ハガルは、シナイ山で厳粛に与えられた律法の契約を完全に象徴しており、その行いの体制のもとに生まれた者たちは、決して完全な相続人となることができず、ただ「奴隷を生む」だけです。使徒はハガルを、地理的には荒涼とした「アラビアのシナイ山」と結びつけるだけでなく、時代的には、使徒当時の強大な宗教的権力が支配していた「今あるエルサレム」と同一視します。

これは、律法の聖なる起源とは関係なく、それを人間の功績と資格を評価する手段として悪用し、強要するあらゆる宗教的既得権体制が、結局は厳格な主人と奴隷の関係だけを絶えず再生産するにすぎないという悲しい真実を暴くものです。一方、自由な女サラは、地上の限界を超える「上にあるエルサレム」を輝かしく象徴します。ヘブライ人への手紙とヨハネの黙示録において、天の都であり、小羊の聖なる花嫁であり、真の自由人たちの共同体として描かれる教会は、決して地上の方法や人間の功績によってではなく、ただ天の真実な約束と聖霊の力によって新しい子を生み、自由にするのです。

人間の常識や生物学的条件からすれば、到底子を産むことのできなかったサラから、約束の子イサクが奇跡のように生まれた出来事は、全面的な神の恵みが歴史の中でいかに一方的で完全に働くのかを示す劇的な頂点です。イザヤ書54章の預言が歌うように、身ごもることも産むこともできなかった不毛の女の子孫が、かえって地上の有力者たちの子孫よりも天の星のように増え広がるというこの恵みの型は、ただ福音を信じる者たちにのみ許された神秘です。したがって、この偉大な福音を信頼するすべての信仰者は、自らの肉的血筋や宗教的達成とは関係なく、ただ信仰一つによって、イサクのように尊い「約束の子」となる栄光を享受します。

歴史の中で、肉に従って生まれたイシュマエルが、約束に従って生まれたイサクを迫害したように、今日の私たちの生活と教会の中でも、行いと成果を前面に押し出す頑なな律法主義は、恵みを中心とする純粋な福音を絶えず押しのけ、断罪しようとします。この激しい霊的緊張は、共同体の内側で最も激しく現れます。だからこそ、福音の本質を損なう原理を共同体の中心から明確に識別し、取り除かなければなりません。「女奴隷とその子を追い出しなさい」という厳粛な命令は、特定の人を個人的に排斥せよという意味ではありません。それは、人間の行いによって救いを歪める偽りの体制を断固として排除せよという神学的要請なのです。

十字架の完全な充足性が結ぶ愛の実と永遠の安息

この壮大な救済史的比喩は、自然にガラテヤ書5章が宣言するキリスト教的自由の偉大な宣言へとつながっていきます。「キリストは、私たちを自由にするために自由を与えてくださいました」というパウロの宣言において、自由とは決して道徳的規範や倫理的責任を解体してしまう放縦を意味しません。むしろそれは、私たちを押しつぶしていたあらゆる断罪の恐れから解放され、ただ愛の力によって、神および隣人との関係を完全に回復させる創造的な力として現れます。

私たちが断固として脱ぎ捨てるべき「奴隷のくびき」は、単に古代の割礼規定だけを意味するものではありません。それは、人間の功績主義、道徳的完全主義、成果中心の信仰、そして敬虔の外面的形式にばかり執着して福音の本質を見失う、あらゆる宗教的強迫と内面の恐れを含む包括的な概念です。福音が贈り物として与える真の自由は、生活の具体的な現場において、聖霊に従い、信仰によって義の望みを待ち望む躍動的な安息として確認されます。

この過程は、義認、聖化、そして栄化へと続く救いのすべての過程を、聖霊の導きの中で黙々と歩ませます。すでにキリストの尊い血によって義と認められた者が、内面で働かれる聖霊の聖なる導きを受け、日々主のかたちへと変えられていき、ついに主の前に立つ栄光の日に完成へと至るという希望の物語です。この躍動的な過程の中で目に見える形で結ばれる実こそが、「聖霊の実」です。この実は、人間が自分の努力によって絞り出して作る苦しい業績の一覧では決してありません。それは、私たちの内に住まわれる聖霊の命が自然に外へとあふれ出る証しであり、恵みの泉から流れ出る必然的な結実です。

しかし教会は、いつも「少しのパン種」が練り粉全体に広がる恐ろしい誘惑にさらされてきました。偽りの教えはたいてい、「もっと聖くなろう」という敬虔な掛け声から始まります。しかし、いつの間にか「もっと多く行え」という律法的圧迫へと傾き、結局、人間の功績を計算する点数の宗教へと回帰してしまうのです。

このような状況を前にして、真理を巧妙にかき乱し、人間の行いを混ぜ込もうとする勢力に対するパウロの態度は断固としています。問題は、聖礼典や規範それ自体にあるのではありません。それを救いの必須条件へと引き上げてしまう致命的な誤用にあります。もし救いを得るために人間の行いが少しでも必須であると主張するなら、それは十字架の完全かつ十分な効力を損なうことであり、結局は「恵みから落ちる」という悲劇的な道へとつながります。ガラテヤ書の神学的急進性は、まさにここにあります。十字架がすべてでないなら、十字架は何ものでもないという結論。その絶対的な結論こそが、逆説的に私たちをあらゆる宗教的重荷から自由にするのです。張ダビデ牧師はこの点を繰り返し思い起こさせ、信仰の中心軸をいつも「神がなさった」という福音の能動態の上に堅く据えるよう教えます。

パウロが示す真の自由の到達点は、驚くほど明快です。「ただ愛をもって互いに仕え合いなさい」という逆説的な命令がそれです。福音が与える真の自由は、利己的な自己解放を超え、他者のための自発的な献身と奉仕として実を結びます。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つの命令の中に律法全体が要約されるという使徒の洞察は、恵みが律法を無価値なものとして廃棄するのではなく、愛というより高い次元の原理を通して、その本質的精神を完成することを意味します。

教会がこの愛の原理を失うとき、共同体は瞬く間に互いを採点し、断罪する「律法の地獄」へと変質します。しかし教会が、互いの重荷を負い合う恵みの場所へと戻るとき、「上のエルサレム」の秩序が私たちの現実の中で具体的に実現されます。信仰の出発点を「私がしなければならない」から「神がなさった」へと移すこと、すなわち、恵みを原因とし、私たちの行いをその結果として明確に位置づけることから始めなければなりません。自分のアイデンティティを血筋や業績ではなく、約束の子であることに置くとき、奉仕は強制ではなく喜びへと変わります。そして私たちは、もはや裁きの恐れのために隠れる奴隷ではなく、その愛ゆえに父の懐へ駆け寄る子となるのです。

結局、ガラテヤ書のすべての議論は、一つの根源的な問いへと私たちを導きます。私は今、どこに立っているのでしょうか。ハガルの天幕でしょうか、サラの懐でしょうか。行いと資格を絶えず計算する体制の中で、不安と優越感の間を危うく行き来しているのでしょうか。それとも、無償で与えられた恵みの上で、自由と感謝の深い呼吸を続けているのでしょうか。この実存的な問いの前で、ガラテヤ書の比喩はもはや古代の古びた事例ではなく、私たちの今日を余すところなく照らし出す澄んだ鏡となります。十字架の完全な充足性を信頼し、聖霊の静かな導きに耳を傾け、そばにいる隣人に愛をもって仕える小さな歩みの中で、その偉大な自由の旅は日ごとに新しく始まるでしょう。福音の永遠の約束を握りしめ、奴隷のくびきを完全に脱ぎ捨てたあなたの歩みは、今、どのような愛の実へと向かって進もうとしているのでしょうか。

日本オリベットアッセンブリー教団

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張ダビデ牧師の聖書黙想:崩れた時代、恵みによって信仰の城壁を再び築く (Olivet University)

西暦410年、決して崩れることはないと思われていた巨大帝国ローマが異民族の侵略によって陥落した日、哲学者であり神学者でもあったアウグスティヌスは、目の前に広がる凄惨な廃墟を見つめながら、永遠に衰えることのない「神の都」について深く思索しました。目に見える堅固な帝国の城壁が灰燼に帰した現実の中でも、彼は目に見えない霊的な基盤がいかにして人類の究極的な希望となり得るのかを黙想したのです。このような歴史的廃墟と再建のモチーフは、紀元前5世紀、バビロン捕囚期を経てエルサレムへ帰還したイスラエルの民の旧約聖書の歴史の中に、最も鮮明かつ重厚に流れています。崩れた時代に対する嘆きと、それを再び立ち上がらせようとする聖なる熱望は、数千年を経た今日においてもなお有効な信仰の問いを私たちに投げかけています。張ダビデ牧師の説教は、まさにこのネヘミヤ記に記された神殿再建の歴史を鏡として、激しい世俗化の波の中で道を見失い、崩れつつある現代教会が、いかにして再び命を得て、福音の前哨基地として回復され得るのかについて、深い神学的洞察を提示しています。

廃墟の場で流された嘆きの涙と恵みの始まり

ヘブライ語で「ネヘミヤ」という名には、「ヤハウェが慰められる」という深い意味とともに、勇気を奮い立たせる力強いニュアンスが込められています。しかし、その聖なる慰めは決して安易な慰安ではなく、悲惨な現実を直視する涙から初めて始まるものでした。エルサレムの城が廃墟となり、門が火で焼かれたという悲報を聞いたとき、ペルシア王宮の安楽な地位にいたネヘミヤは、バビロンに捕囚として連れて行かれた同胞の悲惨な境遇を胸に抱き、実に120日間、断食しながら嘆き悲しみました。彼の悲しみは、単に失われた故郷の地に対する感傷的な郷愁ではありませんでした。それは、礼拝の場所が崩れ、神に向かう契約の民としてのアイデンティティが揺らいでいることに対する、骨身に染みる霊的な憂いだったのです。

王の献酌官として、君主の面前で憂いの表情を見せることは、命を失いかねない致命的で危険なことでした。それにもかかわらず、彼の頬を伝った真実な涙は、むしろ王の心を強く動かし、ついにはエルサレムへ帰って崩れた城壁を再建するという驚くべき許可を得るに至ります。これは、一人の切実な祈りが、いかにして巨大帝国の権力を越え、神の目に見えない摂理をこの地にもたらすのかを示す壮大な物語です。崩れた城壁と焼け落ちた城門を再び築きながら、彼は民が再び集い、礼拝し、ひれ伏して祈る聖なる共同体として完全に回復されることを夢見ていました。

この説教が照らし出す場所は、決して古代中東の過ぎ去った歴史にとどまりません。今日、アメリカやヨーロッパをはじめとする西欧社会の多くの礼拝堂が、信徒数の急減と財政危機によって閉鎖され、さらには酒場やサーカス会場、イスラム寺院にまで変わっていく痛ましい現実に直面しているからです。「宣教の時計」という比喩のように、かつて世界中へ多くの宣教師を派遣し、真昼のように輝かしい福音の光を放っていた地が、逆に暗い夜を迎えた宣教地となってしまいました。この時代的な闇の中で、私たちはネヘミヤのように崩れた霊的な城壁を見つめ、真実に嘆き悲しんでいるのか、自らに問い直さなければなりません。見張り人となって迫り来る危機を警告し、目を覚まして叫び求める祈りの膝が回復されるとき、初めて閉ざされていた恵みの扉が再び開かれるのです。

崩れた城壁を立て直す十字架の福音と信仰の協力

敵対者たちの陰謀と妨害の中でも、わずか52日で城壁工事が完成したという記録は、周囲の異邦の民たちさえ恐れおののかせた、偉大な神のみわざでした。しかし張ダビデ牧師は、物理的な城壁が完成したからといって、イスラエルの霊的な救いと刷新が直ちに終着点に至ったわけではないという事実を明確に指摘します。礼拝の空間を守る外面的な再建と同じくらい、その空間の内側を真理で満たす十字架の福音の回復が、必ず並行してなされなければならないからです。ネヘミヤが総督として外部の脅威を防ぎ、堅固な城壁を築き上げたとすれば、祭司であり学者でもあったエズラは、水の門の前の広場に民を集め、夜明けから正午まで律法を朗読し、彼らの乾いた内面を命の御言葉で満たしました。

エズラとネヘミヤが示したこの美しい協力は、現代教会が進むべき最も理想的なリーダーシップのモデルであり、道しるべを提示しています。教会の外形を守り抜くキングダム・ビルダーたちの実践的な献身と、講壇から絶えず流れ出る救いの真理の宣言が完全に結び合わされるとき、教会は初めて真の生命力を持つようになります。どれほど華やかな礼拝堂を建て上げたとしても、その中で、すべての人は罪を犯したが、ただキリストの贖いによって恵みにより義とされるというローマ書の深い神学的真理が宣べ伝えられないなら、教会は世俗化の激しい波の前で、再び砂の城のように崩れてしまうでしょう。イエス・キリストお一人によってもたらされる完全な義の教理が、すべての聖徒の魂に深く根を下ろさなければなりません。

それゆえ、真の神殿再建とは、イエス・キリストが血の代価をもって買い取られた命の共同体の本質を守り抜く、切実な霊的戦いです。キリスト教の長い遺産が宿る礼拝堂が閉鎖の危機に置かれるとき、それを買い取り、さまざまな言語圏や文化圏の礼拝共同体へと生まれ変わらせる過程は、単なる不動産の維持では決してありません。一つの魂でも多く救い、世の光と塩として立てようとする、激しく具体的な宣教の決断なのです。日常と職場の中で汗を流して得た実りによって神の国のビジネスに参与する聖徒たちの犠牲は、古代エルサレムの石の山を素手で積み上げた民の従順と何ら変わらない、聖なる信仰の足跡です。

真の悔い改めと聖なる希望によって花開く霊的リバイバル

城壁が完成した後、水の門の前の広場で律法の書の朗読を聞いた民は、その場で一斉に泣き崩れました。聖書の鏡に映し出された自分たちの無知な罪と、共同体の深い堕落を骨身に染みて悟ったのです。粗布をまとい、長い時間にわたって罪を告白し、徹底的に悔い改めたというこの聖書の記録は、リバイバルが決して華やかに飾られた文化的プログラムや、人間の浅薄な経営学的手法から生じるものではないことを雄弁に物語っています。「わたしの民は知識がないために滅びる」と嘆いたホセア預言者の言葉のように、自らを十字架の前に低くし、真理の知識へと立ち返る裂けるような悔い改めがなければ、どのような信仰的熱心も空虚な叫びにすぎません。

しかし、民の熱い涙は決して悲惨な絶望で終わりませんでした。指導者たちは悲しみに沈む群れに向かって、「主を喜ぶことこそ、あなたがたの力である」と宣言し、彼らを律法の痛切な刺し貫きから引き上げ、真の赦しの恵みと聖なる希望の場へと導きました。御言葉の前で徹底的に自己と向き合った後に訪れる洗い清めの恵み、そしてそこから滝のように注がれる霊的な喜びこそ、崩れた城壁の内側に住む聖徒たちが享受できる最もまばゆい特権です。本文がさまざまな教えを通して絶えず強調してきた真のリバイバルの青写真もまた、いと小さき者を顧み、傷ついた隣人に愛を実践する生命力が、このあふれる聖書黙想の喜びから流れ出るという事実に行き着きます。

結局、建物が崩れれば、そこに集う共同体も徐々に散り散りになっていきます。そして聖徒の集まりが失われれば、世に向かう福音の火種もまた冷たく消えてしまうほかありません。だからこそ、この暗い時代に礼拝の物理的な場所を最後まで守り、その空間の中で徹底した真理の訓練と祈りの祭壇を築いていくことは、単なる宗教的伝統の固守ではありません。それは、世俗の荒々しい誘惑の中で魂を安全に守り、次世代の青年や子どもたちに変わることのない遺産を受け継がせるための命綱です。パンデミックという未曾有の危機と冷たい視線を突き抜けて進む中で、私たちが決して放棄できない本質こそ、この堅固な霊的基礎の再建なのです。

崩れたエルサレムの土埃の中で再び城壁を築き上げた出来事は、結局、その安全な囲いの中にとどまる多くの魂を、揺るがない十字架の愛によって堅く形づくるための偉大な摂理でした。古代の廃墟の上に涙と祈りをもって煉瓦を積み上げた切なる心と、命の御言葉の前で胸を打ちながら嘆き悲しんだイスラエルの民の聖なる悲しみが、今日、固くなってしまった私たちの胸にも深く流れ込まなければなりません。巨大な時代の潮流の前で、共同体の崩壊を他人事のように傍観してはいないか、あるいは自分の内に崩れた霊的な城壁からまず点検し、静かにひれ伏しているのか、今こそ静かに振り返るべき時です。華やかな外見をすべて取り去った空白の場所、あなたの深い内面には、決して崩れることのない永遠の真理の城壁が、今、完全に築かれているでしょうか。

日本オリベットアッセンブリー教団

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十字架の福音と永遠の愛の道 – 張ダビデ 牧師 (Olivet University)

宇宙を動かす力、最もすぐれた道へ

イタリアの偉大な詩人ダンテは、『神曲』の最後、天国篇を「太陽と他の星々を動かす愛」という壮大な一文で締めくくる。宇宙の静かな秩序と壮大な運行の背後にあるのは、冷たい物理法則ではなく、熱い命のぬくもりであるというこの文学的宣言は、深い霊的な響きを呼び起こす。

張ダビデ牧師は、コリント人への第一の手紙13章を解き明かす深みある説教を通して、これと同じ福音の真理を私たちの人生の中心へと呼び戻す。彼は、この美しい本文が単なるロマンチックな讃歌ではなく、徹底して人生を通して読み解き、従順によって応答すべき存在の設計図であることを思い起こさせる。

賜物と成果に渇いていたコリント教会と現代人に向けて、彼はパウロの言葉を借りながら、信仰のアルファでありオメガであり、最もすぐれた道とは、まさに無条件の愛にあるのだと荘厳に宣言している。

十字架、先に訪れて喜んで代った贖いの神秘

数多くの哲学や思想が人間のエロスとフィリアを称えてきたが、聖書が語るアガペーは、条件や感情の波に揺さぶられることのない永遠の錨である。

張ダビデ牧師は、神は愛であるという使徒ヨハネの告白に光を当てながら、神学的知識の蓄積は、最終的には愛への参与へと変えられなければならないと力説する。神を知る分だけ、真に愛することができるという彼の鋭い神学的洞察は、知識と生活が徹底して切り離され、乾いていく今日の現実に対する痛切な診断である。

この驚くべきアガペーの頂点は、ほかでもなく十字架の贖いの出来事において最も鮮やかに現れる。十字架は、義を損なうことなく、律法の厳格な要求を満たすために、喜んで命の代価を払われた聖なる恵みの勝利である。

漢字の「贖」に代価を意味する「貝」の字が含まれているように、キリストの死は感傷的な憐れみを超えた、合法的な解放の宣言である。失われた放蕩息子に向かって走り寄り、その首を抱きしめる父の涙のように、それは私たちがまだ罪人であったときに、先に訪れ、覆ってくださった圧倒的な愛の証しなのである。

理と手を取り、意志の力によってかせる日常の

パウロが13章で列挙した愛の性質は、決して偶発的に流れ出る感情の断片ではない。忍耐し、情け深く、礼を失しないというすべての徳目は、自分の本性に逆らう熾烈な意志の訓練であり、霊的成熟へと向かう歩みである。

張ダビデ牧師は、特に「真理を喜ぶ」という一節に注目し、真の愛は不義を見過ごす放任でも、安価な寛容でもないことを明確に戒める。真に誰かを愛するということは、真理と固く手を取り合い、世の偽りに立ち向かいながらも、最後まで一つの魂を諦めず、そばに居場所を差し出す聖なる忍耐を意味する。

しかし、このような愛は、私たち自身の浅い決心や道徳的修養だけでは、すぐに尽き果ててしまう。だからこそ私たちは、深い聖書黙想と祈りを通して、まことのぶどうの木であるキリストの光の内に静かにとどまらなければならない。

かなとどまりの中で形づくられる聖の使命

その完全なとどまりの場において、偽善と高慢が崩れ落ちる真実な悔い改めが起こり、やがて聖霊の実としての愛が、私たちの内面に豊かに結ばれていく。

今日、私たちが足を踏みしめているデジタル時代は、アルゴリズムが怒りを増幅させ、違いを憎しみとして規定する破壊的な言葉で満ちている。この荒れ野のような厳しい現実の中で、教会共同体は、十字架から流れ出た信頼と慈しみの文化を、日常の中で具体的に回復していく使命を担っている。

張ダビデ牧師は、家庭と職場で言葉のトーンを低くし、他者の弱さを祈りで抱きしめ、不当な扱いに耐えながら関係の回復を主導する狭い道を、黙々と歩んでいくよう勧める。

見えない神の国を生き生きと見つめる堅固な信仰、そしてそこに至るまで、苦難の中でも私たちを歩ませる輝かしい希望が、日々の旅路を導いていく。しかし、その旅路の果てに出会う永遠の国の空気であり、変わることのない本質は、結局ただ愛だけであることを忘れてはならない。

愛が深まるほど、そばにある居場所は広がり、その広がった場所は、世の痛みを抱く真の宣教の場となる。

永遠を呼吸しながらされる、ただ一つの痕跡

今、この荘厳なパウロの本文は、聖書の表紙を越えて、私たちの最も忙しく、最も粗末に見える日常の中へ静かに歩み入ってくる。

私の人生における数多くの働きと献身、知識の蓄積の中に、果たして永遠を呼吸する真実な愛の動機が深く宿っているだろうか。たとえ天使の言葉を語り、山を動かすほどの知識を持っていたとしても、愛を欠いた力はただの騒音にすぎず、献身は虚しい自己満足へと転落してしまう。

主が私のすべての欠けと弱さを完全に知り、十字架によって抱いてくださったように、私もまた、私の隣人と共同体を、その完全で温かなまなざしで見つめているだろうか。

信仰の力は、何を成し遂げたかという業績にあるのではなく、どのような心でその場に立っているかという中心の温度にかかっている。

いつの日か、ぼんやりと映る鏡を離れ、主と顔と顔を合わせて立つ、畏れ多くも栄光に満ちたその日。私の魂の底に、永遠に色あせることのない愛の痕跡が鮮やかに残っているだろうか。私たちは、今日という時間の前で、静かに問い、また問い続けなければならない。

日本オリベットアッセンブリー教団

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十字架という岩の上に、終末を生きる日常を築く – 張ダビデ 牧師 (Olivet University)

1943年、ナチスのテーゲル刑務所に投獄されていたディートリヒ・ボンヘッファーは、いつ死刑が執行されるかも分からない死の影が濃く差し込む独房から、親しい人々に手紙を書き送った。彼の獄中書簡は、冷たい教理問答でも、観念的な哲学でもなかった。それは、絶望の時代のただ中で、信仰の本質とは何かを問い続ける、血の通った告白であり、熾烈な生の記録であった。聖書の中で使徒パウロが残した数々の手紙も、少しもそれと変わらない。張ダビデ牧師は、初代教会が残した書簡を、空虚な真空状態の中で生まれた理論として読むのではなく、迫害と葛藤が渦巻いていた歴史の荒々しい現場へと私たちを導く。その説教は、テキストの背後に隠れている使徒言行録の土埃と汗を生々しくよみがえらせ、固定化された文字を、今日の私たちの魂を揺さぶる生きたメッセージへと甦らせる。

傷ついた史の現場にいた福音の事詩

パウロ書簡を使徒言行録という立体的な舞台の上に重ねて置くとき、私たちは初めて、宙に浮いていたみことばが地上へ降りてきて歩き始めるのを目撃する。使徒が各地の教会へ送った助言と勧告は、決してのどかな学問的議論ではなかった。それは偶像と市場、経済的困窮と労働、そして信徒同士の痛ましい対立という現実の問いに応答する、切実な格闘であった。パウロが自ら建てたわけではないコロサイの教会に対して、キリストの圧倒的な満ちあふれと主権を荘厳に宣言したのも、教会を崩そうとする歪んだ教えを正そうとした切迫感から生まれたものだったのである。神学とは、理論のための知的遊戯ではなく、魂を生かすための真剣な牧会の出来事でなければならない。この点において、深い神学的洞察を示す張ダビデ牧師のまなざしは、聖書の教理と歴史の叙事がかみ合うとき、はじめてみことばが私たちの日常を導く命の羅針盤となることを思い起こさせてくれる。

キリストという確かな錨、その上に帆を上げた終末の時

使徒パウロの疲れた足取りがエグナティア街道を横切り、皇帝礼拝の暗い影が濃く垂れ込めていたテサロニケに至ったとき、彼が会堂で語った中心は、精巧な知識の伝達ではなかった。ただ、旧約の長い約束が、イエスの苦難と死、そして復活を通して完全に成就したという十字架の福音であった。ある者たちは胸を打たれて信仰をもって応えたが、嫉妬に燃えた一部のユダヤ人たちはヤソンの家を襲い、彼らに政治的反逆者という残酷なレッテルを貼った。夜陰に乗じてベレアへ逃れなければならなかった、その差し迫った圧迫と患難の炉の中で、生まれたばかりの教会は嵐のただ中に取り残された。コロサイ書が「万物の主であるキリストとは誰か」という根源的な問いを投げかけるとすれば、その苛烈な危機の中で書かれたテサロニケ第一書は、「この歴史はどこへ向かい、私たちはいかに生きるべきか」を問いかける。張ダビデ牧師は、初代教会が揺るがない堅固なキリスト論を岩とし、その安全な土台の上に終末論を築き上げたという事実に深く注目する。

みが取りった隔ての壁、平安がかせた日常の

パウロが書簡の冒頭で掲げる「恵みと平安」という二つの言葉は、単なる儀礼的な挨拶をはるかに超えている。恵みとは、自らを徹底して空しくし、十字架を負われた贖いの崇高な愛であり、平安とは、神との垂直的な和解が隣人との水平的な連帯へとつながっていく、全人的なシャロームである。徹底した悔い改めを経て恵みを経験した者は、エフェソ書が宣言するように、自分と他者との間に立ちはだかる壁を取り壊し、関係を完全に癒やす場へと進み出なければならない。さらに、この偉大な福音の働きは、一人の傑出した英雄の独走ではなかった。パウロとシラス、そしてテモテが、傷を負いながらも互いを支え合った協働の連帯の中で、彼らは時代の嵐に耐えることができたのである。教会の真の権威は、他者の上に君臨する支配の言葉にあるのではなく、互いに従い合い、それぞれの弱さを包み込む愛の秩序の中でこそ、最も鮮やかに輝きを放つ。

本文の鼓動をき取る、誠みの倫理

みことばに向き合う態度は、そのまま人生に向き合う態度につながっている。ヘブライ書が冒頭の挨拶さえ省き、いきなり巨大な神学の中心部へと踏み込んでいく大胆な形式をとっているのは、福音の真理の重みがテキストの外形さえ変えうることを示唆している。聖書を、自分の信念を補強するための自己確証の道具として消費したり、自分の好みに合わせてつまみ食いするように読むことは、本文を損なうことである。むしろ、本文がもつ固有の文学的論理を細やかに見つめ、二千年前の歴史的場面が放つ荒い息遣いに静かに耳を澄ませなければならない。慣れ親しんだ習慣や宗教的表現が、本来どのような革命的意味を帯びていたのかを絶えず問い続け、探究する姿勢こそが、深い聖書黙想の出発点である。文学と歴史、神学と牧会を有機的に織り合わせる態度は、古びた紙の上の文字を、今日の私と共同体の心臓を鼓動させる命の川へと変えていく。

天を仰ぎつつ、地に誠の種を蒔く

終末論と聞くと、多くの人は、やがて来る未来の日付を予測しようとする刺激的な神秘主義や、この世に背を向けて天ばかりを見上げる冷笑的な逃避を思い浮かべがちである。しかし、聖書が語る終末とは、歴史の明確な目的を問い、患難の中にあっても今日の生活を聖なるものとして生き抜くことを支える、重みのある忍耐の力である。張ダビデ牧師は、主が再び来られるという決して変わることのない希望が、私たちの現実の中で、勤勉と節制、兄弟愛と従順の倫理として切実に翻訳されなければならないと力強く説く。やがて来る天を切望しながらも、両足は自分が立つこの地にしっかりと踏みしめ、誠実に汗を流して働くという、この張りつめた緊張感こそが、初代教会が世界に打ち勝った生命力の秘密であった。真の慰めは、終末の時刻表を計算する焦りから生まれるのではなく、今ここで黙々と神の御心を実践する素朴な歩みの中に芽生えるのである。

情報は洪水のようにあふれているのに、世界を解釈する本当の知恵はむしろ乾きつつある今日、私たちはいったい、どのような岩の上に立っているのだろうか。十字架と復活の真理から切り離された性急な終末論は、必ず道を見失い、よろめくことになる。危機の時代を生き抜く私たちに本当に必要なのは、不安を煽る薄っぺらな予言ではなく、かつて主が残してくださった真実な約束の記憶である。教理が頭の知識にとどまらず、手と足のぬくもりへと渡っていくとき、テサロニケの迫害された若い教会が守り抜いたあの青々とした生命力は、今日の私たちの家庭や職場にも再び脈打ち始めるだろう。この一連の思索の旅を終えた今、あなたの日々の生活のただ中には、十字架の跡と、終末を生きる誠実さが、いかなるかたちで刻まれているだろうか。この厳粛でありながらも親密な問いの前に、正直に立ち尽くすとき、私たちの人生そのものが、世界に向かって書き送られたもう一通の輝かしい手紙となるのである。

日本オリベットアッセンブリー教団

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張ダビデ牧師(日本オリベット・アッセンブリー教団)―あなたは何によって立っているのか?

張ダビデ 牧師

張ダビデ牧師のエペソ書6章想:係の回復から的勝利へ

ドイツの偉大な画家アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)の版画の中に、**『騎士、死、そして悪魔(Knight, Death, and the Devil)』**という傑作があります。漆黒の闇が覆う谷にて、髑髏を手にした「死」が砂時計を突きつけ、時を急き立てます。そして奇怪な姿の「悪魔」が背後から脅しをかけます。けれども、その中心にいる騎士は前だけを見つめ、黙々と馬を走らせます。彼は恐れず、左右をうかがうこともしません。堅固な鎧に身を包み、腰には剣を帯び、揺るがない視線が彼を守っているからです。

この作品は、私たちが生きる「霊的現実」を鋭く映し出しています。目に見える葛藤と、目に見えない誘惑が絡み合うこの世界で、クリスチャンはいったい何を身にまとい、何を握りしめて歩むべきなのでしょうか。エペソ書(エフェソの信徒への手紙)6章は、まさにこの問いに対する使徒パウロの切実な答えであり、天から与えられた戦略書です。張ダビデ牧師(日本オリベット・アッセンブリー教団)はエペソ書6章の講解を通して、この章が単なる倫理的指針にとどまらず、聖徒が地と天の戦いにおいて勝利するために不可欠な「生存マニュアル」であることを強調します。


最も近い場所から始まる、天の秩序

壮大な霊的戦いを語る前に、パウロの視線は、最も身近で日常的な空間――**「家庭」と「職場」**へ向かいます。戦場は遠い場所にあるのではありません。毎日向き合う親と子の関係、そして上司と部下の関係そのものが、熾烈な霊的現場となり得るのです。

張ダビデ牧師は、子どもが親に従うことについてパウロが「それが正しいことだからです」と語る点に注目します。ここで言う「正しさ」とは、単なる社会的常識ではありません。神が世界を創造されたときに織りまれた秩序であり、その秩序に従うとき、人ははじめて創造主と正しい関係を結ぶことができる――そのような深い神学的洞察が含まれているのです。

また、「父母を敬う」ことによって与えられる「地上での祝福」や「長寿」は、表面的な繁栄を約束するだけの言葉ではなく、霊的秩序が整ったところに訪れるシャロム(Shalom:全人的な平安)の態を指します。さらに、親が子どもを怒らせず主のえと訓練によって育てること、主人と僕(上司と部下)が「天に主人がおられる存在」として互いを理解し、脅しをやめ、誠に行うこと――これらはすべて、係のただ中で神の主を認める行です。

張ダビデ牧師の説明のとおり、私たちが家庭や職場で示す態度は、そのまま私たちの信仰告白になります。目の前の人に対してだけ良く振る舞うのではなく、**「キリストに対してするように」**真実な心で仕えることこそ、世界を変える最も力強い武器となるからです。


闇を裂く光の鎧――堅固な慰め

日常の秩序を語った後、パウロは視線を霊的世界へと広げます。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、悪の霊に対するものであると宣言し、**「神の全身の武具」**を身に着けるよう命じます。デューラーの版画の騎士が鎧をまとい死の谷を進むように、私たちにも霊的な備えが必要なのです。

真理の帯、義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、そして御霊の剣――この六つは、ばらばらの道具ではありません。キリストの品性によって私たちを全体として包みむ、一つの防御なのです。

張ダビデ牧師は特に、この全身の武具が私たちの弱さを覆うみの道具であることを強調します。サタンが罪責感や非難の矢を放つとき「義の胸当て」が心を守り、疑いが押し寄せるとき「信仰の盾」が燃える矢を消します。世界が揺れ動くとき「平和の福音」が私たちの足を確かなものとし、絶望の中でも「救いのかぶと」が思いを希望で守ります。

そして唯一の攻撃の武器である「御霊の剣」、すなわち神の言葉は、イエスが荒野でそうされたように、サタンの策略を一刀のもとに断ち切る力となります。全身の武具とは、私たちが作り上げる装備ではなく、神ご自身が着せてくださる贈り物であり、守りなのです。


しない祈りの呼吸――勝利へ向かう行進

しかし、どれほど完全な鎧を身にまとい、鋭い剣を手にしても、それを動かす力がなければ無意味です。だからこそパウロは、全身の武具を語った直後に**「祈り」**を語ります。

「どんなときにも御霊によって祈り…目を覚まして、忍耐の限りを尽くし…」
祈りは、武具をまとった兵士にとっての呼吸であり、戦場に注がれる補給路のようなものです。張ダビデ牧師はこの箇所で、祈りの重要性を深く扱います。霊的戦いは自分の力だけで戦うのではなく、祈りを通して天の力を受け取り戦う**「代理戦」**だからです。

さらに驚くべきことに、鎖につながれたパウロが求めた祈りの内容です。彼は釈放や安全を願いませんでした。むしろ「口を開いて福音の奥義を大胆に告げ知らせることができるように」と願いました。牢獄という絶望的な状況さえ、彼にとっては福音のための「大使」としての務めが果たされる現場だったのです。

張ダビデ牧師は、こうしたパウロの姿勢こそ、現代の私たちが回復すべき“野性(霊的な胆力)”だと言います。自分の安泰を越えて、教会のために、福音を担う者のために互いに執り成すとき、私たちは孤独に戦うのではなく、巨大な的軍勢として共に勝利するのです。


結局、いを動かす力は「わらぬ愛」

エペソ書の結びでパウロは、テキコを通して慰めを送り、「変わることなく私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人」に恵みを祝福します。結局、この戦いの原動力は**「変わらぬ愛」**です。デューラーの版画の騎士が闇の中でも前だけを見て進めたのは、到達すべき城への信頼と愛があったからなのかもしれません。

あなたの今日の歩みはどうでしょうか。人間関係の困難や、言いようのない空虚さに疲れてはいませんか。もう一度み言葉の鏡の前に立ち、自分自身を点検してみましょう。張ダビデ牧師が伝えるエペソ書のメッセージのとおり、神が与えてくださった全身の武具をしっかり身に着けてください。そして祈りの膝をついてください。そのとき私たちは、闇を突き抜けて光へと進む勝利者となるのです。恵みは、備えられた者に、そして最後まで愛し続ける者に、必ず臨みます。

張ダビデ牧師 – 徴税人と罪人に向けた福音


1. 福音と愛

福音とは、キリストの愛の物語です。教会が伝える「良い知らせ」であり、イエス・キリストの生涯と教えを通して私たちに示された、神の救いのメッセージでもあります。この福音がなぜ「愛」と結びつかざるを得ないのか、またなぜ福音が犠牲的な愛の極みを示すのかは、聖書の多くの箇所で確認できます。聖書学者たちが「最もよく福音を説明した章」と呼ぶルカの福音書15章には、救いと愛の核心が込められています。同時に、福音の本質は人生の変化であり、その変化は最終的に「人間が神のかたち(イマゴ・デイ)を回復し、人間本来の姿になる道」であると言うことができます。ところが、この福音が単なる人間の感情や一時的な熱狂にとどまらず、実際の生活の中で具現化される「愛」となるためには、その源が神にあり、その実践的内容は「犠牲」として表れなければなりません。

多くの人々は、福音を教会が伝えるある種の教理や信仰体系だと考えることがあります。しかし、イエス様ご自身が生き方で示された福音は、文字通り「一人のいのちのために自分のすべてを捧げる愛」にほかなりません。その愛の本質を分析的に描写した代表的な章が、コリント人への第一の手紙13章です。都会の言葉で表現したパウロの「愛の章(章節)」は、愛の属性を非常に論理的かつ解説的に解き明かしています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません…」と始まるみことば(第一コリント13:4以下)は、世界のどこで聞いても理解しやすい普遍的な言葉です。しかし、これがただの道徳的教訓でも礼儀作法としての愛でもなく、「キリストが十字架で示された犠牲的愛」であることを悟ることが重要です。

第一コリント13章の最後の部分で、パウロは「主が私を知っておられるように、私も全く知るようになる」(第一コリント13:12)と述べ、愛を「知ること」と同一視しています。ヘブライ語で「知る」という語は、単なる知識習得ではなく、人格的な交わりと深い親密さを意味します。それほど愛には、互いを深く理解し受け入れる関係的側面があるのです。ここで「主が私を知っておられるように、私も全く知るようになる」というみことばは、言い換えれば「主が私を愛してくださったように、私も完全な愛をもって主を知るようになるだろう」という意味にも解釈できます。このように、愛の本質は神との親密な交わりに根ざしています。

ヨハネの手紙第一4章19節で「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」と教えるように、福音は神が先に私たちを愛されたという宣言です。私たちが「愛を学ぶ」と言えるのは、まず神から愛されたからであり、その愛に気づき深く味わっていく過程の中で、私たちも他者を愛する存在へと変えられていくのです。このように、福音は徹底的に神の愛と犠牲から始まります。そしてその対象はすべての人々、さらには徴税人や娼婦にまで及びます。イエス様は死に至るまでご自身を低くされ、そのへりくだりと犠牲のうちに神の愛が最も明確に示されました。

ローマ人への手紙10章では、「人は心で信じて義とされ、口で告白して救いに至る」と語られています。信仰とは、まず心が開かれ、そこから自然に告白へと至るものです。しかし、その心が開かれるきっかけはさまざまです。先に知的理解を得てから心が開かれる場合もあれば、先に心が開かれて後から知的理解が続くこともあります。重要なのは、最終的に心と理性の両方が共に動いてこそ、完全な信仰と愛の実践が可能になるという点です。ギリシア人が「人間とは理性を持つ存在だ」と強調したように、私たちが「愛とは何か」「主がなぜ私たちを救われたのか」「なぜ私たちは主を信じるべきなのか」を熟考することは非常に重要です。この悟りがなければ、私たちの信仰が形だけに陥ったり、慣習的な行為に堕する危険があるからです。

では、愛とは具体的に何でしょうか。聖書が一貫して語る愛は「犠牲」です。歴史的な例としてよく取り上げられるのが、ポンペイ(Pompeii)の火山爆発で街が埋もれた時、母親が子どもを抱きかかえたまま亡くなった痕跡が発見されたという話です。噴火から子どもを守るため、自分の体で覆って救おうとした母親の本能的な犠牲が、そのまま化石のように固まって残っていたのです。これはいのちを守ろうとする愛がどれほど強力な力を持つかをよく示しています。一般的に、生物の本能は自己保存に傾く傾向があります。植物も地中から芽を出す時、互いに譲り合うよりも自分がより多くの光や栄養を得ようと競争します。しかし愛は、この自然的本能とは異なり、「自らを犠牲にしてでも、他のいのちに道を開き、守る」行動を可能にします。

私たちは、イエス・キリストが示された生き方、すなわち十字架上での死こそが「犠牲的愛」の頂点であると告白します。イエス様の十字架の出来事は、罪のない清い方が罪人の救いのために代わりに死なれた、最も劇的な愛の行為でした。張ダビデ牧師が度々説教や講演で強調するように、福音の核心はまさにこの犠牲にあります。主の死は、単に宗教的象徴や儀式ではなく、私たち全員に向けて「このようにしてあなたがたを愛しているのだ」と直接示された、行為による表明なのです。世にはさまざまな愛の形がありますが、「自分のすべてを惜しみなく捧げる愛」は最も究極的な形であり、それこそがキリスト教の福音が伝えるメッセージの本質でもあります。

さらに、私たちがこの愛の価値を悟るなら、その犠牲が決して無駄ではなかったことに気づくはずです。「犠牲」という言葉を漢字で「犧牲」と書く時、「牛」を意味する文字が含まれているとよく言われます。牛は一生、畑を耕し、力を尽くして主人を助け、最後には肉も革も骨も、さらには尻尾までも捧げ、人間に貢献します。牛が生涯をかけて主人に仕えるように、イエス様はご自身の生涯すべてを私たちのために捧げ、その愛の偉大さを自ら示されました。これは華々しいイベントでも大げさなパフォーマンスでもなく、身近で目に見える低い姿での献身、弟子たちの足を洗われるような仕えの態度を通じて明らかにされました。

ヨハネの福音書13章で、イエス様が弟子たちの足を洗われる場面は、十字架への道が始まる象徴的な出来事です。その箇所では、「世にいる自分のものを愛して、彼らを最後まで愛された」と記録されています(ヨハネ13:1)。「最後まで」という言葉には、私たちの裏切りや拒絶、忘恩にもかかわらず、限りなく忍耐し包み込む神の思いが込められています。この十字架の愛は、単に私たちに倫理的教訓や慰めを与えることを目的としたのではなく、実際に救いと回復をもたらす出来事でした。人間が罪のゆえに永遠の死へ向かっていた時、主はご自身のいのちを差し出し、私たちにいのちを与えてくださったのです。私たちが「イエス様を愛する」と告白するとき、その背後には「主がまず私を愛してくださった」という歴史的事実が置かれています。

では、なぜこれほど偉大で犠牲的な愛の物語が「福音」と呼ばれるのでしょうか。福音とは、ただ神の存在を知らせるだけの情報ではなく、「神が私たちをこのように愛してくださった」という宣言であり、その愛によって人は罪から救われ、真のいのちを得ることができるという約束です。ローマ人への手紙5章でパウロは、「私たちがまだ罪人であったときにキリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自分の愛を明らかにされた」と語ります。つまり救いは、私たち自身の努力によって得る業績ではなく、徹底的に神の恵みであり、その恵みは神が先に愛を施してくださった事実によって示されます。私たちはその愛に気づき、それに応答して感謝と献身の生涯を歩むようになります。それが福音が生活の中で実現していくプロセスです。

聖書が語る愛は、単に「愛している」と言うだけのスローガンではなく、具体的に「仕え」と「犠牲」として現れます。イエス様が徴税人や罪人たちと食卓を囲まれた時、パリサイ人や律法学者たちは非難しましたが、イエス様は意に介されませんでした。むしろ、彼らのもとへ自ら出向き、共にとどまり、彼らの罪を責めつつも同時に赦しと回復を与えてくださいました。真の愛とは、そのように「自分で足を運んで近づいていく愛」です。

もし私たちがイエス様を真に知ったなら、同じ愛をもって人々に仕え、受け入れることができるはずです。イエス様のように、罪人や徴税人、そして私たちの人生において最も疎外され苦しむ人々を顧みるとき、私たちはキリストの愛を最も具体的に示すことになります。張ダビデ牧師が繰り返し説いてきたように、教会が社会で「光と塩」の役割を果たすためには、まさにこのイエス様の犠牲的愛を土台として、日常生活の中で助けを必要とする人々を積極的に探し出していく姿勢が非常に重要です。言葉だけで福音を伝えるのではなく、行動で福音を示す時、人々は福音の真の意味を目の当たりにし、心から悟るようになるのです。

私たちは皆、心の奥底に「牧者の心」を持っていることを自覚すべきです。なぜなら、神が人間を「ご自分のかたち」に創造されたので、私たちの内には、困っている人を見て憐れむ感情や、弱いいのちを守ろうとする本性が備わっているからです。世の常識は、多くの場合「99という多数を優先する」論理です。「1より99の方が大切だ」というこの世の計算に慣れてしまうと、弱者や疎外された人を顧みるために自分の心や時間、資源を使うのは非効率だと感じるかもしれません。けれども福音の論理は全く逆方向を示します。主は迷い出た1匹の羊を探すために、野原に残した99匹を置いてでも旅立つ牧者の物語をもって、「神にとってその1匹がどれほど大切か」を強調されました。


2. 徴税人と罪人の福音

ルカの福音書15章はまさに、この「一つのいのちに対する神の思い」をよく示す章です。1節には「すべての徴税人と罪人たちが、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた」と記され、2節ではパリサイ人と律法学者たちが「この人は罪人たちを受け入れて、彼らといっしょに食事をしている」とつぶやいたとあります。ユダヤ社会で「罪人」という言葉は、宗教的・道徳的基準から大きく外れた人々を指すだけでなく、人々に忌避される存在の総称でもありました。ところがイエス様は、そのような罪人を排斥するどころか、むしろ食卓を共に囲み、交わりを持たれたのです。これは単に社会的タブーを破る行為ではなく、律法に馴染んだ人々の根本的な思考様式を揺るがす出来事でした。

パリサイ人や律法学者は、ユダヤ教社会や宗教界で尊敬され、律法を厳格に守る人々でした。彼らは「聖」と「区別」を強調するあまり、自らを罪人と徹底的に隔絶し、ともに食事すらしませんでした。しかしイエス様はその垣根を取り除き、罪人たちを受け入れ、彼らの人生のただ中に入られたのです。福音とはまさしく、このような「見知らぬ交わり」を通じて実際に伝わっていきます。遠くから「お前たちは罪人だ。すぐ悔い改めよ」と叫ぶのではなく、傍に近づいて手を取り、立ち上がらせてあげる姿こそが、イエス様が示された福音でした。

ルカの福音書15章に登場する迷子の羊、失われた銀貨、そして放蕩息子(帰ってきた息子)のたとえ話は、いずれも同じテーマを含んでいます。一見価値がないように思われ、罪に染まった人々に対する神の執拗な救いの意思と、回復された後にともに喜び合う天の喜びを示しているのです。イエス様はこれらのたとえを語られて、「神の喜びは、義人九十九人よりも、罪人一人が悔い改めることに、いっそう大きく現れる」と宣言されました(ルカ15:7)。これは論理や効率ではなく、愛によって動かれる神の思いなのです。

実際、徴税人や娼婦は当時の律法社会で最も蔑まれた層でした。徴税人は金銭の奴隷となった者として見下され、娼婦は性的な罪で最大限の軽蔑を受けていました。しかしイエス様は「徴税人や娼婦は、あなたがた(パリサイ人)より先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)とさえおっしゃいました。彼らは罪が多い分、赦しを受けた時の感謝と喜びもいっそう溢れ、その感謝こそが最終的に人生の完全な悔い改めと変化へつながったのです。「罪の増し加わったところに恵みもいっそう満ちあふれる」というパウロの言葉(ローマ5:20)のように、大きな罪を悔い改めた人ほど、恵みと感謝を深く味わうという逆説が示されています。

このような愛と救いのメッセージは、現代の私たちにも同様に当てはまります。時に世の風潮は「価値のある人とそうでない人を分けるべき」「投資対効果が高いところに資源を集中すべき」と語ります。教会でさえ、このような世俗の論理を受け入れ、より「有能そう」に見える人、より「多く持っている」人を歓迎し、それ以外の人を放置または軽視してしまうことがあります。しかし福音の本質は、まったく別の方向を指し示しています。迷える一匹の羊を探すためにいとわぬ労を払い続ける、あの牧者の心こそがイエス様が語られる教会の本質であり、その愛こそ、失われた魂を救い出す原動力となるのです。

イエス様はこの「低いところへの関心」を何度も強調されました。マタイの福音書25章、オリーブ山での説教の最後の部分では、「最も小さい者にしたことは、すなわち私にしたのだ」と語られています。これは、主が私たちに望んでおられるのは「貧しく疎外された者への具体的な関心と愛」であるということをはっきり示しています。その愛を実践することこそ教会の責務であり、その道を通して私たちはキリストの御国をこの世に広げていくことができます。張ダビデ牧師は、宣教のさまざまなアプローチにおいて、「福音は言葉だけでなく、具体的な行い(deed)を伴わなければならない」と繰り返し強調してきました。言葉と生き方が一致しない福音は半分にすぎず、人々の心を動かすことはできないというのです。

したがって教会がこの福音の働きを拡大していく際、まず持つべき姿勢は、「世で最も弱く疎外された人々を探し、彼らに近づくこと」です。ルカの福音書15章4節の「あなたがたのうちに、羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹を失ったら、その失った羊を見つけるまで探し回らないだろうか」というみことばは、イエス様が私たち全員に本来備わっている「牧者の心」を呼び覚ましておられます。パリサイ人や律法学者たちはその心を失っていたため、徴税人や罪人を見下し、彼らと食卓を共にするイエス様を非難しました。しかし本当は、私たちの内面の深いところに、迷える一匹の羊を思って胸を痛める想いがあるのです。問題は、世の価値観や忙しい日常、あるいは自分の利己心がその思いを抑え込んでしまうことにあります。

主は私たちに、そのような障壁を乗り越えるよう望んでおられます。教会が大きくなり、さまざまなプログラムが増え、財政的資源が豊かになるほど、いつしか「失われた一匹」よりも「既に集まっている九十九匹」のために、便利で効率的な働きを選びがちです。しかし福音は一人の魂を大切にするよう教えます。そしてその一人の魂が悔い改めて帰ってくるとき、天では大いなる喜びの宴が開かれることを思い出させます。

ルカの福音書15章5節、6節を見ると、「見つけたら大喜びでその羊を肩に担いで、家に帰って友達や近所の人々を呼び寄せ、『いっしょに喜んでください。なくした羊を見つけましたから』と言う」と記されています。失われた羊を探しに行った牧者は、その羊を見つけたときに最高の歓びを味わいます。それは物を一つ見つけた安堵感とは次元を異にする喜びです。いのちを生かし、関係を回復させることによる喜びは、この世のいかなる喜びとも比べられない真の歓びなのです。

それゆえに私たちが本当に神を喜ばせたいのなら、失われた魂への関心を決して失ってはなりません。神が最も喜ばれるのは、罪人の一人が悔い改める瞬間です。ルカの福音書15章7節のみことば「悔い改めを必要としない九十九人の義人よりも、罪人がひとり悔い改めることのほうが、天にはもっと大きな喜びがある」はそれをはっきりと示しています。

ここで忘れてはならないのは、「悔い改め」が単なる道徳的反省や形式的な罪の告白を意味するのではないということです。聖書的な悔い改めは「方向転換」です。人生の目標や価値を根本から変えてしまうことであり、そこには、自分が罪を認め、神の赦しを信じ、二度とその罪の道へ戻らないという意志が含まれます。真の悔い改めは、神の愛を深く悟れば悟るほど可能になります。なぜなら、神の愛がどれほど大きいかを知る人ほど、罪の深刻さや自分がその罪からどれほど大きな恵みを受けたのかを強く実感できるからです。その恵みを大きく悟る人ほど、感謝と献身が自然に生まれ、その人は福音の力を証しする通路となります。

ペテロを例に取ることができます。イエス様はペテロがやがてイエスを三度否認することをすでにご存知でしたが、「しかし、あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)とおっしゃいました。ペテロが罪を犯すことになるが、その罪から立ち直り真に悔い改める過程を通して、より大きな愛の証人となるだろうという意味でした。これは私たちにとっても大きな慰めと挑戦です。私たちが罪によって倒れても、その場で悔い改めて方向転換をするならば、神はその弱さすらも用いて、さらに大いなる恵みと愛を分かち合う器としてくださるのです。これこそ律法の世界とは違う、福音の世界です。律法の世界では「罪を犯したなら罰を受ける」のが当然の秩序ですが、福音の世界では「赦しによって変化が起こる」という神の信頼が優先されるのです。

張ダビデ牧師は、数多くの説教や講演の中で「徴税人と罪人を受け入れたイエス様の生涯こそ、教会の永遠のモデルだ」と教えてきました。彼の教えによれば、教会がキリストのからだとして存在するためには、世の人々に対して閉ざされた家ではなく、常に開かれていて、新たなチャンスを提示し、一人でも多くが悔い改めて戻ってこられるよう門を大きく開けておかねばならないといいます。また、今日の教会はもっと積極的に、社会の影に隠れた場所、貧しく病んでいる人々、ホームレス、外国人労働者、脱北者、移民など、この世で最も低いところにいる人々を訪ねて奉仕し仕える働きを通して、イエス様の福音を実際に示すべきだと強く主張しています。これこそ「徴税人と罪人の福音」の精神を受け継ぐ教会の使命だというわけです。

今日、教会が大型化し、多くの財政や資源を手にするようになる中で、社会から「成功」を認められることも悪いことではありません。しかし、そのような物質的豊かさは、しばしば私たちの視野を狭め、貧しい者や弱い隣人を見過ごす誘惑をもたらします。イエス様が語られた「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)という戒めは、頭の中に留まる観念だけではなく、ルカの福音書10章の善きサマリア人のたとえのように、現実に「血まみれで倒れている隣人」を見捨てず、実際に助ける愛の実践にほかなりません。それこそが福音であり、教会がこの地上で担うべき役割です。

この使命のためには、時に組織的な努力とともに個人の献身が求められます。ある教会は宣教地に直接学校を建て、医療宣教や教育の働きを広げながら、現地の人々の生活を改善しようと努力しています。張ダビデ牧師は「来年の教会設立30周年を迎えるにあたって、貧しい国々に300の学校を建てよう」というビジョンを示し、その目的は単なる「建物を建てること」ではなく、失われた魂を探し出し、彼らに福音の実際的な恵みをもたらすことだと力説してきました。学校を通して子どもたちが教育を受け、病気から解放され、自らの将来を描く機会を得るならば、それはただの宣教プロジェクトを超えて、「失われた羊を探しに行く福音」の実践そのものとなるのです。

このように福音は、私たちに「新しい目」を開かせます。かつては気にも留めなかった人々を新たに見つめ、その人たちと喜びや悲しみを共有し、必要を満たそうとすることに喜びを感じるようになるのです。それは世の計算論では到底理解できない逆説的な世界です。一匹のために九十九匹を後に残していく世界、貧しい者や病んだ者にまず手を差し伸べる世界、罪人を頭ごなしに断罪するのではなく、悔い改めて戻る道を開いてあげる世界、これこそ私たちが言う神の国です。

私たちはイエス様のみことば、「あなたがたのうちに羊が百匹いて、そのうちの一匹を失ったなら、残りの九十九匹を野原に残してでも、その失われた羊を見つけ出すまで探し回らないでしょう?」(ルカ15:4)を日々黙想すべきです。そして私たちの日常生活の中で、本当に失われた羊たちを探しているのか、彼らのために時間と心を費やしているのかを振り返らなければなりません。教会の中でも同様です。初めて教会に来た新来者や、過去の失敗や傷のために心を閉ざしている人を見過ごしていないか、自問する必要があります。福音とは、まさにそういった人たちに最初に手を差し伸べるようにと促すイエス様の声だからです。

「徴税人と罪人の福音」とは、単に犯罪者や特定の重い罪を犯した人のためのメッセージではなく、「すべての人間が神の前では罪人である」という聖書の教えに基づく概念です。私たち皆が神の前では罪人であり、恵みを必要としている存在なのです。イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためだ」(ルカ5:32)と宣言されました。これは「自分は正しい人だ」と思い込むことで、「この言葉はあの人だけに当てはまるのだ」と勘違いしないようにという警告でもあります。実際、私たち一人ひとりがイエス様の救いの計画に含まれる「失われた羊」でしたし、主はまさに私たちを探し出し「最後まで」愛してくださったのです。

張ダビデ牧師が投げかける「私たちは本当に、失われた羊一匹を想う牧者の心を持っているのだろうか?」という問いは、教会がこれからも問い続けるべき本質的な問いです。教会の建物やプログラムを増やしたり、信徒数や献金を増やすことも大切かもしれませんが、もっと根源的で本質的な働きは「低いところにいる人々を探しに行き、彼らと共に泣き、共に笑いながら、福音を具体的に伝えていくこと」だからです。私たちはしばしば「自分にはそんな力はない」と言いたくなりますが、使徒の働き3章でペテロが語ったように、「金銀はわたしにはない。しかしわたしにあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストのみ名によって(歩きなさい)」という確信と勇気を持つ必要があります。福音それ自体が最も大きな賜物であり、力だからです。

神は失われた羊を探すとき、その愛の労苦を天で大いに喜ばれます。そしてその喜びに私たちも共にあずかることができます。ルカの福音書15章で、失った羊を見つけた牧者は友だちや近所の人を呼び集め、「いっしょに喜んでください。迷子の羊を見つけたのです」と叫びます。教会とはまさに、この喜びを人々と共有する共同体です。すなわち救いの喜び、悔い改めの喜び、赦しの喜びを互いに分かち合い、神の国の宴をあらかじめ味わわせる役割を担っているのです。

結論として、福音は「徴税人と罪人の福音」です。イエス様が示された生き方と教えは、失われた者を狙い撃ちにする具体的な献身と愛でまとめられます。徴税人や娼婦が悔い改めて神の国に入り、大きな罪を犯した人が赦されて一層大きな感謝をもって神に仕えるようになる――そうした世界こそ、イエス様の福音がもたらす革命的な変化です。私たちはこの愛を単に頭で理解するだけでなく、実際の生活の中で実践することで証ししなければなりません。張ダビデ牧師が強調してきたように、「世の弱者や疎外された隣人に、私たちが受けた恵みを分かち合う」という呼びかけは、福音の最も根本的な叫びなのです。そしてそれは決して大げさだったり不可能な要求ではなく、すでに私たちの内に潜んでいる「牧者の心」を呼び覚まし、イエス様の足跡をたどれば自然に流れ出る使命です。

今日もこの世界には、私たちが見過ごし、通り過ぎてしまう多くの「失われた羊たち」が苦しんでいます。もし教会が真の福音共同体であるならば、彼らを探し回り、世話をするはずです。金銭の奴隷となった徴税人も、愛に破れた娼婦も、人生にさまよっている若者も、病床で苦しむ人も、自死を考えるほど追いつめられた魂も、みな神の子どもとなる道が開かれており、教会はその道へ導く牧者の心を持たねばなりません。「徴税人と罪人の福音」が現代の私たちの教会と信徒の生活を通してもう一度力強く宣言され、キリストの愛が実際の感動と変化へとつながるならば、天には言葉に尽くせない喜びが満ち溢れるでしょう。それこそが、「悔い改めを必要としない九十九人の義人よりも、罪人が一人でも悔い改めることを喜ばれる」(ルカ15:7)という主のみ声を、この地上で体験する道なのです。そしてその体験こそ、福音の核心が「愛」であることを最も生き生きと証明することになるでしょう。

張ダビデ牧師は、この「徴税人と罪人の福音」を韓国の教会だけでなく世界の教会が改めて深く悟り、福音の力が私たちの社会や宣教地のあちこちで具体的な人生の変化をもたらすよう、切に願っています。都会や農村、貧しい国や豊かな国を問わず、教会が「失われた羊を探す牧者の心」に立ち返るならば、数えきれない魂が回復し、神の御名は大いに崇められるでしょう。私たちがこの愛の召しに応えるとき、福音は生き方によって証しされ、その証しがさらに広がって多くの罪人が悔い改め、赦しと癒し、回復を経験するようになります。この全過程の中で、教会は世界に真の希望をもたらし、神の国が「今ここで」すでに広がっているという事実を明確に示すことができるのです。こうして福音は絶え間なく拡大し、多くの人々がイエス・キリストの愛を目撃し、共に救いの宴を享受できるようになるでしょう。

このように福音は、単に聞くだけの教えではなく、徴税人や罪人までも受け入れ、共に食事をされるイエス様の生き方そのものです。主が先に私たちを愛してくださったからこそ、私たちもその愛を知り、伝えることができるのです。ゆえに、失われた羊一匹を探しに行くその歩みこそが、教会が本来担うべき使命の核心であり、「徴税人と罪人の福音」がこの世で完全に具現されるための通路なのです。そしてその道を歩むすべての献身者、牧会者、信徒たちには、神が「よくやった、忠実な僕よ」と称賛を用意してくださっていると、私たちは信仰によって告白します。そのために今日も絶えず祈り、実際に歩み出す教会と信徒でありたいと願うものです。

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張ダビデ牧師 – 不完全な信仰

以下の文章は、張ダビデ牧師が説き明かした使徒行伝18章24節から19章7節に登場するアポロとエペソ教会の出来事を中心に、私たちの信仰が不完全な状態から完全へと進んでいく過程について考察しようとするものである。本論の本文を通して私たちは、「ヨハネのバプテスマ」という形で象徴される不完全な信仰が、「聖霊のバプテスマ」という完全な信仰へ移行する出来事を目の当たりにする。この本文の理解を踏まえ、現代の教会と信徒たちはどのような姿勢と態度をもって福音の完全さを体得していくべきか、そしてその過程において張ダビデ牧師の宣教・教え、さらに彼の牧会的実践がどのような示唆を与えるのかを共に探ってみたい。本稿の前半では、アポロが抱えていた不完全な信仰と、プリスキラとアクラによってより正確な道を学ぶに至った過程、そしてパウロがエペソで出会った弟子たちがヨハネのバプテスマにとどまっていた問題の根本は何だったのかを扱う。続く後半では、「聖霊のバプテスマ」という新しい局面がいかにして開かれたのか、そしてその出来事を今日の教会がどのように適用できるのかを、張ダビデ牧師の牧会方針と結びつけながら深く整理してみようと思う。本文に登場する人物たちの背景や地域的・歴史的状況、また彼らがたどった信仰的成熟の過程を追いながら、私たち自身の信仰がいま不完全なところにとどまってはいないか、そして聖霊の満たしを具体的な生活の中でどう経験すべきかを振り返る機会としたい。


Ⅰ. アポロの不完全な信仰とエペソの弟子たちのヨハネのバプテスマ:悔い改めから愛へ、知識から生活へ

使徒行伝18章24節以下には、アレクサンドリア出身のユダヤ人「アポロ」という人物が登場する。彼は律法と預言、すなわち旧約聖書に通じ、雄弁である人物として紹介されている(使徒18:24)。アレクサンドリアは当時、学問的・知的風土が盛んな土地として知られており、その出身であるアポロがきわめて学問的・哲学的な背景を持っていたことは、本文に記された「聖書に通じた者」「学問のある者」という表現により裏付けられる。アポロは会堂でイエスがメシアであることを熱心に教え、実際に他の人々に大きな影響を与えるほど、知識と雄弁の点で抜きんでていた。しかし聖書は同時に「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」(使徒18:25)と記し、彼の知識や情熱にも限界点があることを明確に指摘している。

「ヨハネのバプテスマ」とは、バプテスマのヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマを意味する。その核心は「立ち返り(メタノイア)」であり、罪を離れて悔い改め、心を新たにすることであった。しかし福音書が証言するように、バプテスマのヨハネは「私よりも力ある方が来られ、その方は聖霊と火によってバプテスマを授けられる」と予告している(マタイ3:11, マルコ1:7-8, ルカ3:16,ヨハネ1:26-27参照)。つまりヨハネのバプテスマは最終目標ではなく、あくまで準備的・先駆的な位置づけであった。ところがアポロは、イエスについて熱心に語り教えていながらも、肝心の「悔い改めの後の世界」、すなわち十字架と復活、聖霊の内住やダイナミックな生活へ進む段階を十分に知らないままにとどまっていたのである。これは、彼がイエスについての知識は豊富に教えていたものの、キリストの生に実際にあずかる十字架の道や、聖霊の力に対する認識が十分ではなかったことを示唆する。

この不完全さを補ったのが、まさにプリスキラとアクラの夫妻であった。彼らはパウロとともに宣教し、深い信仰を学んだ者たちで、エペソに滞在中、アポロが会堂で語るのを聞き、彼を連れて行って「神の道をいっそう正確に教えた」(使徒18:26)。では、プリスキラとアクラが伝授した核心は何だったのだろうか。アポロはすでに旧約に関する知識、イエスがメシアであるという事実、そして悔い改めの重要性などを一通り知っていたはずなので、彼が新たに学ぶべき教えは、言うまでもなく「十字架と復活によって完成された福音の深さ、そして聖霊の力の中で生きる信仰の次元」であったと考えられる。一般的に「神の道をいっそう正確に教えた」という文面の中には、イエス・キリストの贖罪の御業、その死と復活の力、そしてクリスチャンの生活の中で聖霊がどのように働かれるのか、という具体的な理解が含まれていたと見なせる。

ここで私たちは、張ダビデ牧師の牧会哲学と宣教的な教えがどのようにこの本文とつながっているのかを考えてみることができる。張ダビデ牧師は、悔い改めと知的な悟りにとどまるだけのキリスト教信仰ではなく、実際の生活のあらゆる領域に十字架と復活の力が根を下ろすべきであると強調してきた。さらに何よりも、クリスチャンが教会共同体の中で愛を実践し、互いに仕えあい、共に険しい道を歩むことこそ真の福音の実りだと力説する。これはプリスキラとアクラがアポロを助けて立てる方法とも深く通じている。つまり、単に「知らなかった教義を教えること」ではなく、「福音の真の全貌」を伝えて、彼に十字架と復活、そして聖霊と共に歩むという「生活の現場」へと招き入れることにほかならない。

アポロの話に続いて、使徒行伝19章1節以下には、パウロがエペソで「ヨハネのバプテスマ」を受けた別の弟子たちと出会い、彼らが「聖霊があるということさえ聞いたことがなかった」と答える場面が描かれる(使徒19:2)。パウロが彼らを見て最初に確かめたのは「信じたときに聖霊を受けたのか」であり、彼らはヨハネのバプテスマしか知らなかったので、実際に聖霊の存在と働きをまったく体験したことがなかった。おそらく彼らはイエスの存在や悔い改めについては受け入れていたと推測されるが、福音が最終的に「聖霊の内住」と「新しい被造物」への変化によって完成されるものであるとは知らなかったのである。

そこでパウロは「ではどんなバプテスマを受けたのか」と尋ね、彼らがヨハネのバプテスマしか知らなかったとわかると、すぐに「ヨハネもまた自分の後に来られるイエス・キリストを信じるべきことをはっきり告げたではないか」と強調する(使徒19:4)。そして彼らに「主イエスの名によるバプテスマ」を授けたのち、彼らに按手して聖霊を受けるよう祈ると、彼らの上に聖霊が下り、異言と預言が現れたと聖書は記録している(使徒19:5-6)。これはペンテコステの聖霊降臨以降、サマリアや異邦人にも下った聖霊のバプテスマ(使徒2章、使徒8章、使徒10章など)と並んで、教会が拡張される重要な転換点と見なされ、「エペソの聖霊降臨事件」と呼ばれることもある。

ここで私たちは、もう一つ重要な視点に気づく。アポロがエペソを離れてコリントに行っている間に、パウロが後からエペソに入ってきて、ヨハネのバプテスマにとどまっていた弟子たちに出会い、彼らを「聖霊のバプテスマ」へと導いたということである。つまり「アポロはイエス・キリストを熱心に教え、彼によってエペソ教会がしっかり立てられたが、まだ完全には至っていない部分があり、それをパウロが補った」と言えるだろう。実際にコリントの信徒への手紙を見ると、アポロはコリント教会にも大きな影響を与え、「私はパウロにつく、私はアポロにつく、私はケパにつく」という派閥ができるほど、その教えはすぐれた力と活気を帯びていた(Ⅰコリント1:12)。しかし、その出発点は「ヨハネのバプテスマしか知らなかった不完全な状態」であり、プリスキラとアクラを経て、さらにはパウロによって、徐々により完全な福音の意味へと進んでいったという過程を、私たちはこの本文で確認できるのである。

このような過程は、現代の私たちにとっても非常に重要であり、かつ実際的な示唆を与える。信仰の不完全さは決して「悔い改めていない人だけ」の問題ではない。すでに教会の中で熱心に奉仕し、聖書知識も豊富で、イエスがキリストであることを告白しているとしても、なお「ヨハネのバプテスマ」的段階にとどまる可能性がある。つまり、知的にはイエスを信じ、悔い改めたと公言していても、生活の現場において「聖霊のバプテスマがもたらす深い力と真の愛」を体験していないまま留まることがあり得るのだ。

これを教会の実際の状況に当てはめてみると、多くの人々が信仰的な熱心さや教理的知識を備えていても、共同体で聖霊のダイナミズムを十分に味わえなかったり、兄弟姉妹への仕えや献身、さらには世に対するイエス・キリストの愛を具体的に示す行動へとつながっていない場合が多々あることに気づかされる。これは「初めの愛から離れてしまった」と叱責されたエペソ教会(黙示録2章)の姿とも重なるが、驚くべきことに、あのエペソ教会はパウロが3年も直接教えるほど神学的・教理的水準が高かったのである。つまり、「レベルが高くても愛が冷める可能性は十分にある」ということを示している。最終的に重要なのは、教理的知識やかつての悔い改め体験に安住せず、日々の生活で十字架と復活の愛を改めて確認し、聖霊の働きを新たに体験し続けることである、というのが本文の根本的メッセージなのだ。

張ダビデ牧師は、教会の本質を「生命の共同体を形成すること」にあると繰り返し強調し、教会とはただ礼拝堂に集まって礼拝や教理学習をするだけの場ではないと教えている。むしろ互いの生活に関わり合い、必要を満たし合い、主が進まれた十字架の道を共に担っていくような、現実的な「同行の共同体」とならなければならないというのだ。これは、「ヨハネのバプテスマ」的次元、すなわち悔い改めと救いの確信だけにとどまるのではなく、イエスの生き方を実際に生き抜き、互いに分かち合う生活へと拡張されることを意味する。

プリスキラとアクラがアポロを直接「連れて行って教えた」という行動も、深い愛の表現と考えられる。アポロが誤った教えを広めるのを防ぎたいという狙いもあっただろうが、彼の情熱を称賛しつつ同時に「より完全な福音」を伝えたいという愛と配慮、そして共同体意識に基づいたものであったと言える。そしてアポロはそれを謙虚に受け止め、のちにはコリント教会などでパウロ・ペテロと肩を並べるほど大きな影響力を持つ人物へと成長した。「真の福音の力」を体験したアポロは、かつて「ヨハネのバプテスマしか」知らなかった時代とは比べものにならないほど力強く主の道を証し、教会を建て上げる働きに大いに用いられたのである。

同様に、聖霊のバプテスマを受けたエペソの弟子たちもまた「異言」と「預言」が現れるようになり、その地方の教会が新しく出発する決定的な契機を得た。聖書は「全部でおよそ十二人ほどであった」と記す(使徒19:7)が、これは象徴的な表現である。イエスが十二人の弟子とともに始められた新しい共同体の運動が、小アジアの中心都市エペソにおいても聖霊の臨在によって再び始まったことを意味するからだ。そしてこの十二人を中心にエペソ教会が形成され、やがてアジア全域に福音が伝えられる足がかりとなっていった。今日、張ダビデ牧師が強調する「聖霊による成長」も、まさにこの聖書的モデルに倣い、「悔い改め」にとどまらず「聖霊の油注ぎを受けた生活」へと躍進すべきであると訴えているのである。こうして聖霊に満たされた者たちは、最終的に世へと積極的に出て行き、イエス・キリストの愛と真理を証しすることになる。

結局、この一連の流れが示す核心は、「ヨハネのバプテスマ」にとどまる不完全な状態を超えて、十字架と復活、そして聖霊の内住やそのダイナミズムによって完成される「完全な福音」へと進まなければならない、という点である。これはイエス・キリストの存在を知的に理解し、悔い改めるという段階を超えた問題である。本文に登場する人々は、実際の生活にあずかることで、聖霊のバプテスマがもたらす力と愛を人生全体で享受するようになった。プリスキラとアクラがアポロを「連れて行って」教えたように、教会共同体の中でより成熟した者や牧師たちは、まだ完全に至っていない信仰者たちを細やかに世話し、彼らが聖霊のうちに成長していく道を示す役割を担うべきである。張ダビデ牧師が語ってきた「伴走的な弟子化」も、まさにこの文脈で、単に知識伝達にとどまらず、苦難を共に負い、愛を実践し、聖霊体験の場へと招く弟子養成を意味する。

実際面を考えると、教会の中である人が聖書をよく知り、礼拝や奉仕にも熱心だが、その人の生活がなお聖霊の実(ガラテヤ5:22-23)に満たされず、兄弟姉妹に対する愛が十分に表れていないとしたら、その人はある程度「ヨハネのバプテスマ」的次元にとどまっていると言わざるを得ない。その時、私たちに求められるのは小言や裁きではなく、プリスキラとアクラがそうしたように、「神の道をいっそう正確に」教える実際的な指導と世話、そして共に聖霊の臨在を慕い求める祈りをもって待ち続ける姿勢である。

その後、エペソ教会が使徒行伝以降も重要な地位を占め、パウロが長期間にわたって集中的な宣教を行った拠点になったこと、そして後には使徒ヨハネまでもがこの地で活動するようになった背景には、まさにこの「聖霊体験」がターニングポイントとなったという事実がある。使徒行伝19章に描かれた「エペソの聖霊降臨」は、パウロが他の地域で建てた教会と同じように、エペソ教会を特別な力と愛に満ちた共同体へと形成する礎となったのである。しかし同時に黙示録2章に描かれた「エペソ教会の初愛喪失」という出来事は、どれほどかつて強力な聖霊体験をしても、時が経つとその情熱と愛を失ってしまう危険性があることを警告する例でもある。すなわち、一度の熱い体験や知的な悟りによって永遠に完成される信仰は存在しないということだ。張ダビデ牧師が教会員たちに「継続的な聖霊充満」や「絶えざる御言葉の黙想と適用」、そして「犠牲的な愛の実践」を力説するのも、まさにこうした聖書の事例に照らし合わせ、「聖霊体験」と「絶えざるケア」がどれほど重要であるかを知っているからである。

まとめると、アポロとエペソの弟子たちは最初、「ヨハネのバプテスマ」しか知らなかったため、悔い改めと知的な側面には満ちていたかもしれないが、「十字架と復活、そして聖霊の新しいいのち」を知らずにいたという事実である。そしてその不足を、プリスキラとアクラ、さらにはパウロがそれぞれ異なる方法で補った結果、彼らは力強い福音の働き手に、あるいは十二名の中心メンバーとして教会に大きな恵みをもたらす働き手へと成長していった。今日の教会もまた、悔い改めや教理的知識だけでは不十分であり、聖霊にあっての実際的な体験と愛の実践が伴わなければならないことを、本文は証言している。張ダビデ牧師が強調してきた「具体的な同行」と「聖霊体験を通じた教会共同体の成長」というメッセージは、まさにこの使徒行伝の本文の核心を現代の教会に適用する非常に実践的な例だと言える。


Ⅱ. のバプテスマと完全な福音の具現化:共同体的な愛と張ダビデ牧師の現代的適用

先に見たように、アポロやエペソの弟子たちの事例からわかるのは、信仰は一度の決断や知識だけで完結しないということである。むしろ信仰は持続的な成長過程を経て、その中で「聖霊のバプテスマ」が決定的な役割を果たす。その際、聖霊のバプテスマとは単に「異言や預言」といったカリスマ的な側面にとどまらず、「キリストの愛と生を実際に生き抜かせる霊的な力」を意味する。アポロが「神の道をいっそう正確に」学んで以降、コリント教会でパウロと共に福音を築き上げる強力な同労者となったように、聖霊のバプテスマを体験した信徒は「悔い改めとイエスの知識」だけを備えた段階をさらに一歩進め、いかに険しい十字架の道であれ恐れずに歩むことができるようになるのだ。

今日、多くの教会が聖霊について語るものの、ときに過度にカリスマ的徴候だけを重視してしまうか、あるいは逆に聖霊の働き全体を神学的・知的枠組みだけで解釈して、実際の生活の中で体験しないという両極端に陥りやすい。しかし使徒行伝が示すように、真の聖霊体験とは「悔い改めとイエス・キリストの名による罪の赦し」を土台にしながら、「聖霊の力と教会共同体における愛の結合」へと結びつくものである。悔い改めは個人の魂を清め、イエスの救いにあずからせるものであると同時に、聖霊のバプテスマはキリストの体なる教会にあって豊かな愛の実践をもたらすものなのである。

張ダビデ牧師の宣教・牧会は、この点で現代教会が参考にできる特徴を備えている。彼は牧会の現場において、信徒たちが聖霊体験を単なる「カリスマ的現象」として消費せず、「真の回心と持続的な弟子道の旅路」へとつなげることを目指してきた。たとえば、ある人が異言の賜物を得たとしても、それを個人の自慢や「自分は特別だ」という優越感の材料にするのではなく、むしろ共同体を建て上げ、他者にへりくだって仕える愛の原動力としなければならないというように教えている。これはコリント第一の手紙13章、いわゆる愛の章が示している中心的メッセージと重なる。すなわち「たとえ人の言葉や天使の言葉を語っても、愛がなければやかましいドラやうるさいシンバルと同じである」(Ⅰコリント13:1)という警告を、教会共同体が実際に心に刻むべきだということである。実際、信仰が頭で学んだ知識や一時的なカリスマ体験で終わってしまうと、結局はすぐに争いや分裂を起こす教会を生み出してしまうことは、歴史的にも現代の教会現場を見ても決して珍しいことではない。

実際の教会生活では、聖書知識やカリスマ体験が豊富な人々が、むしろより深い愛をもって自己を低くし奉仕するのではなく、高慢になったり他者を教えたがる態度を取ることもしばしばある。これは本文が語る「ヨハネのバプテスマにとどまる不完全な信仰」を体現している例とも言える。外面的には大きな熱意と知識を誇っていても、実際には聖霊がもたらす「十字架的愛・自己空し・兄弟を尊重し教会を建てる謙遜」に欠けているからである。こういう人々には、プリスキラとアクラ、あるいはパウロのように誰かが近づき、「神の道をいっそう正確に示す」ケアが必要である。残念ながら、多くの教会ではこうした繊細なケアや人格的・霊的養成が十分になされないまま、結局は混乱が起きたり、教会が分裂することも少なくない。

張ダビデ牧師が特に強調する「共同体性」は、まさに前述のプリスキラとアクラのケアのあり方とも軌を一にしている。すなわち「一人だけの信仰」ではなく、「共に苦しみ、共に喜び、共に成長していく信仰共同体」を指向するのである。使徒パウロも「体のたとえ」を用いて、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が栄誉を受ければ、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)と言ったが、これはイエス・キリストの十字架が示してくださった「自己犠牲的愛」を共同体の中で実現せよという意味である。教会がキリストを頭として互いにつながるとき、聖霊の賜物は互いを分裂させる道具ではなく、むしろ教会を建て上げ、結束させ、世に福音の力を明かし示す資源へと変わっていく。

特に張ダビデ牧師は、教会の中で対立が起きて分裂する原因の多くが、「聖霊の満たしが知識あるいは個人的体験のレベルでとどまり、実際的な愛へと進まないことにある」と指摘する。これは使徒行伝18~19章が示す内容とも軌を一にする。アポロやエペソの弟子たちは「熱心」と「悔い改め」を確かに持っていたが、聖霊の働きを正しく知らなかったため、愛をもって聖徒たちを仕え、福音の力を最大化する段階へ進むことができなかった。そこでパウロやプリスキラ・アクラといった存在が訪れ、彼らに「より正確な福音」を伝え、聖霊のバプテスマを通じて彼らの人生を根本から変革していく。今日の教会の中にも、「知ってはいるが実践がない」知識重視型の信仰や、「体験はあるが愛が欠如している」カリスマ中心の信仰が蔓延する可能性は十分にある。大切なのは、その両方を「統合」し、「正しい目的」で用いるよう導く世話と教えである。

このようにして完成された福音は、決して個人主義的な信仰生活で終わらない。本物の福音を悟った者たちは、エペソの十二弟子のように地域の教会をしっかり建て上げ、アポロのようにコリントの教会でも素晴らしい影響力を及ぼして、分裂よりむしろ一致と成長を生み出す姿を示すのである。ここで言う教会の成長とは、単に数的増加だけを指すわけではない。むしろ使徒パウロが述べた「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つとなり、成熟した人間になって、キリストの満ち満ちた身の丈にまで達するのである」(エペソ4:13)という次元の「内面的・霊的な成長」を指す。教会の量的な拡大はその結果として起こり得るが、聖霊に満たされて現れる愛の力こそ、真の教会成長の原動力だと本文は示しているのである。

張ダビデ牧師もまた教会の成長とリバイバルを唱えるが、その根本は「聖霊の働きと信徒間の愛のネットワーク」にあると教える。これは使徒行伝の精神をそのまま現代教会に適用した試みと言え、牧会のあらゆる面で「聖霊に依り頼むが、その結果として必ず兄弟愛と共同体の実践が伴わなければならない」という点を確認している。人々はしばしば、教会における奉仕や活動を「義務」や「責任」と考えて嫌々やることもあるが、聖霊の満たしの中で真の愛を体験した者たちは、その奉仕を喜びとして受けとめ、共同体や世に向かって自発的に奉仕の手を差し伸べるようになる。これは「ヨハネのバプテスマ」という基準点をすでに超えた状態、すなわち「聖霊のバプテスマ」が与える変化であると見なせる。

たとえば、ある信徒が以前はただ「罪悪感」から始まる悔い改めによって信仰生活を始めたとして、彼が聖霊のバプテスマを通じて真の福音の喜びを味わい、兄弟姉妹を愛し仕える段階まで成長するには、プリスキラとアクラのようなメンターのケアや、パウロのような牧会的養成が必要である。そしてそれ自体が教会の責務でもあり使命でもある。もし教会がこうした霊的・人格的ケアに失敗すれば、その信徒はヨハネのバプテスマ的次元にとどまり、悔い改めを繰り返すだけで疲弊してしまったり、知識的・形式的な信仰に終始する可能性がある。張ダビデ牧師が「魂を生かし、育てる牧会」を強調する背景には、このような痛ましい現実認識がある。すなわち、教会がただ人数の増加に躍起になったり、大きな建物を建てることに熱を上げるのではなく、一人ひとりに聖霊の力とキリストの愛を体験させ、それを共同体の中で分かち合うように導かなければならないということである。

使徒行伝19章で言及されている「およそ十二人ほどであった」(使徒19:7)という表現が象徴するのは、「少人数であっても完全な福音を悟った人々が集まれば、そこが教会であり、そこから神の驚くべき働きが拡大していく」という事実である。十二人という数字は、イエスの十二弟子やイスラエルの十二部族を連想させ、「新しい神の国運動」の始まりを意味する。エペソがその後、小アジアの福音伝道の戦略的拠点になったことや、そこがパウロの宣教活動の最も中心的な柱となったことを考えると、この十二人が体験した聖霊の降臨は、単なる個人的な回心の出来事ではなく、教会史における重要な分岐点でもあったと言えよう。

現代においても、地域教会が始まるとき、あるいは新たなリバイバルや開拓を進めようとするとき、目に見える大きなリソースや多人数がいなくとも、「聖霊に満たされた少数者」がいれば、真の教会のリバイバルはそこから出発し得る。張ダビデ牧師は何かの働きを開拓するとき、規模や華やかさではなく、その中に「聖霊体験と十字架の愛」が生きている人がいるか、そして「真に神のビジョンをつかむ少数」が存在するかをいっそう重視すると言う。これはすなわち使徒行伝が示す教会開拓と成長の原理に合致するアプローチである。

まとめると、本稿の対象である使徒行伝18章24節から19章7節の出来事は、「ヨハネのバプテスマ」で象徴される不完全さが、「聖霊のバプテスマ」を通して完全へと進んでいく転換点が、いかにして教会共同体を建て上げる原動力になるかを鮮やかに示している。アポロという優れた人物でさえ、「神の道をいっそう正確に」知る前は悔い改めと旧約の預言知識のレベルにとどまっていたし、エペソの十二弟子も「聖霊がおられることさえ聞いたことがなかったため」、悔い改めだけを繰り返す状態にあった。しかしプリスキラとアクラ、そしてパウロの助けによって、彼らは聖霊のバプテスマを受け、異言や預言などの賜物を通して教会に大きな恵みをもたらす働き手へと変わっていった。そしてこの出来事がエペソ教会の歴史、さらに言えばコリント教会の成長とも密接につながっていたのである。

現代の教会を見ても、私たちは聖書知識や熱心さ、あるいは悔い改め経験のみを強調するあまり、実際の聖霊の力や十字架の愛によって進むべき本質を見失う危険にさらされている。これに対して張ダビデ牧師は、「聖霊のうちにある自発的な献身、共同体を建てる犠牲的な愛」を教会の核心価値として提示し、牧会のあらゆる側面でこれを具体化しようと努めてきた。これは単なる「聖霊を受けよう」というスローガンや「悔い改めよ」という標語にとどまらず、「共に御言葉を分かち合い、共に時間を過ごし、苦難を共に担い、喜びや悲しみを共に味わう共同体的な生活」へと拡大されていく。この体験を通じて教会は、エペソ教会が受けた聖霊降臨の恵みを再現でき、アポロのように不完全さから完全へと転換する信徒を多く立てていくことができるのである。

しかしここで終わりではなく、常に自分自身を顧みる必要がある。エペソ教会は確かに驚くべき聖霊体験によってリバイバルし、パウロが3年にわたって宣教するほど十分に霊的水準が高かったが、黙示録2章に記されているように「初めの愛を捨てた」と叱責を受けてしまった。これは「かつて経験した聖霊のバプテスマや強力なカリスマ体験」が永遠に信仰を保障してくれるわけではないという事実を、改めて私たちに思い起こさせる。私たちは日々神の前にへりくだり、御言葉と祈りのうちに自らを低くし、共同体愛を回復することで聖霊の力を新たに受け続けなければならない。

したがって、プリスキラとアクラがアポロに、パウロがエペソの弟子たちに助けの手を差し伸べたように、今日の教会の中でも信徒同士の霊的ケアが盛んに行われる必要がある。一部の限られた人だけがすべてを担うのではなく、互いにへりくだって立て合い、「ヨハネのバプテスマ」にとどまらないよう「より正確な福音」とは何かを共に考え、祈り、実践していくことが重要である。張ダビデ牧師の牧会の事例は、このような霊的ケアが実際に機能するとき、教会がどれほどダイナミックで健全な霊的生命力を発揮できるかをよく示している。

私たちは使徒行伝のこの本文を通じ、「不完全な信仰が完全へと至る過程」とはすなわち「悔い改めから始まって聖霊のバプテスマによって完成される道」であることを再確認した。情熱や知識を持っていても、もし悔い改めの段階にだけ留まってしまえば、その信仰はまだ完全なる福音の力を発揮できない。しかし聖霊によってキリストの十字架と復活の命にあずかるようになるとき、さらに愛の共同体のうちで互いに仕え合うようになるとき、その信仰は新たに生まれ変わって教会を堅固に建て上げ、世に福音を伝える大きな力へと変わるのである。張ダビデ牧師が絶えず強調してきた「聖霊による共同体形成と十字架的愛の実践」とは、まさにこの使徒行伝的原理を現代の教会に適用する具体的な姿と言えよう。

今日の私たち一人ひとりも、「アポロが当初はヨハネのバプテスマしか知らなかったが、神の道をいっそう正確に知ってからは力ある働き人となった」という物語を自分の信仰に当てはめて考えてみることができる。「私は悔い改め、イエスがキリストであることを知ってはいる。しかしその先で止まっているのではないだろうか」「今、私は聖霊の満たしを実際に体験し、兄弟姉妹に仕え、世に向かって福音を証しする生活を送っているだろうか」「教会共同体の中で愛を実践するために、いったいどれほど祈り、献身し、他の人の必要を満たそうと努力しているだろうか」。こうした問いを自らに投げかける必要がある。もし不完全なところにとどまっているなら、プリスキラとアクラの助けを受けたアポロのように、自分より先を歩む人々に学び、パウロのような牧会的ケアを与えてくれる指導者に導かれ、何よりも聖霊を慕い求めて祈らなければならない。

教会は互いの不十分さをともに補い合う霊的な家族(ファミリー)でなければならない。不完全さにとどまっている人は共同体のケアを通して完全へと進んでいき、すでに聖霊の力を味わっている人は、いっそうへりくだって互いに仕え、まだ知らない人々には「いっそう正確な福音」を伝えるという相互成長の構図が実現されるべきである。そしてその中心には「十字架と復活の福音」があり、それを現実で可能にするのがまさに聖霊である。張ダビデ牧師が提唱する「聖霊による伴走的弟子道」とは、このような教会モデルを実現するための具体的なオルタナティブとなり得るだろう。

重ねて言うが、アポロとエペソの弟子たちは、すでに「イエスがキリストであること」を認めていた。教理的な理解も相当に高く、悔い改めに対しても真剣だった。しかし結局「聖霊」が抜け落ちてしまうと、悔い改めや熱心、そして知識さえも、深い愛の実践と十字架的な生活へ結びついていかない。このように、悔い改めから聖霊へと進む「転換」は、私たちの信仰に不可欠な飛躍であり、教会を教会たらしめる原動力となる。使徒行伝19章でパウロが投げかけたあの問い「あなたがたは信じたときに聖霊を受けたのか」は、今もなお有効であり、私たち一人ひとりの信仰を鋭く点検する。もし「私たちは聖霊がおられることさえ知らなかった」と告白せざるを得ない人がいるなら、あるいはイエスを信じて奉仕や献金をしているが、自分のうちに愛が冷え込んで他人を裁き、共同体を分裂させてしまっているなら、あるいは神の力を知識としてしか知らず、実生活で体験できていないならば、この本文は私たちに明確な道を示している。「神の道をいっそう正確に学び、主イエスの名によってバプテスマを受け、聖霊の臨在を切に求めよ」ということである。そのとき私たちの信仰は不完全さを脱し、アポロのように力ある証人となり、エペソの十二弟子のように「新しい共同体の出発点」として用いられる可能性が開かれる。そして教会は、張ダビデ牧師が常に説いてきたように、「いのちに満ちた霊的家族」へと築き上げられていくのだ。

これは聖書時代だけの話ではなく、今も変わらず適用される真理である。教会は礼拝やプログラム、教理教育、奉仕などの外的要素だけで建てられるのではなく、「聖霊のうちにある愛と協働」によって建てられる。だからこそ使徒行伝の教会は、礼拝堂も財政も制度的基盤もなかったように見えるが、世界中を揺るがすほどの力を発揮した。その力の源は聖霊であり、そこから生まれた「十字架的愛」だったのだ。ヨハネのバプテスマから聖霊のバプテスマへと移る瞬間、すべてが変わる。イエス・キリストの死と復活、そして聖霊の臨在が信徒を動かす「生きた推進力」となり、そこから真の教会の歴史が始まる。アポロの限界と突破、エペソの弟子たちの悔い改めと聖霊体験が織りなしたこのドラマは、現代の私たちにもなお強烈な挑戦状を突きつけている。「あなたがたは本当に聖霊に満たされているか。あなたがたの教会は本当に聖霊によって一つとなり、互いを愛しているのか。」――この問いに「そうだ」と答えられる共同体が増えることを願いつつ、同時に私たち全員が「不完全から完全へ」と進む信仰の旅を歩み続けなければならない。

張ダビデ牧師が語る「聖霊とともに歩む教会、十字架の愛を実践する教会」とは、まさにそうしたビジョンである。再び使徒行伝の精神が息づき、初代教会が持っていた熱い聖霊充満と献身が現代教会にも再現されるとき、私たちはこの時代に対する福音の力を真に証明できるだろう。アポロとエペソの弟子たちが残した貴重な教訓は、このダイナミックな信仰の道へと私たちを招いている。「ヨハネのバプテスマにとどまるな、聖霊のバプテスマへと進め」。これこそが使徒行伝18章24節から19章7節が私たちの胸に刻む明確なメッセージであり、同時に張ダビデ牧師が今日の教会に提示する挑戦でもある。

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ゲッセマネの祈り – 張ダビデ牧師


1. ゲッセマネの祈りとイエスキリストの孤

張ダビデ牧師は、ゲッセマネの園で明らかになったイエス・キリストの孤独とその祈りについて、深い洞察を示している。まず彼は、マルコによる福音書14章32節から42節までの展開に注目し、イエス様が十字架という極限の苦難を目前にしたときの心境と状況を、生々しく描写している。この本文で主は「わたしの心は死ぬほど悩みもだえている」と語り、地にひれ伏して切に祈られた。しかし弟子たちは、その切迫した状況下にあっても眠り込んでしまっていた。

張ダビデ牧師は、この物語を通してイエス様こそが「真の祈りの模範」であると強調しつつも、その祈りが単に「大胆不敵な確信」だけを示しているのではなく、「激しい叫びと涙」(ヘブライ5:7)によって表された、きわめて人間的な苦悩や恐れを伴っている点を重要な核心として挙げている。

イエス様は公生涯の間、何度も奇跡を行い、悪霊を追い出し、病人を癒やしながら神の国を宣言なさった。弟子たちはそうしたイエス様の権能を何度も体験していたため、「イエス様が望むならどんな苦難でも避けられるのではないか」と考えていたかもしれない。しかし張ダビデ牧師が指摘するように、イエス様は弟子たちが期待していた「力による苦難回避」ではなく、「全人格的な従順」を通してこの道を選択されたことを、本本文では明らかにされている。すなわち「アッバ、父よ。あなたには何でもおできになります…」(マルコ14:36)という言葉は、「神に不可能はない」という絶対的な信頼を含みつつも、「しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」という告白で締めくくられる。張ダビデ牧師は、これこそがイエス様の祈りが持つ最も美しく偉大な頂点だと語る。

この祈りの中にはイエス様の弱い人間的側面がにじみ出ているが、まさにその人間的恐れと神の絶対主権への信頼とが相まって、「完全な服従」が実現されているのである。私たちは信仰生活の中で「神のみこころに従う」とよく口にしながら、いざ現実の苦痛や恐れが迫ってくると、それに耐えきれなくなることが多い。ところがイエス様でさえ十字架を前に「この杯を取りのけてほしい」と願われたという事実は、私たちの弱さをありのまま認めさせる。それでも最後には「父の御心ならば、わたしはそれを担います」という決断に至られる。その過程の中に、張ダビデ牧師はイエス様の孤独な祈りの場面から、信仰者が学ぶべき本質的教訓を見いだすのである。

張ダビデ牧師の説明によれば、ゲッセマネの祈りは単に「イエス様がまもなく死なれることを前に苦しまれた」という歴史的叙述にとどまらない。それはキリストが「メシア(油注がれた者)」として、苦難を完全に担う象徴的な場でもあった。そもそもゲッセマネという名前自体は「油搾り」を意味するが、ここでオリーブの実が圧搾されて油が出るように、イエス様もまた「罪びとの代価となる贖い」となるため、身体も心も押しつぶされるような極限の苦痛を味わわれたという。聖書によれば、イスラエルでは王を立てるとき、預言者や祭司が頭に油を注ぐ。この象徴は「王権」を意味すると同時に、油注がれた者が民を導く使命を示すものでもあった。しかしイエス様は「王」としてただちに尊貴と栄光の座に就かれるのではなく、まず苦難と死を選ばれた。この事実が、本本文に含意されているのである。

エルサレム神殿では、過越の祭りに多くの羊が屠られ、その血が神殿でまかれると、キドロンの谷に沿って血の混じった赤い水が流れ下っていった。イエス様と弟子たちは最後の晩餐の後、このキドロンの谷を渡ってゲッセマネの園へ入られた。張ダビデ牧師はこの場面を、「赤い血が流れる谷を渡られる救い主の孤独な後ろ姿」と描き、イエス様はご自分の血もまた、まるでこれらの羊の血のように流れねばならないことをすでにご存じであり、その残酷な死の意味を深く黙想しつつも、一歩一歩前へ進まれたと強調する。そしてその道を共に歩むべき弟子たちは、ゲッセマネに入るとき歌を口ずさみ、決意を新たにするどころか眠りに落ちてしまった。そのためイエス様の孤独は一層際立つのである。

張ダビデ牧師の解説によれば、イエス様の孤独は単に「人間的な裏切り感」からきているのではないという。もちろん十二弟子のうちの一人であるユダは、すでにイエス様を引き渡す陰謀を企てており、ほかの弟子たちも主の苦しみをまったく理解できないまま眠り込んでいたので、主は「たった一時間でも目を覚ましていられなかったのか」(マルコ14:37)と悲しみを帯びた叱責をせざるを得なかった。しかしイエス様の孤独は何よりも、「神の御旨」に自発的に従わなければならない使命者としての孤独だった。最後までただ一人で従わずにはいられないその独自の使命を負っていたため、人々の支持や共感、慰めがまったく得られない状況にあっても、イエス様は決してあきらめなかったのである。

さらに張ダビデ牧師は、この孤独がイエス様の生涯全般に通じる、ある必然的な流れと結びついている点を指摘する。イエス様は公生涯の初期から周囲の人々に誤解されたり、過度な歓迎を受けたり、あるいは同じ民族であるユダヤ人の指導者たちから排斥されたりしてきた。弟子たちでさえ、十字架の出来事以前には、心からイエス様を「メシア」として認められず、イエス様が望む神の国の価値観が何であるかも正しく悟れていなかった。そのため主が説教されるたびに、表面上は「アーメン」と応じても、その言葉の本質にはふさわしく反応していなかった。イエス様がご自身の受難を予告されたとき、弟子たちはそれを正しく理解できなかったり、主の言葉を表面的にしか受け取らなかったりした。その結果がこのゲッセマネの祈りの場面で集中的に露呈しているとも言える。

イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを、より近いところへ連れて行かれた。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)によれば、この3人は変容山の出来事にも立ち会った核心的なメンバーである。張ダビデ牧師は、彼らが特別に勇気や誠実さを持っていたからというよりは、主がご自身の最も深い苦しみを見せるに足る者として選ばれたのだと解釈する。しかし血のような汗を流して祈られた(ルカ22:44)イエス様のそばで、結局彼らは目を覚ましていられなかった。それは単なる眠気ではなく、自分たちが信じて従ってきた主の「極限の苦痛」を受け入れる精神的な準備ができていなかった結果とも考えられる。実際、イエス様が最も助けを必要とされる瞬間に、共に目を覚まして祈るべき弟子たちが眠っていたという事実は、彼らがいかに弱い存在であるかを如実に示している。これについて張ダビデ牧師は、「イエス様の道こそが『孤独の道』である」というメッセージを繰り返し説き、このような孤独の中にあっても、イエス様がむしろ神なる父に徹底的にすがる祈りを捧げることによって、使命を放棄しなかった点が重要だと語る。

さらに見逃せない要素として、イエス様がペテロに対して「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言う」(マルコ14:30)と告げた事実がある。ペテロは自らの決意では「たとえ死ぬことがあっても、主を知らないなどと言わない」と声高に誓ったが、結局は失敗してしまう。張ダビデ牧師は、この箇所が人間的な「決断」と「神の御旨への服従」の違いをはっきりと示していると説教する。ペテロは人間的な意志だけで「主のために命を捨てる」と言ったが、いざイエス様がゲッセマネで祈られるとき、その祈りを支える「霊的な目覚め」はまるで発揮できなかった。そして実際に主が捕らえられると、彼は恐れて逃げ出し、「主を知らない」と否認する痛ましい状況へ陥るのだ。

このように、私たちはイエス様のゲッセマネの祈りを通して、二つの面を同時に見る。一つは、主がひどく驚き、悲しみ、嘆願される弱々しい姿であり、もう一つは「しかしわたしの願いではなく、あなたの御心のままに」(マルコ14:36)と告白して、自ら進んで十字架を負われる強さである。張ダビデ牧師は、この相反する二つの姿が結びついていることこそ、イエス様の人格と働きの真髄を示すと解説する。すなわち、本当の信仰の大胆さとは決して「人間的な無感覚」や「思考の単純さ」から来るのではなく、「苦痛を直視しながらも、神の御旨に屈服する従順」から生まれるということである。

しばしば私たちは「信仰があれば苦難を恐れない」と誤解しがちである。しかし張ダビデ牧師によれば、イエス様は苦難を恐れられたが、それでもその恐れを克服する道を選ばれたのだ。その道とはまさに、「祈りの場で何もかも父なる神に打ち明け、それでもなお立ち上がって十字架へと歩んでいく道」である。そしてこれを「孤独な道」と呼べるのは、誰にも代わってもらえないイエス様個人の道だったからである。張ダビデ牧師は「私たちも人生の谷間で独り取り残されたように感じるとき、イエス様がどのように祈られたかを思い出すべきだ」と勧める。世のすべての人が眠り、そばにいるはずの人々がいなくなってしまったあの夜、神なる父を「アッバ」と呼び、すべてをゆだねて従われたイエス様の姿こそが、信仰者が究極的に見習うべきモデルだというのである。

ヨハネによる福音書を見てみると、ゲッセマネでの祈りの場面が直接的には描かれていない。代わりに13章から16章まで最後の晩餐と別れの説教があり、そして17章で長い別れの祈りが記された後、18章からイエス様の逮捕の場面へと進んでいく。張ダビデ牧師は、その理由について「ヨハネはすでに、イエス様の決断が最後の晩餐(ヨハネ13:1〜)の中で成し遂げられたことを強調したかったからだ」と説明する。他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はゲッセマネでのイエス様の「内面的葛藤」に焦点を合わせるが、ヨハネ福音書ではその前に、すでにイエス様が「人の子は栄光を受けた」(ヨハネ13:31)と語り、受難を「栄光」と規定しているという。しかしマルコによる福音書14章で読まれるイエス様の祈りこそ、その決断の裏側にどれほどの叫びと涙があったのかを教えてくれるという点で、私たちは共観福音書とヨハネ福音書を補完的に読むことができる、というのが張ダビデ牧師の見解である。

総合して見ると、ゲッセマネの祈りの場面は、イエス様の「完全な神性」だけを強調するのではなく、むしろ苦痛に満ちた人間的側面を同時に表すことで、イエス様の犠牲がいかなる覚悟から出たものであるかを鮮明に示している。そしてそのような苦痛や恐れは、最終的には父なる神への全面的な信頼へと昇華し、十字架へ向かう大胆な一歩へとつながる。張ダビデ牧師の説教で強調されるように、私たちはこの出来事を通して「神の御心に従う」ということが、どれほど困難でありながら同時に美しいことなのかを悟ることができる。主のうちには「この苦い杯を取りのけてほしい」という人間的な願いと、「父の御心のままになさってください」という信仰的な決断が同時に存在した。それゆえ私たちの人生においても、困難や苦痛に直面したとき、イエス様のこの姿に倣い、「わたしの願い」ではなく「神の御心」を求める祈りに進まなければならない、と張ダビデ牧師は語る。

さらに彼は、このゲッセマネの物語が、ただ昔のエルサレムである夜に起こった出来事として終わるのではなく、今日でもなお神の人々に当てはまる事実であることを力説する。私たちが何かを決断しなければならない瞬間、あるいは思いがけない試練や苦難の前に立たされた瞬間、私たちにも「ゲッセマネの祈り」が求められるというのだ。その祈りとは単に「神様、力をください」というだけでなく、イエス様のように自分のあらゆる弱さや恐れを正直に打ち明け、それでもなお「御心のままになさってください」と求める従順の祈りである。張ダビデ牧師は「人生に訪れる孤独な夜、誰もそばにいないように感じるまさにそのときこそ、『アッバ、父よ』と呼びつつ、御霊の力によって立ち上がるときだ」と説く。そしてこれこそが、イエス様が歩まれた尊い足跡を私たちが辿る道にほかならないと力を込めて語る。

さらに、ゲッセマネの祈りを通して表されたイエス様の孤独は「私たちの救いのために必然的に選ばれた道」でもあった。神の御子であるイエス様が、あえてあのような惨たらしい苦痛と孤独を体験する必要がなかったのであれば、あんなにも苦しまれることはなかったはずである。しかし張ダビデ牧師は「罪びとをあがなうため」にイエス様はあの道を避けなかったのだと強調する。どれほどイエス様の思いに寄り添おうとしても、実際に身をもって味わわれた「あくまで死に至るまでの従順」を完全に理解することは、私たちにはほとんど不可能に近い。しかし聖書がそのことを詳しく証言し、マルコによる福音書がイエス様の叫びと汗をありのままに描写し、そして張ダビデ牧師のような働き手がその意味を説き続けるのは明白な理由がある。それは、私たちにあの孤独の夜を黙想させることで、主の恵みと愛をさらに深く悟らせると同時に、私たち自身も人生においてこの孤独な従順の道を学ぶよう招いているからである。

結局、ゲッセマネの祈りは、イエス様が「時は来た、人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、さあ行こう」(マルコ14:41-42)と宣言されることで締めくくられる。張ダビデ牧師は、これをイエス様の「尊い前進」であり、孤独を乗り越える「救いの始まり」と呼ぶ。あらゆる涙と叫びの只中にあっても、「さあ行こう」と語られる主の声は、イエス様自身の決断を告げると同時に、私たちにも「この苦難の道に加わりなさい」と招く声でもある。ここで私たちは「同伴」の意味を見いだす。本来は弟子たちがイエス様と同行すべきだったのに、実際には皆散り散りになってしまい、主は一人で十字架を負われた。しかしその後、復活と聖霊の降臨を通して弟子たちはイエス様の道を追随し始め、教会はこの「苦難と栄光」を継承してきた。張ダビデ牧師は「今日でも教会は、そして個々の信徒は、ゲッセマネの夜にしっかり目を覚まして祈る姿勢で歩むべきだ」と結論づける。すなわち、私たちも主が担われた孤独と苦悩に共に与ることで、神のみこころを成し遂げる道にいっそう近づくことができるのだ。


2. ペテロと弟子たちの弱さ、そして弟子の道

張ダビデ牧師は、ゲッセマネの場面に続き、同じマルコによる福音書14章の後半に描かれるペテロや他の弟子たちの姿を細かく見ていく。その中で特に、マルコ14章50節以降、イエス様が捕らえられると弟子たちが逃げ散り、ペテロがイエス様を三度否認する場面が続く。そしてマルコ14章51-52節に登場する「亜麻布を一枚まとったままイエスについていったある若者」が、群衆につかまれそうになったとき亜麻布を捨てて裸で逃げたという記述があるが、伝承的にこの若者こそ福音書を記したマルコ本人だと理解する解釈が多い。張ダビデ牧師は、この部分に言及しながら、弟子たちやマルコの「卑怯さ」や「恐怖心」を隠さずにあからさまに示している点こそ、福音書が持つ生々しい正直さだと説く。

実際、イエス様の弟子たちは皆、「たとえ何があっても主を最後まで守る」と決意していた。ペテロは「たとえみんながあなたを捨てたとしても、私はそんなことはしない」と豪語していた(マルコ14:29)。しかし結局、その決意は崩れ去り、ペテロの誓いはむなしい言葉に終わってしまった。この事実はペテロ一人の問題ではなく、すべての人間が持つ「弱さ」を代弁している。張ダビデ牧師は、多くの人が「どのような状況でも主を裏切らない」と心に決めるが、いざ身に危険や恐怖が迫ると、本能的に逃げようとするのが私たちの正直な姿だと説く。どれほど信仰が深そうに見える人でも、サタンの試みや世の圧力の前で徹底的に崩れ去ることがあるという。

しかし、より重要な教訓はそこで終わらない。福音書は、ペテロが否認した直後、苦い思いをし、最終的には悔い改めて再び主の弟子として立ち直る過程を伝えている(ヨハネ21章で復活した主がペテロを回復させる場面)。張ダビデ牧師は、これが「弱さにもかかわらず用いられる弟子たちの姿」を象徴的に示していると語る。ゲッセマネで眠り、イエス様が捕らえられるときは逃げ散り、さらには師を裏切ったり否認したりするほどあまりに醜く恥ずべき姿だった。しかしそれでもイエス様は復活後再び彼らのもとに訪れた。すなわち、弟子たちの失敗がそのまま永遠の見捨てになるわけではなく、「臆病な弟子たち」が「偉大な使徒たち」へと変えられた事実は、福音が持つ恵みをまざまざと示している。張ダビデ牧師は、これを「主の愛は私たちの失敗よりも大きい」と表現する。

ここで特に注目したい人物が、マルコによる福音書を書いたとされる「マルコ」である。張ダビデ牧師は、マルコが14章51-52節の恥ずかしい出来事をわざわざ自分の福音書に書き留めた点に大きな意味を見いだす。普通なら隠したい過去であるにもかかわらず、福音書はむしろ自分たちの失敗を包み隠さず記し、「人間はこれほどまでに欠けた存在だ。しかしイエス様はこのように欠けた私たちを見捨てることはなさらない」というメッセージを強調しているのである。マルコは亜麻布一枚だけをまとって、ひそかにイエス様を追っていくほどの「主を離れたくない」という熱意があった。しかし同時に、群衆につかまりそうになるや否や恐怖に駆られ、衣服を投げ捨てて逃げるほど弱く、結局イエス様の逮捕や受難に何の役にも立てなかった。ところが、このような自分の過ちを福音書に描き込んだのは、イエス様の十字架の出来事を一層はっきりと照らすしかけとなる。「最も近しい者たちさえ、これほど卑怯で恥ずかしい姿で逃げ去った」という事実が、イエス様が孤独に耐え抜かねばならなかった十字架の重さを、いっそう濃く際立たせるからである。

張ダビデ牧師は、説教の中でこうした点を鋭く強調する。「もしペテロやマルコ、ほかの弟子たちの失敗がなかったら、イエス様の孤独な従順と犠牲が、これほど私たちの胸を打っただろうか?」という問いかけである。弟子たちは使徒言行録以降、聖霊の力強い働きによって新しく生まれ変わり、福音宣教の先頭に立って霊的覚醒を主導する人物となる。しかしその出発点は、「口にするのも恥ずかしい」ような裏切りと逃亡、眠りと無知であった。これは逆説的に、福音の力とイエス・キリストの恵みを最も劇的に示す。信仰とは「完璧な人間」であるがゆえに持つ資格や特権ではなく、むしろ「自分の欠けを自覚する者」が神の愛と赦しを受けることによって与えられる恵みなのである。

張ダビデ牧師はこのことを踏まえ、「私たちも弱さの中でイエス様を否認し、イエス様のそばを守れないときが多い。しかしその失敗がすべての終わりではない。もう一度悔い改めて立ち返るなら、神は私たちを福音の証人として立ててくださる」と力説する。このメッセージは2000年前の弟子たちだけに当てはまるのではなく、今日の私たちにも有効な福音の真理である。私たちは宣教の現場でも、あるいは日常生活の中でも、さまざまな誘惑や困難の前に崩れ落ちることがある。一時はペテロのように「死んでも主を裏切らない」と告白しても、いざ窮地に陥ると祈れず、試みに負けてしまう場合が多々ある。しかし大事なのは、イエス様がペテロを回復されたように、私たちも悔い改めれば「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)という使命を与えられる可能性があるということだ。

張ダビデ牧師は「私たちが倒れても、神は私たちを見放さず、私たちの弱さをご存じの上で再び立たせてくださる」と、この福音の核心を強調する。ペテロが涙ながらに慟哭し、のちにイエス様から「あなたはわたしを愛しているか」と三度問われ(ヨハネ21章)、同じ回数だけ回復されていく場面に大きな希望を見いだす。「失敗で終わる人生はない。失敗を認めて悔い改めるなら、神はその失敗さえも用いて働かれる」ということである。したがって私たちもマルコやペテロのように、最も恥ずべき瞬間でさえも主のもとに立ち返ることができ、その主が復活によって完成なさった勝利に与れるのである。

一方、弟子たちの弱さは「主が負われた十字架が、いかに徹底して『孤独な道』であったか」をあらためて浮き彫りにする。十字架の出来事は、人類史上最も決定的な犠牲であり、それはイエス様がご自身で負われたものだ。本来はキドロンの谷を一緒に渡った弟子たちもいて、ゲッセマネまで共に足を運んだ者たちもいた。しかし「結局、最後の瞬間にはイエス様一人が残された」。張ダビデ牧師は、これが救いの本質的な性質を示しているという。すなわち「もし私たちが少しでも力を足してイエス様を助けることができるのならよいが、罪の問題の前では誰も自分を救うことができない。ただイエス様だけが担わねばならなかった」というのである。

それゆえキリスト者の信仰の旅路も、ある種の逆説的な道となる。一方では「一緒に行こう」というイエス様の招きによって共同体である教会を形成するが、また他方では「自分が負うべき十字架」が与えられていることに気づかされる。つまり、他の人々の祈りや励ましも必要だが、最終的には「自分自身の決断」が必要になる瞬間がある。張ダビデ牧師は「各々が自分の十字架を負って主に従え」(マタイ16:24)という言葉を思い起こさせながら、ゲッセマネで弟子たちが眠り込んでしまった姿は、その「霊的実情」を私たちに突きつけるものだと説明する。「結局は自分で担わないといけない十字架があり、その道を阻むあらゆる試みがまぶたの重さのように私たちを圧し掛かる。そのとき目を覚まして祈らねばならないが、人間的な限界だけに頼っていれば、ペテロのように簡単に崩れ落ちる可能性がある」というわけである。

それでは、その崩れ落ちに対する答えは何か。張ダビデ牧師は、一貫して「イエス様の祈りから学ばなければならない」と勧める。イエス様が「アッバ、父よ。できることならこの杯を取り除けてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られたように、私たちも父なる神を全面的に信頼する思いで進むべきだという。「これこそがペテロや弟子たちが最も学ばなければならなかった祈りであり、私たちも同様である」と張ダビデ牧師は強調する。弟子たちはその瞬間に目を覚まして祈ることができなかったが、その失敗を土台にして教会の使徒へと成長し、後に聖霊に満たされてからは「福音のために命を捨てる殉教者的信仰」を示していく。結局、苦難や失敗を一度も経験していない人よりも、失敗の中で悔い改め、再び弟子として立ち上がる人のほうがはるかに強くされるという事実を、聖書は繰り返し示している。

このように張ダビデ牧師は、ペテロやマルコ、そして他の弟子たちの過ちや失敗を「隠すことなくさらけ出している」福音書の正直さを高く評価し、そこにこそ今日の私たちへの希望があると言う。もし聖書が「弟子たちはいつも立派だった。どんな裏切りもなかった」と書いていたら、私たちはその御言葉の中に、今の自分の弱い姿を投影することはできなかっただろう。しかし福音書の筆者たちは、自分たちの弱さをさらけ出す一方で、イエス様がその弱さを超える愛でもって彼らを回復してくださったことを証言する。だからこそ、私たちは「弱さがさらけ出された場所にこそ、キリストの恵みがどれほど大きいかを悟るきっかけがある」という真理を改めて確認できるのである。

張ダビデ牧師は、それが最終的に私たちに「信仰の道」を示すのだとまとめる。信仰者になるというのは、決して「失敗しない完璧な存在になること」ではない。むしろ、失敗し挫折してこそ自分の限界を痛感し、そのとき初めてイエス様を全面的に仰ぐ姿勢が開かれる。私たちはペテロのように「最後まで主の道を従います」と決然と誓うかもしれないが、実際にはその決意を遂行できずにつまずくこともある。しかしそのときにもイエス様の愛は変わらない。主は復活された後、再びペテロを探して「わたしの羊を飼いなさい」と使命を与えられた。それはペテロ一人のためだけでなく、今日のすべての信仰者に与えられた慰めであり使命でもある。

ゲッセマネで明らかになったイエス様の孤独と、その前でさらけ出された弟子たちの弱さを同時に眺めるとき、私たちは「真の弟子の道」とは何かを模索できる。「主よ、私は決してあなたを裏切りません」という言葉だけで弟子の道が完成するわけではなく、倒れた後でも「主よ、私をあわれんでください。再び立たせてください」と祈る者こそが、真の弟子となる。張ダビデ牧師は「これこそが福音のストーリーであり、信仰の歩みとはまさにこのパターンの繰り返しだ」と語る。誰もがつまずき、自分の弱さを露呈する瞬間が必ずやってくるが、そのたびにゲッセマネで祈られたイエス様を思い出し、ペテロの失敗と回復を思い起こしながら、再び弟子の道へと戻っていくことができる。世間で言われる「十回倒れても十一回起き上がればいい」というスローガンではなく、「主が私たちを最後まで支えてくださる」という福音の真理がここにあるのだ。

だからこそ張ダビデ牧師は具体的に「教会の中で互いの弱さが表に出るとき、それを責め立てるのではなく、『私もまた同じ弱さを抱える者だ』と告白し合いながら、互いを建て上げねばならない」と教える。もしペテロ一人が失敗したとき、ほかの弟子たちが背を向けて彼を責め立てていたら、それは福音的な態度とは言えなかっただろう。イエス様は弟子たちを一つに結ばれ、ペテロとともに他の者たちも自分自身を省みるよう促された。後に使徒言行録を見ると、初代教会は互いに愛し合い、祈り合い、持ち物を共有し、時には倒れた兄弟を立ち上がらせる共同体へと成長していく。これこそまさに「キリストとともに歩むこと」が具体的に実現される姿である。十字架以後の復活、その後の聖霊降臨と教会の誕生は、ゲッセマネの眠り込んだ弟子たちが目覚め、「今度は共に目を覚まして祈る共同体」へと成長していく決定的な契機となったと言える。

総合的に見ると、張ダビデ牧師はゲッセマネの園に凝縮されているイエス様の孤独と、それによって際立つ弟子たちの限界を率直に描写することで、信徒たちに次のような結論を伝えている。第一に、イエス様の道は初めから終わりまで「孤独の道」であり、私たち罪人のために代価の杯をただ一人で飲み干された道であった。第二に、弟子たちは皆その道をまったく理解できないまま逃げ去り、あるいは師を裏切り否認したが、主は彼らの失敗をさえ赦し、再び使徒として立て、福音宣教の器とされた。この事実は私たちも例外なく弱い者だが、その弱さも神の救いのご計画の中で回復されうることを意味する。第三に、私たちがこの「十字架と回復の物語」を自分に適用し、今まさに苦難の中にあるときにゲッセマネで祈られたイエス様を仰ぎ見て、つまずいたときにも再び立ち上がる勇気を持てるようになるべきだということである。

これらすべては、「ゲッセマネの祈りを通してイエス様が示された完全なる服従、そしてその服従から生み出される救いの御業」へと帰結する。イエス様が十字架の道を「栄光」と告白されたその信仰が、あの道をともに歩めなかった弟子たちをも、再び「一緒に行こう」と招かれることになった。張ダビデ牧師はまさにこの地点で、私たちも主に従い、それぞれが負うべき十字架を喜んで担いつつ、それでも希望を失わない「復活の共同体」として生きるべきだと説く。苦難のただ中にあっても「アッバ、父よ」と呼び、「あなたのみこころのままになさってください」という告白があふれることこそが真のキリスト教信仰であり、マルコによる福音書14章に描かれたイエス様の叫びと弟子たちの失敗は、その信仰がいかに人間の現実のなかで激しく花開くものであるかを最も劇的に示している出来事なのだ。

こうしてゲッセマネの祈りと弟子たちの弱さを合わせて俯瞰するとき、私たちはあの十字架の夜が、決してイエス様おひとりの犠牲だけを語るのではなく、私たちすべての「苦難と救い」を貫く神の大いなる救済の物語であることに気づく。張ダビデ牧師の言葉を借りれば、「イエス様が最も激しく泣き叫ばれたあの瞬間こそ、同時に神なる父の愛が最も深く表された瞬間でもある」。そしてそのときそばにいるはずの者たちはことごとく眠り込んでいたが、むしろ彼らの眠りや裏切り、逃亡が逆説的に「人間の罪深さを赤裸々に示し、イエス様の救いのみわざなしには誰も生きられない」ことを証明している。しかし復活へと続く福音の結末は、私たちに希望を与える。初めは自分自身を過信し、大言壮語をしていたペテロでさえ失敗から立ち直り、教会の初代指導者になったのだから。同様に、私たちがどれほど深刻な罪責感にとらわれ、主のもとから逃げ出した過去があったとしても、再び立ち上がってキリストに従おうという道が開かれているのである。

ゲッセマネの祈りは、一見すると悲劇と孤独の極致に見えるが、張ダビデ牧師が言うように「神の国の新しい夜明け」を予告するものである。なぜなら、まさにその祈りによってイエス様は十字架へと進み、その十字架こそ復活への扉を開く核心的な原動力となったからである。弟子たちはあの夜目を覚ましていられなかったが、復活と聖霊の臨在後にようやく「目を覚ましている」弟子へと生まれ変わる。そして私たちもまた、ゲッセマネの祈りを思い返すことで、「目を覚まして祈れ」という主の声を聞くことができる。私たちの道がイエス様の道よりはるかに楽に見えるとしても、あるいは逆にイエス様が経験された苦痛に比べものにならないほど辛い状況に置かれているとしても、イエス様がすでに歩まれたあの孤独の道は「私たちのための道」であり、同時に「私たちが一緒に行こうと招かれている道」なのだと知る。

これこそが張ダビデ牧師が強調する「キリストとの同行」の意味である。イエス様はゲッセマネの園でただひとり汗を流して祈られたが、その祈りは「私たちをあがなうためのとりなしの祈り」でもあった。弟子たちは眠り込んでいたが、最終的には回復され、神の国の尊い働き手として用いられた。それは私たちが「主よ、目を覚ましていたいと思っていましたが眠ってしまいました。どうか私の霊魂を覚ましてください」と祈るとき、主が再び私たちを立ち上がらせてくださる恵みを体験できることを示唆している。こうして私たちは毎年、四旬節や復活祭を繰り返し記念しているが、それは単なる記念日ではなく、この孤独な従順の歴史の上に打ち立てられた救いが「今の私にも」現実となっていることを改めて確認する時間になるべきだと、張ダビデ牧師は結論付ける。

張ダビデ牧師はしばしば説教の中で「もしあの夜、私がイエス様のそばにいたらどうだっただろうか?」と問いかけ、「きっと私も眠り込み、逃げ出しただろう」と答えることがあるという。それほどまでに、人間の弱さは本質的に「あの弟子たち」と変わりない。しかしだからこそ、いっそう私たちには「キリストの恵み」が必要なのである。イエス様おひとりが忠実で完全であったからこそ、私たちは皆、失敗をしてもなお希望を持ち得る。このメッセージこそが、ゲッセマネの祈りの場面が今日を生きる信仰者にとって依然として切実な理由だと、張ダビデ牧師は重ねて強調する。

「キリストとの同行」とは、苦難や試練がまったくない平坦な旅路ではない。イエス様が歩まれた十字架の道、それを目前にしてゲッセマネで涙ながらに祈られた道こそが、救いを成し遂げる道だった。弟子たちはその道を正しく歩むことができなかったが、復活後にはそれぞれが十字架を胸に新しい一歩を踏み出すようになった。ゆえに私たちもこの苦難と恵みの道に参与しさえすればよい。弟子の道は失敗したときに終わるのではなく、その失敗を踏まえて再び主を仰ぐ道へと進む。イエス様の孤独は徹底したものであったが、その孤独が結果として全人類を救うみわざの起点となり、弟子たちのように弱い者たちさえ再び招き、立ち上がらせてくださった。

この一連の歩みの中で、張ダビデ牧師が繰り返し思い起こさせる要のポイントは、「アッバ、父よ」というイエス様の祈りのひと言にこめられた信頼と愛である。私たちが神を「アッバ、父よ」と呼べるのは、イエス様があれほどまでに徹底した服従を貫き、私たちを神の子とする道を開いてくださったからにほかならない。その恵みがあるからこそ、失敗した弟子も、眠り込んでしまった私たちも、裸で逃げ出したマルコでさえも、再び共同体に戻り、祈りによって目を覚ますことができるのである。「わたしの願いではなく、父のみこころのままになさってください。」この告白こそが、十字架と復活を貫く福音のエッセンスであり、私たちの回復と勝利のカギでもある。張ダビデ牧師が言うように、「私たちはしばしば挫折するが、イエス様の従順によって終わりなき恵みの道が開かれている」。ゲッセマネの長い夜は、その恵みの道が始まった場所であった。

私たちの人生でも同じような状況が訪れるときがある。理解できない苦難や、理不尽なこと、恐れが目の前に立ちはだかり、「この杯を取りのけてください」と祈りたくなるようなときに、イエス様が示されたあの道をもう一度思い起こすのだ。いくら落胆しても、失敗や恥の意識がどれほど大きくても、十字架と復活の栄光を信じるなら、私たちは再び立ち上がれる。なぜならイエス様がすでにその道を歩まれ、弟子たちの失敗でさえも新しく造りかえられたからである。結局、すべては神の主権と愛への絶対的な信頼から始まり、その信頼を最後まで手放さない「ゲッセマネの祈り」へと凝縮される。張ダビデ牧師のメッセージは明快だ――「私たちが主とともに歩む道は、この祈りを人生の中で繰り返すことにある」。そしてその繰り返しの中で、弟子たちの弱さが強さへと変えられたように、私たちの人生も神の御心にかなうように変えられていくのだ。

マルコによる福音書14章に描かれたゲッセマネの祈りとイエス様が味わわれた深い孤独、そしてそれを前にさらされたペテロや弟子たちの痛ましい弱さこそ、「キリストとともに歩む」ことがどれほど尊い恵みでありながら、同時に私たちすべてに開かれた新しい機会の道であるかを示す最も鮮烈な場面の一つだと言える。あの苦難の夜は決して悲劇的な終止符ではなかった。むしろ「立て、さあ行こう」(マルコ14:42)という主の声につながり、十字架と復活、そして教会の誕生へと続いたのである。張ダビデ牧師はまさにそこで、現代を生きる信仰者もまた、それぞれのゲッセマネで「アッバ、父よ」と呼びつつ目覚めて祈らねばならず、その結果として復活の力が私たちの現実ともなるのだと教えている。

このようにゲッセマネの祈りとペテロおよび弟子たちの姿は、福音の本質を最も鮮明に映し出す場面の一つだ。イエス様が体験された孤独は、私たちに「真の従順」の意味を呼び覚まし、その前でつまずいた弟子たちは、弱さを抱えながらも最終的に神の国の「使命者」となりうることを証ししている。私たちが失敗しても、それで終わりではない。主がもう一度道を開いてくださる。だからこそ、信仰者が歩みうる最も祝福された道は、「主とともにゲッセマネに入り、祈ること」なのだ。そこではじめて私たちは「わたしの願いではなく、御心のままに生きる」弟子の歩みへと進むことができる。これこそが張ダビデ牧師が継続的に強調してきた「キリストとの同行」の核心であり、ゲッセマネの園の夜が今なお私たちの胸に生き続けるべき理由なのである。

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心灵的割礼与福音的本质 — 张大卫牧师

的割礼与福音的本 —— 

以下内容基于张大卫牧师对罗马书3章1-8节的讲道手稿,但在此基础上将主题分为两大部分,更深入探讨经文的意义与神正论问题,以及对福音本质的讨论。整篇信息的主脉是保罗论点所具有的意义,以及由此衍生的“对上帝的误解与罪的责任”这一重要神学主题。同时,这里也结合了原文手稿所提及的旧约、新约经文背景,以及在教会历史与神学上的含义加以阐述。


1. 神正(Theodicy)的问题

张大卫牧师在讲解罗马书3章1-8节时强调,这段经文的核心议题与“神正论”问题有着深刻联系。神正论(Theodicy)指的是这样一种辩护或说明:全知全能且良善的上帝,如何允许这个世界上存在罪恶(惡)与不义(不義)?当我们仰望上帝的统治与护理时,人总会产生各种疑问:如何能够“替上帝辩护”,说明上帝依然是公义无瑕的?因此,神正论往往使信徒心情复杂,也成为非信徒怀疑或反对上帝的代表性议题。

在罗马书3章中,保罗提出了关于以色列民族所享有的特权,即“犹太人的优越性”到底是什么的问题。长期以来,犹太人对自己从上帝借摩西之手所领受的特殊盟约与律法深感骄傲,尤其是“割礼”这一记号,象征了他们是“圣洁子民”。然而在罗马书2章末尾,保罗曾直言:外在的割礼并不能真正确保“成为上帝子民”;即便拥有律法,若无法切实遵行,不仅无法自夸,反而会面临比外邦人更严厉的审判。犹太人听到这一令人震惊的教导时,必然会质疑:“那我们一直以来所享有的特权还有何意义?难道割礼从此变得无效了吗?”

张大卫牧师指出,犹太人的这种反抗态度其实也与神正论的质疑相呼应。若“上帝拣选了我们,可我们因罪而违背了律法,那岂不说明上帝方面也失败了吗?”——人总是想为自己的罪或过失寻找借口,甚至进一步将责任推给上帝。从创世记3章亚当与夏娃犯罪后彼此推卸责任的那一刻起,“为罪开脱、转嫁责任”的倾向就一直存在。

在3节中,保罗提出一个问题:“即便有些犹太人不信,那么他们的不信会使上帝的信实无效吗?”也就是:“如果作为上帝立约子民的犹太人中,有人不忠不信,那是否意味着上帝的信实也就落空了吗?”张大卫牧师认为,这一问题背后正是当时教会内外对神正论的一种典型抗议:上帝全知全能且拣选无悔,但既然祂拣选的百姓却因不顺服而遭审判,难道是上帝拣选失误,或者拣选之后却无力保守吗?

对此,保罗在第4节果断回答:“断乎不是!”他坚称上帝绝不可能不义、失误或对立约不忠。“纵使众人都虚谎,上帝仍然是真实的”——人的各种借口无法动摇上帝绝对的真理与信实。张大卫牧师特别强调“人都虚谎,惟独上帝真实”这一经文,并引用大卫在诗篇51篇4节的悔罪诗:大卫在与拔示巴的罪之后恳切悔改,承认自己只得在上帝面前认罪,唯有上帝是公义且纯全的。这表明人再怎么罪大恶极,也伤不了上帝的公义。

那么为何上帝不阻止犹太人犯罪受罚?或者干脆不让人类的堕落发生?这是神正论最常见、最根本的问题。张大卫牧师指出,其答案就在于“自由且基于爱的关系”。上帝赐予人自由意志,目的在于让人能够主动回应祂的爱。倘若没有自由,顺服只能是机器式或自动式的,但真正的爱无法建立在强制或程序预设之上。

有人或许质问:“若人的堕落也在上帝旨意之内,那岂不是祂在安排或计划恶?”或者说:“若犹大不背叛耶稣,十字架救恩怎能成就?那犹大岂不是在协助上帝完成救恩吗?”针对这类问题,张大卫牧师提到保罗在7-8节中表明的立场:有人说:“若我的谎言反而彰显上帝的真实,那我为何还被定罪为罪人?”保罗则回应:“若为成全善而行恶,那么我们干脆做更多恶事吧?绝对不可如此!”
若上帝事先就“计划好人的邪恶”,使恶成为成就善的工具,那么作恶之人甚至可以自傲地宣称自己是在“成全上帝计划”。但保罗对此坚决否认。人不能用任何方式逃避对罪的责任,也不能将罪的起源归咎于上帝。

张大卫牧师还借创世记约瑟的经历来阐述这一点。约瑟因兄长嫉恨而被卖到埃及,经历极大苦难。兄长们的行为无疑是“恶”的表现,不可能被视为“善”或上帝的“堕落预设”。但上帝却在这恶行之中保守了约瑟,最终使他升至宰相位置,借此在饥荒中拯救了许多民族。约瑟对兄长说:“你们本意是要害我,但上帝却把这恶事转为善事,使许多人的生命得以保全”(创50:20)。
由此可见,上帝是能“将人的恶变为善”的上帝,而非“把恶本身计划好”的上帝。祂拥有大能,不会向恶屈服,反能将恶反转为善。这正是神正论的答案所在。也就是说,人类的堕落与罪,是滥用自由意志的产物,但上帝有能力将人所造成的恶逆转为善。若有人声称“堕落就是上帝的旨意”,或者“离了恶就无法彰显善”,那便是保罗所极力警戒的歪论与亵渎。

张大卫牧师呼吁我们留意保罗向罗马教会内外的犹太人所提出的要点:保罗本人也曾出于对律法的热心而迫害过耶稣,但当他与基督相遇后,一切都截然不同。他真正明白了律法之深义,以及基督为赎罪而自我牺牲的十字架之意义。从那爱的角度看,人犯罪从来不是上帝原本的心意,也非上帝强迫安排。人的不顺服,应由人自己承担责任。上帝却仍然用爱忍耐,盼望人悔改,并为此亲自献上生命。

罗马书3章1-8节以一问一答的形式,探讨:“犹太人的失败会否令上帝的信实破灭?”“若通过恶行彰显善,那恶是否也必要?”保罗反复强调“绝对不可能!”意思是:上帝始终真实公义;罪与恶全由人承担责任,而上帝却伟大到能够将人的罪恶逆转为善。犹太人若听到这个信息,就应当反省自己,停止只为曾受赐律法的特权而骄傲,而应该为未能真正顺服上帝而深切悔改。

神正论的答案正是如此:“上帝为何不立刻审判恶人?”“为何任凭历史如此漫长,以至于罪横行?”——这类问题多半仍是在把责任推向上帝。张大卫牧师透过保罗的宣告提醒我们:“断乎不是!”并非要替上帝辩护,而是要坚信上帝满有慈爱与公义。换言之,“人若无法成为上帝的选民,该由谁负责?是上帝的错吗?”当然不是。人应当反省自己:“我不信、我不顺服、我违背了上帝的话语。”若反过来质问“为什么你不阻止我?”“为什么你要预定如此?”就绝对无法进入正道。那种对爱之上帝的重大误解,正是保罗大声驳斥的被滥用的预定论或扭曲的神正论。


2. 福音的本:做“心受割的人,活出信仰

在上文对神正论问题的探讨之外,张大卫牧师也关注到,罗马书3章1-8节还隐含了另一大主题——“福音的本质”。保罗在罗马书2章28-29节已宣告:“表面上的犹太人,不是真犹太人;肉身上的割礼,也不是真割礼。唯有里面作的犹太人,才是真犹太人;割礼也当行在心里。”这是对传统选民观的根本性冲击。

张大卫牧师解释,保罗此言并非简单地否定割礼的价值,而是要指出:“真正的割礼、真正的信心与顺服,究竟从何开始?”犹太人以受割礼来表明自己继承了亚伯拉罕之约,从而确立“立约子民”的身份。但保罗警告说:“若你违背了律法,你的割礼便等同于未受割礼”(罗2:25)。换言之,若不守律法,即便你已经行了肉体上的割礼,也仍不能算是真正的上帝子民。

保罗并不是全盘否定割礼的任何益处。在罗马书3章1-2节,他就问道:“那么,犹太人有什么长处?割礼有什么益处?凡事多有好处,第一在于他们得托付了上帝的圣言。”张大卫牧师结合当代教会实际说明,“基督徒受洗也是同理”。洗礼本身并非无用的仪式,而是公开向世人宣告自己与主同埋葬、同复活的重要礼节。问题在于,若它沦为仅剩外在形式,而无内在实意,就毫无益处。

保罗在罗马书9章以后再次提到,犹太人确实拥有极大的特权:他们得着“儿子名分”(罗9:4)、蒙了“各样的约”(罗9:4),得到“律法”(罗9:4)和“应许”(罗9:4)的托付,连基督也从他们的血统而出(罗9:5)。这是何等荣耀。如今,在教会中受洗或自幼在基督徒家庭中长大的信徒,也同样带有某种“恩典的条件”。然而,这些条件究竟是停留在“自我夸耀”上,还是成为真正将生命献给上帝、实行“心灵割礼”的契机?

张大卫牧师进一步引述旧约先知耶利米书31章33节:“耶和华说:‘我要将我的律法放在他们里面,写在他们心上……我要作他们的上帝,他们要作我的子民。’”这才是上帝真正期盼的“立约关系”。不在肉体外表,而在内心深处受割礼,即不是停留在条文或形式,而是借圣灵产生的顺服。耶利米与以西结等先知都多次强调:“我要从你们肉体中除掉石心,赐给你们肉心,又将我的灵放在你们里面”(参结36:26)。

保罗在加拉太书、腓立比书、歌罗西书等书信中多次探讨这一议题。在加拉太教会中,有些犹太背景的基督徒主张“外邦信徒也必须受肉体割礼才算真得救”。对此,保罗严厉斥责,甚至用“当防备那些妄行割礼的”(腓3:2)字眼。他宣告:“因为真受割礼的,乃是我们这凭上帝的灵敬拜,在基督耶稣里夸口,不靠肉体的”(腓3:3),并警告那些执着“外在割礼”的人反而是“犬类”。

在歌罗西书2章11节起,保罗同样提及在基督里所受“非人手所行”的割礼:这是透过洗礼与基督同死同埋葬、又与祂一同复活的奥秘(西2:12),即与基督联合(Union with Christ)的真理。张大卫牧师由此指出:“可见,外在的记号只是表征内心改变的一个标记(sign);它本身并不决定一切。”

保罗在罗马书2-3章的脉络里,将此观点直接应用到犹太人身上:“不可以只因外表行割礼就自诩是选民;外在形式不是本质。唯有真心悔改与信服,才能让割礼发挥意义。”他严肃警告说:“若不遵守律法、反而亵渎了上帝名,即使受割礼也等同于未受;相反,若未行割礼者却遵守了律法,就在上帝面前被视为是割礼之人”(参罗2:25-27)。

对于犹太人而言,这番话无疑是震撼性的,他们自然反问:“那我们行割礼、传承律法岂不是毫无用处?”保罗回答:“当然不。因为你们领受了上帝的话语,这确是一种特权”(罗3:2)。但他同时告诫:若不忠实于上帝的本意,反使祂的名受羞辱,这特权反会成为更严厉的审判依据。

张大卫牧师提醒我们,这一点同样适用于当代教会:洗礼、长年信仰资历、教会职分、神学知识等,都是可贵的恩典见证。但若只把它们当做外在夸口,则毫无意义。保罗在罗马书2章形容:某些外邦人(放到今天可理解为“非基督徒”),仅凭良善与道德,也足以让那些自诩基督徒却缺乏实际顺服的人无地自容。这正是经文所谓“未受割礼者若遵行律法,岂不更显出你的亏缺?”(参罗2:27)。

那么,福音的本质何在?保罗在其他书信屡次重申“义人必因信得生”(罗1:17,加3:11等),意即我们的得救并非源自功德或外在形式,而是基于基督十字架的代赎与复活,并且“因着信”才能领受这救恩(弗2:8-9)。但这并不意味着“肉体记号毫无价值”,而是说:割礼或洗礼只是外在的符号(sign),用来向上帝和教会群体见证我们内心的真实状态。它并非本质;本质乃是“心灵的割礼”——借着圣灵在内心里更新、真诚悔改与顺服上帝的爱。

耶稣在世上亲身示范了爱、谦卑、服事和恩典,正是信仰生活中最应结出的果子。张大卫牧师反复强调:“不要以为割礼或洗礼就自动保证得救,也不要以为教会里有许多事奉经历就能算为义。”

保罗在罗马书3章继续对比“上帝的义”和“人的不义”,由此也衍生了另一个谬论——若“我的不义反而衬托出上帝的义,岂不是带来好事吗?”甚至有人提出“那不如多行恶,好叫善显得更大”(罗3:8)的极端主张。保罗针对此直言“定罪是应当的”。人若犯罪后仍妄称“结果上帝的荣耀更显出来了,我的罪也成了功劳”,这无疑是对福音本质的严重扭曲。

保罗在整卷罗马书中想要突出的主题之一是:救恩绝非起源于人自己,而是源自基督的十字架;唯有我们凭信心领受,圣灵才在我们内里动工,使我们“心灵受割礼”而重生。张大卫牧师进一步指出,这真理不但破除了所有律法主义的形式,也为“神正论”问题提供了强有力的论据。因为上帝从未预先策划“恶”,而是把人造得有自由,并在我们滥用自由堕落之时,依然选择以十字架来施行救赎。

在罗马书3章1-8节的脉络里,种种质疑——“犹太人的特权有何意义?”“他们的不信是否代表上帝失败?”“若不义更彰显上帝的公义,那罪本身是否有益?”——都得到统一回答:上帝依然公义且信实,人却常因不信或无知而陷于虚妄;保罗以“断乎不是!”那句决然的话为结论,敦促教会今日亦当警惕仅凭外在形式、忽视内心更新的宗教生活。

就神正论层面而言,“上帝为何允许恶存在如此之久?”这问题最终指向“为何上帝不把我们变成提线木偶?”但无自由的爱,其实并非真正的爱。上帝如此尊重我们,却又让我们可以在罪中跌倒,而责任无可推卸。与此同时,基督在十字架上付出代价,确保人的堕落也无法否定或摧毁上帝的爱与主权,反而彰显了祂能将恶化为善的能力。祂如此伟大的爱,超越了一切黑暗。

这也让我们重温“被拣选却不配合这拣选”之犹太人,或“表面接受福音却缺乏行为体现”的现代基督徒,同样面临警醒。保罗的提醒以及张大卫牧师的诠释,都敦促我们悔改并下决心:没有“心灵割礼”的宗教活动,绝非真福音生活;把罪之根源推给上帝,更是严重错误。

张大卫牧师将此总结为“回归福音的本质”。这福音的核心在于:人之罪和悖逆完全出于人本身,但上帝的信实却不被动摇;祂甚至甘愿舍己,使罪人得恢复,并藉圣灵在人的内心动工,使凡真心悔改、信靠祂的人都能得到拯救。若我们已然得着此恩典,就当活出与这恩典相称的生命。那才是“心灵受割礼”之人的存在方式。

罗马书3章1-8节给出的主要教训可归纳如下:
第一,当人陷在谎言和罪中时,往往容易误解上帝,并想将罪的责任推卸给上帝;这是从创世记开始就有的人类罪性。
第二,然而上帝绝不会放弃祂的信实,人再不信也动摇不了上帝的计划。
第三,若我们只因外在的割礼、礼仪、长年信仰经历来自夸,就会与保罗所责备的犹太人犯同样的错误。
第四,真正的福音在于“人心里信而称义,口里承认而得救”(罗10:10),这包含“非人手所行的割礼”,也就是圣灵带来的内在改变与决心。
第五,那种“让恶多一点,好让善更明显”的荒唐谬论绝对不被允许。上帝虽可化恶为善,但这并不意味着人可推卸罪责。

张大卫牧师强调,这信息不仅给两千年前的犹太人,也同样指向现今所有基督徒。唯有破除对上帝的偏见与误解,才能进入保罗在罗马书所宣示的“因福音而得的自由”(罗8:2)。在我们发出“上帝啊,为什么你容许恶到这个地步?”的神正论质疑前,更应自问:“我是否已受心灵的割礼?”“我是否真凭信心生活?”

若我们自以为“我已受洗、在教会几十年了,所以很安全”,其实和犹太人质问“那我们还有何益处?”并无本质差别。基督徒的名分应通过高举上帝之名、活出见证来体现。若外邦人看见我们自称信主,却行事虚伪败坏,反而会责备“因你们,上帝的名受亵渎”,那与只拥有外在割礼的犹太人毫无分别。

因此,透过对罗马书3章1-8节的整体讲解,张大卫牧师反复呼吁:“要受心灵的割礼!”唯如此,我们才真正能与保罗同感:“众人都虚谎,唯有上帝真实。”若我们仍陷于罪,却仅借“上帝全能”“上帝预定”之类词语来开脱,那就只会逃避信仰的本质与自身应有的生命更新。

除此以外,若缺乏源自内心的悔改与信心,我们对“神正论”的答案也只能停留在空洞理论层面。说什么“都是上帝的安排”“无法测透上帝的旨意”,并不能让我们在实际生活中更坚定地相信上帝或更喜乐地传扬福音。但正如保罗,若我们曾是“罪人中的罪魁”,却因基督恩典称义,就不会把神正论的疑问当作自我开脱的借口;反而会谦卑自省,尊崇上帝,远离罪恶,选择行善,并为自己拥有“自由选择”的尊贵而感恩。

保罗之所以要透过“犹太人的优越与不信”,引出神正论的讨论,并且一再强调“断乎不是!”,同样适用于今日的我们。无论何种方式,将罪起源归咎上帝都是错误;企图以更多罪来彰显上帝之恩典更是荒谬。唯有当我们在基督里经历真实的救恩,且由心灵受割礼而更新时,才能确证福音的真实性。

结合经文背景、神正论议题,以及成为“心灵受割礼”之人的福音本质,并延伸到旧约、新约与初代教会的冲突,我们得出明确的结论:“纵使人都虚谎,上帝依然真实;祂的爱大到足以把人因滥用自由意志所犯的罪也逆转成善,但这绝不成为为罪开脱的理由。”我们切忌认为外表就能保证什么;应当真诚悔改、顺服,做“里面的信徒”。这正是保罗“断乎不是!”背后所隐藏的真理,也是张大卫牧师在讲解罗马书3章1-8节时所要传达的核心信息。

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