張ダビデ牧師 – 徴税人と罪人に向けた福音


1. 福音と愛

福音とは、キリストの愛の物語です。教会が伝える「良い知らせ」であり、イエス・キリストの生涯と教えを通して私たちに示された、神の救いのメッセージでもあります。この福音がなぜ「愛」と結びつかざるを得ないのか、またなぜ福音が犠牲的な愛の極みを示すのかは、聖書の多くの箇所で確認できます。聖書学者たちが「最もよく福音を説明した章」と呼ぶルカの福音書15章には、救いと愛の核心が込められています。同時に、福音の本質は人生の変化であり、その変化は最終的に「人間が神のかたち(イマゴ・デイ)を回復し、人間本来の姿になる道」であると言うことができます。ところが、この福音が単なる人間の感情や一時的な熱狂にとどまらず、実際の生活の中で具現化される「愛」となるためには、その源が神にあり、その実践的内容は「犠牲」として表れなければなりません。

多くの人々は、福音を教会が伝えるある種の教理や信仰体系だと考えることがあります。しかし、イエス様ご自身が生き方で示された福音は、文字通り「一人のいのちのために自分のすべてを捧げる愛」にほかなりません。その愛の本質を分析的に描写した代表的な章が、コリント人への第一の手紙13章です。都会の言葉で表現したパウロの「愛の章(章節)」は、愛の属性を非常に論理的かつ解説的に解き明かしています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません…」と始まるみことば(第一コリント13:4以下)は、世界のどこで聞いても理解しやすい普遍的な言葉です。しかし、これがただの道徳的教訓でも礼儀作法としての愛でもなく、「キリストが十字架で示された犠牲的愛」であることを悟ることが重要です。

第一コリント13章の最後の部分で、パウロは「主が私を知っておられるように、私も全く知るようになる」(第一コリント13:12)と述べ、愛を「知ること」と同一視しています。ヘブライ語で「知る」という語は、単なる知識習得ではなく、人格的な交わりと深い親密さを意味します。それほど愛には、互いを深く理解し受け入れる関係的側面があるのです。ここで「主が私を知っておられるように、私も全く知るようになる」というみことばは、言い換えれば「主が私を愛してくださったように、私も完全な愛をもって主を知るようになるだろう」という意味にも解釈できます。このように、愛の本質は神との親密な交わりに根ざしています。

ヨハネの手紙第一4章19節で「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」と教えるように、福音は神が先に私たちを愛されたという宣言です。私たちが「愛を学ぶ」と言えるのは、まず神から愛されたからであり、その愛に気づき深く味わっていく過程の中で、私たちも他者を愛する存在へと変えられていくのです。このように、福音は徹底的に神の愛と犠牲から始まります。そしてその対象はすべての人々、さらには徴税人や娼婦にまで及びます。イエス様は死に至るまでご自身を低くされ、そのへりくだりと犠牲のうちに神の愛が最も明確に示されました。

ローマ人への手紙10章では、「人は心で信じて義とされ、口で告白して救いに至る」と語られています。信仰とは、まず心が開かれ、そこから自然に告白へと至るものです。しかし、その心が開かれるきっかけはさまざまです。先に知的理解を得てから心が開かれる場合もあれば、先に心が開かれて後から知的理解が続くこともあります。重要なのは、最終的に心と理性の両方が共に動いてこそ、完全な信仰と愛の実践が可能になるという点です。ギリシア人が「人間とは理性を持つ存在だ」と強調したように、私たちが「愛とは何か」「主がなぜ私たちを救われたのか」「なぜ私たちは主を信じるべきなのか」を熟考することは非常に重要です。この悟りがなければ、私たちの信仰が形だけに陥ったり、慣習的な行為に堕する危険があるからです。

では、愛とは具体的に何でしょうか。聖書が一貫して語る愛は「犠牲」です。歴史的な例としてよく取り上げられるのが、ポンペイ(Pompeii)の火山爆発で街が埋もれた時、母親が子どもを抱きかかえたまま亡くなった痕跡が発見されたという話です。噴火から子どもを守るため、自分の体で覆って救おうとした母親の本能的な犠牲が、そのまま化石のように固まって残っていたのです。これはいのちを守ろうとする愛がどれほど強力な力を持つかをよく示しています。一般的に、生物の本能は自己保存に傾く傾向があります。植物も地中から芽を出す時、互いに譲り合うよりも自分がより多くの光や栄養を得ようと競争します。しかし愛は、この自然的本能とは異なり、「自らを犠牲にしてでも、他のいのちに道を開き、守る」行動を可能にします。

私たちは、イエス・キリストが示された生き方、すなわち十字架上での死こそが「犠牲的愛」の頂点であると告白します。イエス様の十字架の出来事は、罪のない清い方が罪人の救いのために代わりに死なれた、最も劇的な愛の行為でした。張ダビデ牧師が度々説教や講演で強調するように、福音の核心はまさにこの犠牲にあります。主の死は、単に宗教的象徴や儀式ではなく、私たち全員に向けて「このようにしてあなたがたを愛しているのだ」と直接示された、行為による表明なのです。世にはさまざまな愛の形がありますが、「自分のすべてを惜しみなく捧げる愛」は最も究極的な形であり、それこそがキリスト教の福音が伝えるメッセージの本質でもあります。

さらに、私たちがこの愛の価値を悟るなら、その犠牲が決して無駄ではなかったことに気づくはずです。「犠牲」という言葉を漢字で「犧牲」と書く時、「牛」を意味する文字が含まれているとよく言われます。牛は一生、畑を耕し、力を尽くして主人を助け、最後には肉も革も骨も、さらには尻尾までも捧げ、人間に貢献します。牛が生涯をかけて主人に仕えるように、イエス様はご自身の生涯すべてを私たちのために捧げ、その愛の偉大さを自ら示されました。これは華々しいイベントでも大げさなパフォーマンスでもなく、身近で目に見える低い姿での献身、弟子たちの足を洗われるような仕えの態度を通じて明らかにされました。

ヨハネの福音書13章で、イエス様が弟子たちの足を洗われる場面は、十字架への道が始まる象徴的な出来事です。その箇所では、「世にいる自分のものを愛して、彼らを最後まで愛された」と記録されています(ヨハネ13:1)。「最後まで」という言葉には、私たちの裏切りや拒絶、忘恩にもかかわらず、限りなく忍耐し包み込む神の思いが込められています。この十字架の愛は、単に私たちに倫理的教訓や慰めを与えることを目的としたのではなく、実際に救いと回復をもたらす出来事でした。人間が罪のゆえに永遠の死へ向かっていた時、主はご自身のいのちを差し出し、私たちにいのちを与えてくださったのです。私たちが「イエス様を愛する」と告白するとき、その背後には「主がまず私を愛してくださった」という歴史的事実が置かれています。

では、なぜこれほど偉大で犠牲的な愛の物語が「福音」と呼ばれるのでしょうか。福音とは、ただ神の存在を知らせるだけの情報ではなく、「神が私たちをこのように愛してくださった」という宣言であり、その愛によって人は罪から救われ、真のいのちを得ることができるという約束です。ローマ人への手紙5章でパウロは、「私たちがまだ罪人であったときにキリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自分の愛を明らかにされた」と語ります。つまり救いは、私たち自身の努力によって得る業績ではなく、徹底的に神の恵みであり、その恵みは神が先に愛を施してくださった事実によって示されます。私たちはその愛に気づき、それに応答して感謝と献身の生涯を歩むようになります。それが福音が生活の中で実現していくプロセスです。

聖書が語る愛は、単に「愛している」と言うだけのスローガンではなく、具体的に「仕え」と「犠牲」として現れます。イエス様が徴税人や罪人たちと食卓を囲まれた時、パリサイ人や律法学者たちは非難しましたが、イエス様は意に介されませんでした。むしろ、彼らのもとへ自ら出向き、共にとどまり、彼らの罪を責めつつも同時に赦しと回復を与えてくださいました。真の愛とは、そのように「自分で足を運んで近づいていく愛」です。

もし私たちがイエス様を真に知ったなら、同じ愛をもって人々に仕え、受け入れることができるはずです。イエス様のように、罪人や徴税人、そして私たちの人生において最も疎外され苦しむ人々を顧みるとき、私たちはキリストの愛を最も具体的に示すことになります。張ダビデ牧師が繰り返し説いてきたように、教会が社会で「光と塩」の役割を果たすためには、まさにこのイエス様の犠牲的愛を土台として、日常生活の中で助けを必要とする人々を積極的に探し出していく姿勢が非常に重要です。言葉だけで福音を伝えるのではなく、行動で福音を示す時、人々は福音の真の意味を目の当たりにし、心から悟るようになるのです。

私たちは皆、心の奥底に「牧者の心」を持っていることを自覚すべきです。なぜなら、神が人間を「ご自分のかたち」に創造されたので、私たちの内には、困っている人を見て憐れむ感情や、弱いいのちを守ろうとする本性が備わっているからです。世の常識は、多くの場合「99という多数を優先する」論理です。「1より99の方が大切だ」というこの世の計算に慣れてしまうと、弱者や疎外された人を顧みるために自分の心や時間、資源を使うのは非効率だと感じるかもしれません。けれども福音の論理は全く逆方向を示します。主は迷い出た1匹の羊を探すために、野原に残した99匹を置いてでも旅立つ牧者の物語をもって、「神にとってその1匹がどれほど大切か」を強調されました。


2. 徴税人と罪人の福音

ルカの福音書15章はまさに、この「一つのいのちに対する神の思い」をよく示す章です。1節には「すべての徴税人と罪人たちが、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた」と記され、2節ではパリサイ人と律法学者たちが「この人は罪人たちを受け入れて、彼らといっしょに食事をしている」とつぶやいたとあります。ユダヤ社会で「罪人」という言葉は、宗教的・道徳的基準から大きく外れた人々を指すだけでなく、人々に忌避される存在の総称でもありました。ところがイエス様は、そのような罪人を排斥するどころか、むしろ食卓を共に囲み、交わりを持たれたのです。これは単に社会的タブーを破る行為ではなく、律法に馴染んだ人々の根本的な思考様式を揺るがす出来事でした。

パリサイ人や律法学者は、ユダヤ教社会や宗教界で尊敬され、律法を厳格に守る人々でした。彼らは「聖」と「区別」を強調するあまり、自らを罪人と徹底的に隔絶し、ともに食事すらしませんでした。しかしイエス様はその垣根を取り除き、罪人たちを受け入れ、彼らの人生のただ中に入られたのです。福音とはまさしく、このような「見知らぬ交わり」を通じて実際に伝わっていきます。遠くから「お前たちは罪人だ。すぐ悔い改めよ」と叫ぶのではなく、傍に近づいて手を取り、立ち上がらせてあげる姿こそが、イエス様が示された福音でした。

ルカの福音書15章に登場する迷子の羊、失われた銀貨、そして放蕩息子(帰ってきた息子)のたとえ話は、いずれも同じテーマを含んでいます。一見価値がないように思われ、罪に染まった人々に対する神の執拗な救いの意思と、回復された後にともに喜び合う天の喜びを示しているのです。イエス様はこれらのたとえを語られて、「神の喜びは、義人九十九人よりも、罪人一人が悔い改めることに、いっそう大きく現れる」と宣言されました(ルカ15:7)。これは論理や効率ではなく、愛によって動かれる神の思いなのです。

実際、徴税人や娼婦は当時の律法社会で最も蔑まれた層でした。徴税人は金銭の奴隷となった者として見下され、娼婦は性的な罪で最大限の軽蔑を受けていました。しかしイエス様は「徴税人や娼婦は、あなたがた(パリサイ人)より先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)とさえおっしゃいました。彼らは罪が多い分、赦しを受けた時の感謝と喜びもいっそう溢れ、その感謝こそが最終的に人生の完全な悔い改めと変化へつながったのです。「罪の増し加わったところに恵みもいっそう満ちあふれる」というパウロの言葉(ローマ5:20)のように、大きな罪を悔い改めた人ほど、恵みと感謝を深く味わうという逆説が示されています。

このような愛と救いのメッセージは、現代の私たちにも同様に当てはまります。時に世の風潮は「価値のある人とそうでない人を分けるべき」「投資対効果が高いところに資源を集中すべき」と語ります。教会でさえ、このような世俗の論理を受け入れ、より「有能そう」に見える人、より「多く持っている」人を歓迎し、それ以外の人を放置または軽視してしまうことがあります。しかし福音の本質は、まったく別の方向を指し示しています。迷える一匹の羊を探すためにいとわぬ労を払い続ける、あの牧者の心こそがイエス様が語られる教会の本質であり、その愛こそ、失われた魂を救い出す原動力となるのです。

イエス様はこの「低いところへの関心」を何度も強調されました。マタイの福音書25章、オリーブ山での説教の最後の部分では、「最も小さい者にしたことは、すなわち私にしたのだ」と語られています。これは、主が私たちに望んでおられるのは「貧しく疎外された者への具体的な関心と愛」であるということをはっきり示しています。その愛を実践することこそ教会の責務であり、その道を通して私たちはキリストの御国をこの世に広げていくことができます。張ダビデ牧師は、宣教のさまざまなアプローチにおいて、「福音は言葉だけでなく、具体的な行い(deed)を伴わなければならない」と繰り返し強調してきました。言葉と生き方が一致しない福音は半分にすぎず、人々の心を動かすことはできないというのです。

したがって教会がこの福音の働きを拡大していく際、まず持つべき姿勢は、「世で最も弱く疎外された人々を探し、彼らに近づくこと」です。ルカの福音書15章4節の「あなたがたのうちに、羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹を失ったら、その失った羊を見つけるまで探し回らないだろうか」というみことばは、イエス様が私たち全員に本来備わっている「牧者の心」を呼び覚ましておられます。パリサイ人や律法学者たちはその心を失っていたため、徴税人や罪人を見下し、彼らと食卓を共にするイエス様を非難しました。しかし本当は、私たちの内面の深いところに、迷える一匹の羊を思って胸を痛める想いがあるのです。問題は、世の価値観や忙しい日常、あるいは自分の利己心がその思いを抑え込んでしまうことにあります。

主は私たちに、そのような障壁を乗り越えるよう望んでおられます。教会が大きくなり、さまざまなプログラムが増え、財政的資源が豊かになるほど、いつしか「失われた一匹」よりも「既に集まっている九十九匹」のために、便利で効率的な働きを選びがちです。しかし福音は一人の魂を大切にするよう教えます。そしてその一人の魂が悔い改めて帰ってくるとき、天では大いなる喜びの宴が開かれることを思い出させます。

ルカの福音書15章5節、6節を見ると、「見つけたら大喜びでその羊を肩に担いで、家に帰って友達や近所の人々を呼び寄せ、『いっしょに喜んでください。なくした羊を見つけましたから』と言う」と記されています。失われた羊を探しに行った牧者は、その羊を見つけたときに最高の歓びを味わいます。それは物を一つ見つけた安堵感とは次元を異にする喜びです。いのちを生かし、関係を回復させることによる喜びは、この世のいかなる喜びとも比べられない真の歓びなのです。

それゆえに私たちが本当に神を喜ばせたいのなら、失われた魂への関心を決して失ってはなりません。神が最も喜ばれるのは、罪人の一人が悔い改める瞬間です。ルカの福音書15章7節のみことば「悔い改めを必要としない九十九人の義人よりも、罪人がひとり悔い改めることのほうが、天にはもっと大きな喜びがある」はそれをはっきりと示しています。

ここで忘れてはならないのは、「悔い改め」が単なる道徳的反省や形式的な罪の告白を意味するのではないということです。聖書的な悔い改めは「方向転換」です。人生の目標や価値を根本から変えてしまうことであり、そこには、自分が罪を認め、神の赦しを信じ、二度とその罪の道へ戻らないという意志が含まれます。真の悔い改めは、神の愛を深く悟れば悟るほど可能になります。なぜなら、神の愛がどれほど大きいかを知る人ほど、罪の深刻さや自分がその罪からどれほど大きな恵みを受けたのかを強く実感できるからです。その恵みを大きく悟る人ほど、感謝と献身が自然に生まれ、その人は福音の力を証しする通路となります。

ペテロを例に取ることができます。イエス様はペテロがやがてイエスを三度否認することをすでにご存知でしたが、「しかし、あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)とおっしゃいました。ペテロが罪を犯すことになるが、その罪から立ち直り真に悔い改める過程を通して、より大きな愛の証人となるだろうという意味でした。これは私たちにとっても大きな慰めと挑戦です。私たちが罪によって倒れても、その場で悔い改めて方向転換をするならば、神はその弱さすらも用いて、さらに大いなる恵みと愛を分かち合う器としてくださるのです。これこそ律法の世界とは違う、福音の世界です。律法の世界では「罪を犯したなら罰を受ける」のが当然の秩序ですが、福音の世界では「赦しによって変化が起こる」という神の信頼が優先されるのです。

張ダビデ牧師は、数多くの説教や講演の中で「徴税人と罪人を受け入れたイエス様の生涯こそ、教会の永遠のモデルだ」と教えてきました。彼の教えによれば、教会がキリストのからだとして存在するためには、世の人々に対して閉ざされた家ではなく、常に開かれていて、新たなチャンスを提示し、一人でも多くが悔い改めて戻ってこられるよう門を大きく開けておかねばならないといいます。また、今日の教会はもっと積極的に、社会の影に隠れた場所、貧しく病んでいる人々、ホームレス、外国人労働者、脱北者、移民など、この世で最も低いところにいる人々を訪ねて奉仕し仕える働きを通して、イエス様の福音を実際に示すべきだと強く主張しています。これこそ「徴税人と罪人の福音」の精神を受け継ぐ教会の使命だというわけです。

今日、教会が大型化し、多くの財政や資源を手にするようになる中で、社会から「成功」を認められることも悪いことではありません。しかし、そのような物質的豊かさは、しばしば私たちの視野を狭め、貧しい者や弱い隣人を見過ごす誘惑をもたらします。イエス様が語られた「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)という戒めは、頭の中に留まる観念だけではなく、ルカの福音書10章の善きサマリア人のたとえのように、現実に「血まみれで倒れている隣人」を見捨てず、実際に助ける愛の実践にほかなりません。それこそが福音であり、教会がこの地上で担うべき役割です。

この使命のためには、時に組織的な努力とともに個人の献身が求められます。ある教会は宣教地に直接学校を建て、医療宣教や教育の働きを広げながら、現地の人々の生活を改善しようと努力しています。張ダビデ牧師は「来年の教会設立30周年を迎えるにあたって、貧しい国々に300の学校を建てよう」というビジョンを示し、その目的は単なる「建物を建てること」ではなく、失われた魂を探し出し、彼らに福音の実際的な恵みをもたらすことだと力説してきました。学校を通して子どもたちが教育を受け、病気から解放され、自らの将来を描く機会を得るならば、それはただの宣教プロジェクトを超えて、「失われた羊を探しに行く福音」の実践そのものとなるのです。

このように福音は、私たちに「新しい目」を開かせます。かつては気にも留めなかった人々を新たに見つめ、その人たちと喜びや悲しみを共有し、必要を満たそうとすることに喜びを感じるようになるのです。それは世の計算論では到底理解できない逆説的な世界です。一匹のために九十九匹を後に残していく世界、貧しい者や病んだ者にまず手を差し伸べる世界、罪人を頭ごなしに断罪するのではなく、悔い改めて戻る道を開いてあげる世界、これこそ私たちが言う神の国です。

私たちはイエス様のみことば、「あなたがたのうちに羊が百匹いて、そのうちの一匹を失ったなら、残りの九十九匹を野原に残してでも、その失われた羊を見つけ出すまで探し回らないでしょう?」(ルカ15:4)を日々黙想すべきです。そして私たちの日常生活の中で、本当に失われた羊たちを探しているのか、彼らのために時間と心を費やしているのかを振り返らなければなりません。教会の中でも同様です。初めて教会に来た新来者や、過去の失敗や傷のために心を閉ざしている人を見過ごしていないか、自問する必要があります。福音とは、まさにそういった人たちに最初に手を差し伸べるようにと促すイエス様の声だからです。

「徴税人と罪人の福音」とは、単に犯罪者や特定の重い罪を犯した人のためのメッセージではなく、「すべての人間が神の前では罪人である」という聖書の教えに基づく概念です。私たち皆が神の前では罪人であり、恵みを必要としている存在なのです。イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためだ」(ルカ5:32)と宣言されました。これは「自分は正しい人だ」と思い込むことで、「この言葉はあの人だけに当てはまるのだ」と勘違いしないようにという警告でもあります。実際、私たち一人ひとりがイエス様の救いの計画に含まれる「失われた羊」でしたし、主はまさに私たちを探し出し「最後まで」愛してくださったのです。

張ダビデ牧師が投げかける「私たちは本当に、失われた羊一匹を想う牧者の心を持っているのだろうか?」という問いは、教会がこれからも問い続けるべき本質的な問いです。教会の建物やプログラムを増やしたり、信徒数や献金を増やすことも大切かもしれませんが、もっと根源的で本質的な働きは「低いところにいる人々を探しに行き、彼らと共に泣き、共に笑いながら、福音を具体的に伝えていくこと」だからです。私たちはしばしば「自分にはそんな力はない」と言いたくなりますが、使徒の働き3章でペテロが語ったように、「金銀はわたしにはない。しかしわたしにあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストのみ名によって(歩きなさい)」という確信と勇気を持つ必要があります。福音それ自体が最も大きな賜物であり、力だからです。

神は失われた羊を探すとき、その愛の労苦を天で大いに喜ばれます。そしてその喜びに私たちも共にあずかることができます。ルカの福音書15章で、失った羊を見つけた牧者は友だちや近所の人を呼び集め、「いっしょに喜んでください。迷子の羊を見つけたのです」と叫びます。教会とはまさに、この喜びを人々と共有する共同体です。すなわち救いの喜び、悔い改めの喜び、赦しの喜びを互いに分かち合い、神の国の宴をあらかじめ味わわせる役割を担っているのです。

結論として、福音は「徴税人と罪人の福音」です。イエス様が示された生き方と教えは、失われた者を狙い撃ちにする具体的な献身と愛でまとめられます。徴税人や娼婦が悔い改めて神の国に入り、大きな罪を犯した人が赦されて一層大きな感謝をもって神に仕えるようになる――そうした世界こそ、イエス様の福音がもたらす革命的な変化です。私たちはこの愛を単に頭で理解するだけでなく、実際の生活の中で実践することで証ししなければなりません。張ダビデ牧師が強調してきたように、「世の弱者や疎外された隣人に、私たちが受けた恵みを分かち合う」という呼びかけは、福音の最も根本的な叫びなのです。そしてそれは決して大げさだったり不可能な要求ではなく、すでに私たちの内に潜んでいる「牧者の心」を呼び覚まし、イエス様の足跡をたどれば自然に流れ出る使命です。

今日もこの世界には、私たちが見過ごし、通り過ぎてしまう多くの「失われた羊たち」が苦しんでいます。もし教会が真の福音共同体であるならば、彼らを探し回り、世話をするはずです。金銭の奴隷となった徴税人も、愛に破れた娼婦も、人生にさまよっている若者も、病床で苦しむ人も、自死を考えるほど追いつめられた魂も、みな神の子どもとなる道が開かれており、教会はその道へ導く牧者の心を持たねばなりません。「徴税人と罪人の福音」が現代の私たちの教会と信徒の生活を通してもう一度力強く宣言され、キリストの愛が実際の感動と変化へとつながるならば、天には言葉に尽くせない喜びが満ち溢れるでしょう。それこそが、「悔い改めを必要としない九十九人の義人よりも、罪人が一人でも悔い改めることを喜ばれる」(ルカ15:7)という主のみ声を、この地上で体験する道なのです。そしてその体験こそ、福音の核心が「愛」であることを最も生き生きと証明することになるでしょう。

張ダビデ牧師は、この「徴税人と罪人の福音」を韓国の教会だけでなく世界の教会が改めて深く悟り、福音の力が私たちの社会や宣教地のあちこちで具体的な人生の変化をもたらすよう、切に願っています。都会や農村、貧しい国や豊かな国を問わず、教会が「失われた羊を探す牧者の心」に立ち返るならば、数えきれない魂が回復し、神の御名は大いに崇められるでしょう。私たちがこの愛の召しに応えるとき、福音は生き方によって証しされ、その証しがさらに広がって多くの罪人が悔い改め、赦しと癒し、回復を経験するようになります。この全過程の中で、教会は世界に真の希望をもたらし、神の国が「今ここで」すでに広がっているという事実を明確に示すことができるのです。こうして福音は絶え間なく拡大し、多くの人々がイエス・キリストの愛を目撃し、共に救いの宴を享受できるようになるでしょう。

このように福音は、単に聞くだけの教えではなく、徴税人や罪人までも受け入れ、共に食事をされるイエス様の生き方そのものです。主が先に私たちを愛してくださったからこそ、私たちもその愛を知り、伝えることができるのです。ゆえに、失われた羊一匹を探しに行くその歩みこそが、教会が本来担うべき使命の核心であり、「徴税人と罪人の福音」がこの世で完全に具現されるための通路なのです。そしてその道を歩むすべての献身者、牧会者、信徒たちには、神が「よくやった、忠実な僕よ」と称賛を用意してくださっていると、私たちは信仰によって告白します。そのために今日も絶えず祈り、実際に歩み出す教会と信徒でありたいと願うものです。

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張ダビデ – アダムとキリスト


1. アダム一人の罪とその影響

ローマ書5章12-21節を見てみると、パウロは「ひとりの人」という表現を9回も繰り返し用いて、アダムとキリストを鮮明に対比させている。張ダビデ牧師は、この対比こそ私たちの信仰の核心を示す代表的な本文だと強調する。「ひとりの人」アダムによって罪がすべての人類に転嫁され、その結果、死が万人を支配するようになったが、今やもう一人の「ひとりの人」イエス・キリストによって義と命がもたらされた、という教理が示されているのがローマ書5章12-21節だからである。

ここで最初に直面する神学的概念は「原罪(original sin)」だ。張ダビデ牧師は、人々が本能的に抱く反発、すなわち「自分は罪を犯したことがないのに、なぜアダムの罪が自分の罪になるのか」という疑問をしばしば取り上げる。実際、多くの人は、自分が直接犯していない犯罪がどうして自分の責任として転嫁されるのか、受け入れがたいと感じる。しかしパウロは本文で、アダムひとりの不従順によって罪が世に入り、その罪によって「死」という暴君のような権威が人類を支配するようになったと述べている。

張ダビデ牧師は、この部分を解説しながら、現代の人類が死の陰に生きている具体例を挙げる。もし私たちの本性が渇望するエデンの園が今も続いているならば、この世が苦痛と罪と死であふれる理由などあるはずがない。だが現実はそうはならない。私たちは望まなくても罪の権威の下に置かれ、それが暴君のように私たちを圧迫するのだ。たとえ「人間は実際に罪を犯しているのだから罪人であることは認めるにしても、なぜアダムひとりの罪が自分と関係あると聖書は言うのか」との疑問が湧いたとしても、聖書はその始点がアダムにあると証言する。すなわち、アダムの不信仰と不従順によって罪が世に入り、その結果として死が人類を支配するに至ったのである。

張ダビデ牧師は、この原理をパウロが説明する際、律法と罪の関係がどのように確立されたのかにも触れている。ローマ書5章13節によると、「罪は律法が与えられる前から世にあったが、律法がなかった時には罪は罪として認められなかった」と記されている。律法はモーセ以降に与えられたが、その前からすでに罪そのものは存在していた。ただ、法的な基準として「罪」が確定していなかっただけであり、モーセの律法が示されたことで初めて、人は罪とは何かをより明確に認識するようになったということだ。例えばカインがアベルを殺した時や、アダムが禁じられた木の実を食べた時、それはすでに「罪」だったが、成文化された律法がなかったため、「法律を破った」という概念としては認められなかったにすぎない。だから、律法がなくても罪は常に存在しており、律法は罪をより鮮明に罪として認識させる機能をもつ。しかし律法自体が罪の問題を根本的に解決してくれるわけではないので、律法によっては人間は罪と死の権威から自由になることはできないのだ。

ローマ書5章14節でパウロは、「アダムからモーセまでの間、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人々にも死は王として君臨した」と述べる。張ダビデ牧師は、この節に注目し、アダムのように直接禁じられた実を食べる行為こそしなかったにせよ、その罪の結果として死がすべての人類に及んだことを強調する。これが、私たちがよく語る「原罪論」の重みである。ひとりのアダムが頭(かしら)となって罪に陥ったがゆえに、彼の子孫はその罪の影響力の下に生まれるというわけだ。

張ダビデ牧師は、使徒パウロがこの段階で「アダムは来るべき方のひな型(型)である」と呼んでいる部分を特に注視すべきだと説く。アダムによって罪と死がもたらされたように、「新しいアダム」であるイエス・キリストを通して、義と命という新しい歴史が開かれることを示唆しているからだ。この構造の中で、私たちはアダムを象徴する「古い人」に属するのか、それともキリストを象徴する「新しい人」に属するのかを黙想せざるを得ない。

ローマ書5章15-19節でパウロは、さらにアダムとキリストの対比を強調する。アダムひとりの不従順によって人類に罪が転嫁されたように、イエス・キリストひとりの従順によって多くの人々が命の救いを得ることになるのだ。ここで再び登場する神学的概念が「転嫁(imputation)」である。張ダビデ牧師は、この「転嫁」を改めて詳しく解き明かす。私たちが直接罪を犯さなかったとしても、アダムの罪が私たちに受け継がれたのと同様、私たち自身にはいささかの義もないにもかかわらず、キリストが成し遂げた完全な義が私たちに与えられる。こうした罪の転嫁(original sin)と義の転嫁(キリストの義)は、人間の能力や功績とは全く無関係に起こる、徹底して神的な主権と恵みによる出来事だ。

これと関連してパウロは、コリント第一の手紙15章45-47節で、最初の人アダムと第二の人アダムとしてのイエス・キリストを比較する。最初の人アダムは土から成った肉の存在だが、最後のアダムであるイエス・キリストは天から来られた霊的なお方だ。最初の人アダムが「生きた魂(a living being)」であるのに対し、第二の人アダムであるキリストは「生かす霊(a life-giving spirit)」という決定的な違いをもつ。アダムのうちにあってはすべての人が罪と死の支配下にあるが、キリストにあっては永遠の命を得ることができる。ゆえに、この二人の代表者を私たちがいかなる態度で迎え入れるかが、人間の運命を左右するのである。

張ダビデ牧師は、本文が語るこの「代表性」について、「代表論(Doctrine of Representation)」または「連合論(Principle of Representation and Corporate Solidarity)」として説明する。つまり、すべての人類はアダムと連合しているゆえに彼の罪が転嫁され、今やキリストと連合した信者たちは、その方の義が転嫁され、新たな命を得るのだ。実際、人間は構造的に互いに絡み合っているように、ひとりの犯罪やひとりの従順は、そのひとりだけにとどまらず、多くの人々に影響を及ぼす。

張ダビデ牧師は、これを日常的な例でも説明する。例えば、「あなたの名前は何ですか?」と問われたとき、ある部族文化圏では、自分自身の個人名よりも先に、その部族の名前を挙げる人々がいる。つまり、その共同体と「連帯」している自覚があるわけだ。このように私たちも霊的な次元で、アダムを「頭(ヘッド)」とする一つの身体として連帯されていたので、アダムが犯した罪の結果を共に背負うことになった。しかし今やイエス・キリストが新しい頭(new head)となってくださったので、私たちがキリストと結びつくとき、キリストが成し遂げられた義の功績がそのまま私たちに流れ込んでくる。そこで張ダビデ牧師は、この原理を「種子改良論」と比喩的に呼んでいる。イザヤ書53章10節で苦難のしもべは死ぬが「子孫(種)を得る」と預言されるが、まさにキリストの死と復活によって、新しい「種子」が現れ、それによって私たちは「新しいアダム」の系譜に属するようになったというわけだ。

このように、最も核心的で重大な罪は、不信仰(unfaith)と不従順(disobedience)である。アダムに現れたその罪の本質は、神が「食べるな」とお命じになった戒めを信じず、破ったことに起因する。もしアダムがまったく神の言葉を信頼し、従っていたのなら、人類に死と罪の支配は及ばなかっただろう。しかしアダムは不信仰の道を選び、その代償として罪と死が王として君臨するようになった。

張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書15章の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉も、同じ文脈で理解すべきだと提示する。ぶどうの木であるキリストと連合している枝は多くの実を結ぶが、その木から離れてしまえば何もできない。これが代表論、そして連合の原理であると。張ダビデ牧師は、キリストと連合するためには、まず私たちの古い人がキリストの死と共に十字架につけられねばならず、キリストの復活によって新しい命を得る経験が必要だと力説する。つまり、本来アダムから受け継いだ肉的で罪にまみれた命は、イエスの十字架と共に葬られ、キリストの復活の命によって新たに生まれるということである(ガラテヤ2章20節)。そうする時、私たちは罪と死の勢力から解放され、「新しい創造(new creation)」となる(コリント第二5章17節)。

張ダビデ牧師は、創世記12章でアブラハムを召された神が「あなたによって地のすべての民族が祝福を得る」と語られた御言葉も「代表性と連帯性」の原理で解釈すべきだという。ひとりのアブラハムを通して全人類が祝福を得るという契約が与えられたのと同じ原理で、アダムひとりが罪を転嫁し、イエスひとりが義を転嫁した。出エジプト記20章の十戒の場面でも、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には千代に至るまで恵みを施す」とあるように、罪も祝福も決して個人にだけとどまらず、共同体全体や後の世代にまで連帯的な結果を生み出す。

民数記16章のコラの反逆事件では、コラの罪のために、彼とその家族、そして彼の所有物まですべてが処罰を受ける場面があり、これは代表論と連帯性の恐ろしさを端的に示している。ヨシュア記7章のアカンの罪でも、アカンだけでなく家族や財産まですべてが石打ちにされて焼かれてしまう。彼らがこれほど極端な措置をとったのは、罪の連帯的影響力を恐れ、それが共同体全体に及ぶことを根本的に遮断しようとしたからである。

張ダビデ牧師は、創世記15章でアブラハムが雌牛とやぎと雄羊を二つに裂いて神の契約と結びつく場面も同じ脈絡で解釈する。神はアブラハムに「あなたの子孫は400年の間、異国の地で寄留して苦しめられる」と預言されたが、これは契約の代表者であるアブラハムのわずかな従順あるいは不従順、完全さあるいは不十分さまでも後の時代に大きな影響を与えるという点を示している。アブラハムが神の言葉に完全に従えなかった部分が、結果的に後の世代に連鎖していく。こうして一個人の行いであっても、個人の範囲を超えて共同体と歴史を代弁するため、その行為のもたらす余波が子孫に伝わることが代表論の恐ろしさであり、同時に祝福された約束でもある。

ヤコブの手紙5章17-18節で、預言者エリヤが祈ると天が閉ざされて雨が降らず、再び祈ると雨が降ったという場面も、パウロの語る代表性と共鳴する。神の人ひとりの祈りが民全体に影響を与え、その祈りによって天が開かれたり閉ざされたりするのは、ひとりの人の位置と権威が決して個人の次元にとどまらないことを示す。

ローマ書5章20-21節に至ると、パウロは「律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためであった」と語り、「しかし罪の増し加わるところには恵みもいっそう満ち溢れる」と宣言する。張ダビデ牧師はこの部分で、パウロが「命と永遠の命の賛歌」を歌っているかのようだと表現する。罪によって死が王として君臨していた世界が、今やイエス・キリストの恵みと義の賜物によって、命が王となる世界へと変わる。これによって、人類が罪と死の支配下で苦しめられていた古い歴史は過ぎ去り、新しいアダムであるキリストによって新しい歴史が開かれる(コリント第二5章17節)。

張ダビデ牧師は、結局、ローマ書5章12-21節のメッセージは「アダムに属する古い本性か、それともキリストに属する新しい本性か」を問う問いに要約できると語る。アダムにとどまる限り、私たちは罪と死の道を歩まずにはいられないが、キリストと連合してその方のうちに生きる時、私たちは義と命の豊かさにあずかる。パウロの言う代表論と連帯性は、単なる難解な教理ではなく、今私たちが罪の支配下で生きるのか、それとも恵みの支配下で生きるのかを決定づける現実的な問題なのだ。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、キリストの恵みこそが、私たちを死を超えて永遠の命へと導く唯一の力であり、アダムの罪と罪責が取り除くことのできなかった深い絶望を克服する道なのである。


2. キリストひとりの義と救い

ローマ書5章12-21節で強調されるテーマは、アダムと決定的に対照をなす「ひとりの人イエス・キリスト」に関する部分である。張ダビデ牧師は、この本文が語る「新しいアダム」こそが、私たちの信仰のアイデンティティを決定づける核心だと力説する。先にアダムが罪の門を開いて死と破滅をもたらしたとすれば、イエス・キリストは十字架での従順と復活によって、義と命に至る道を大きく開いてくださったからである。

パウロはローマ書5章15-19節で、「ひとりの人(アダム)の罪」と「ひとりの人(キリスト)の従順」を明確に対比させる。罪と不従順が支配していた場所に、今は義と従順が打ち立てられ、その結果、罪人であった者たちが義とされ、新しい生を生きるようになったというのだ。張ダビデ牧師は、ここで繰り返し「転嫁(imputation)」という概念を想起させる。罪がアダムから転嫁されたように、今度はキリストの義が私たちに転嫁される。キリストが義なる行いを通して達成された結果を、私たちは「なんの功績もなく」まるごと享受する。それこそが恵みの真髄であると。

この思想は、パウロがコリント第一の手紙15章でアダムとキリストの関係を語る文脈とも密接に結びついている。最初の人アダムは生きた魂となったが、不従順によって罪と死をもたらし、最後のアダムであるイエス・キリストは人々に永遠の命をもたらす「生かす霊」となった。張ダビデ牧師は、これこそ福音書と使徒書簡全体に流れる中心的筋書きだと述べる。イエス・キリストの十字架と復活は、ひとりの人の死と復活を超えて、人類全体の頭(代表)として、罪に沈む者たちに代わって死に、そして再び生きてくださったということである。

こう言うと、中には「イエス様が十字架を背負われたからといって、なぜ私が自動的に救いを得るのか。自分ができなかったことをイエス様がなさったのはわかるが、それがどうして私に適用されるのか」と疑問を投げかける人もいるだろう。これに対して張ダビデ牧師は、「代表論」と「連合の原理」がその答えを提示すると繰り返し主張する。人間はもともとアダムと罪の連帯の中に生まれ、その罪の隷属から逃れられなかったが、イエスが新しい代表者としてその罪の代価を支払ってくださったからこそ、私たちは「信仰によって」キリストと連合する瞬間、キリストの従順と義がそのまま自分のものとなる。パウロがガラテヤ2章20節で示すように、「私はキリストとともに十字架につけられた」と告白し、「もはや私が生きるのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と宣言する時、私たちは実質的に古い自分が死に、新しい人として生まれ変わるのだ。張ダビデ牧師は、この過程を「種子の根本的変化」とも説明する。まるで種そのものが新たに変えられたので、今や異なる実を結ばざるを得ないというわけである。

ローマ書5章17節を見ると、「もしひとりの人の罪によって、そのひとりを通して死が王として君臨したのなら、なおさら、恵みと義の賜物を豊かに受ける者たちは、ひとりのイエス・キリストを通して命にあって王として君臨するだろう」と述べられている。張ダビデ牧師は、この表現について、死と罪が王として君臨していた時代は終わり、今や恵みと義が王として君臨する時代が到来したことを宣言するものだと解釈する。パウロは「王として君臨する」という表現を用いて、人がただ罪悪感から解放されるだけでなく、キリストによって得た新しい命が私たちの存在全体を支配する質的変化を起こすと見ている。イエス・キリストの救いの御業は、罪からの解放にとどまらず、私たちを義と命の王権の下に移し、新しい秩序と力を享受させる出来事なのである。

この箇所で張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書15章の「ぶどうの木のたとえ」を改めて引用する。イエスがぶどうの木、私たちがその枝であるので、幹にとどまる枝は必然的に実を結ぶが、離れてしまった枝は何の実も結べない。こうしてキリストとの連合は、私たちの生を決して以前のままでいられなくする。さらに、イエスがヨハネの福音書15章9節以下で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。あなたがたはわたしの愛のうちにとどまりなさい」と語られた招きは、私たちがキリストの愛と御言葉のうちに絶えずとどまることが、霊的成長と豊かさの必須の鍵であることを示している。

張ダビデ牧師は、これを「代表であるキリストとの合一」と呼ぶ。連合は単なる教理的同意ではなく、実際の生活に深く関わる問題であるため、教会はひとつの身体としてキリストの統治と恵みを経験する場であるべきだと説く。つまり、キリストと連合する者たちは義と命に根を下ろし、キリストの体である教会の中で互いに仕え合い成長していく。その過程を通して、罪と死の支配を超える具体的な生の変化がもたらされるのだ。

ローマ書3章24-25節には、「キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより無償で義とされる。神はこのイエスを、その血による信仰を通して和解のいけにえ(贖いの供え物)として立てられた」というように記されている。張ダビデ牧師は、パウロが用いる三つの比喩―奴隷市場(贖い)、法廷(義認)、祭壇(和解のいけにえ)―を通して、イエス・キリストの救いの御業がいかに代表的かつ代償的であり、また実質的な意味をもつかを説明する。イエスは私たちの罪の代価を身代わりに支払い、罪人である私たちが法廷で「義人だ」と宣言されるようにし、大祭司としてご自分の身を和解のいけにえとして捧げることで罪の隔たりを取り去られた。これらすべての救いの恵みが「代表であるイエス」との連合を通して適用される、と張ダビデ牧師は繰り返し語る。

この代表論は、世の中の例えを挙げても説明できる。国家の代表者が締結した条約一つが国民全体の運命を左右するように、家庭の代表が家の所有権を他人に譲れば、その構成員全体が連帯的に影響を受けるように、一人の決定が個人を超えて共同体全体に及ぶのである。霊的な側面でも同じことが言える。アダムが罪の契約書に「判子」を押して人類全体を罪と死に縛り付けたとすれば、イエス・キリストは義と命の契約書に「判子」を押して私たちの運命を変えてくださった。だからこそ張ダビデ牧師は、これらの節を読む時、罪の深刻さはもちろんのこと、キリストの救いの御業がいかに大きく包括的であるかに目を開かねばならないと力説する。

ローマ書5章20-21節の結論部分で、パウロは罪が増し加わるために律法が与えられたと言い、「しかし罪の増し加わるところには恵みがいっそう満ち溢れる」と宣言する。死が王として君臨していたところに、今や恵みが王として君臨し、イエス・キリストによって人は永遠の命にあずかると高らかに述べる。張ダビデ牧師はこの言葉を引用し、たとえ世の中が罪に覆われているように見えても、落胆してはならないと助言する。むしろキリストの恵みがその罪を覆ってなお余りあるという事実を握るべきなのだ。実際、教会史を振り返ると、もっとも暗鬱とした時代にこそ、神の恵みが爆発的に顕現した事例が多く見られる。それは恵みが罪より強力であり、命が死よりもはるかに勝っているからである。

あわせて張ダビデ牧師は、コリント第二5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しい創造である。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなったのである」というパウロの宣言も引用する。アダムのうちにあって死が王として君臨した時代は過ぎ去り、今やキリストにあって命が王として君臨する時代が開かれたのだ。信者はこの事実を日々意識し、さらには生の中で罪に打ち勝ち、聖なる歩みを求める方向へ自然に向かっていくべきだ。

総じて、ローマ書5章12-21節に示される「アダムからキリストへ」と続くこの救いの大叙事を握る時、人間の罪に対する自己憐憫や絶望、あるいは「本当に自分が変わることなどできるのか?」という懐疑が居場所を失うと語る。実際、イエス・キリストを信じ、罪の赦しを受けた聖徒は、もはやアダムの堕落に引きずられる存在ではなく、「新しいアダム」と連合して義と命、そして永遠の希望を抱く者となったことを日々確認すべきである。それは単なる観念的な話ではなく、実際に存在の根本が変わったという宣言であるがゆえ、死が王として君臨していたところから、いつの間にか抜け出し、命にあって「王として君臨する」生き方ができるようになるのだ。

張ダビデ牧師は、この真理を聖徒一人ひとりの敬虔生活や教会共同体のビジョン、さらには社会的責任へと拡張して適用するよう提案する。ひとりの信仰と従順は、決してその個人の枠にとどまらず、家庭や教会、さらに世の中にまで影響を及ぼす「連帯的」性格をもっているからだ。したがって、イエス・キリストの義と命が流れるクリスチャンひとりは、暗い世のただ中で明るい光を照らす可能性と使命を同時に背負った存在となる。ひとりの人がイエス・キリストから代表権を委任され、罪がはびこる場所に恵みと命を運び、不義に満ちた場所に正義と愛を伝え、絶望が色濃い場所に希望を植える生き方をするのだ。

ローマ書5章12-21節は、「ひとりの人」という表現を通して、罪と死、そして義と命の歴史がいかに人類と個々人に展開していくかを圧縮して示している。パウロはこの本文で、アダムの不従順がもたらした壊滅的な結果と、キリストの従順がもたらした救いと命の祝福を厳粛に宣言している。張ダビデ牧師は、この本文を説教するにあたり、各聖徒が「いったい自分はどの代表の下にいるのか?」を省みるよう促してきた。アダムの下にとどまるなら、罪の重みから永遠に解放されることはないが、イエス・キリストのうちに入るならば、義と命を贈り物として受けることができるのだ。

こうして「ひとりの人の従順によって多くの人が義とされる」というパウロの結論は、単なる個人的悟りや信仰的慰めを超えて、実際に存在が刷新されることを告げ知らせる。張ダビデ牧師は、この福音こそが教会と聖徒が握るべき核心のメッセージであり、この福音の力が信仰告白の次元を越えて生活の変化をもたらさねばならないと繰り返し強調してきた。

張ダビデ牧師によれば、ローマ書5章12-21節の核心は、ただ「罪がある、恵みがある」というだけでなく、「命の現実性」にある。福音は、私たちに「罪の赦しを受けた」という宣言だけを伝えるのでなく、「今やあなたがたは命にあって王として君臨しなさい」という新しい秩序を付与する。よって、信者はアダムの罪と連合した古いアイデンティティを断ち切り、イエス・キリストと連合した新しいアイデンティティを生きる使命を帯びているのだ。

張ダビデ牧師は、ローマ書5章12-21節を通して聖徒たちが二つの事実を明確にとらえるよう促す。第一に、アダムのうちにあってはすべての人間が罪と死の運命を免れ得ないことを認識する。第二に、イエス・キリストのうちにあっては、新しい義と命の運命を喜んで受け入れることだ。アダムの影響力を否定することはできないが、それを乗り越えるキリストの救いの御業は、いっそう大きく、さらに強力である。罪が深いほど恵みがいっそう満ち溢れるというパウロの告白を現実の中で体験する時、信者は真の自由と希望を得る。

張ダビデ牧師が強調するように、「ひとりの人の従順によって多くの人が義とされる」という言葉は、福音の核心を突く一文である。罪のうちに生まれた全人類が、抗えないと思われた死の権勢さえも、イエス・キリストの十字架と復活の前では崩れ去った。信じる者がその事実を見上げ、キリストと連合して日々恵みと義、そして命の実体を味わうことこそ、ローマ書5章が伝える最も喜ばしい知らせである。

アダムひとりによって死と罪の宣告が下されたが、イエス・キリストおひとりによって義と命がもたらされた。このシンプルな宣言には、人類史全体を貫く壮大な救済史が凝縮されている。張ダビデ牧師は、信徒たちがこの真理をつかむ時、かつてアダムが開いてしまった罪の世界にもはや屈せず、イエス・キリストが展望された新しいエデン、すなわち神の国の力をこの地上においても具体的に実現していくことができるのだと繰り返し説いている。

そういうわけで、ローマ書5章12-21節のメッセージは、現代を生きる信者にとっても依然として力強い。私たちは生まれながらにアダムの罪性と連合しているが、イエス・キリストの救いにあずかることで新しい被造物となれる。罪と死がいかに強い暴君のように見えても、キリストの恵みと義はそれをはるかに凌ぐ力をもっている。「ひとりの人の従順によって多くの人が義とされる」というこの宣言は、私たちが日々罪と戦い、つまずく時でさえ、なお私たちを支え続ける福音の力なのである。

このように、張ダビデ牧師はローマ書5章12-21節を通して、救いの根本原理である代表性と連帯性、そこから派生する罪の転嫁と義の転嫁を簡潔かつ力強く説き明かす。結局、今日の私たちに突きつけられた選択は、古い代表であるアダムのうちにとどまるか、それとも新しい代表であるイエス・キリストと連合するかの問題である。その結果は、罪と死の継続か、あるいは義と命の新たな歴史かに分かれる。私たちがキリストのうちにとどまる時、罪の増し加わるところに恵みがいっそう増し加わるという奇跡のような出来事が起こる。張ダビデ牧師は、これこそ福音の力であり、教会が伝えるべき真の希望のメッセージだと力説している。

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張ダビデ牧師 – 不完全な信仰

以下の文章は、張ダビデ牧師が説き明かした使徒行伝18章24節から19章7節に登場するアポロとエペソ教会の出来事を中心に、私たちの信仰が不完全な状態から完全へと進んでいく過程について考察しようとするものである。本論の本文を通して私たちは、「ヨハネのバプテスマ」という形で象徴される不完全な信仰が、「聖霊のバプテスマ」という完全な信仰へ移行する出来事を目の当たりにする。この本文の理解を踏まえ、現代の教会と信徒たちはどのような姿勢と態度をもって福音の完全さを体得していくべきか、そしてその過程において張ダビデ牧師の宣教・教え、さらに彼の牧会的実践がどのような示唆を与えるのかを共に探ってみたい。本稿の前半では、アポロが抱えていた不完全な信仰と、プリスキラとアクラによってより正確な道を学ぶに至った過程、そしてパウロがエペソで出会った弟子たちがヨハネのバプテスマにとどまっていた問題の根本は何だったのかを扱う。続く後半では、「聖霊のバプテスマ」という新しい局面がいかにして開かれたのか、そしてその出来事を今日の教会がどのように適用できるのかを、張ダビデ牧師の牧会方針と結びつけながら深く整理してみようと思う。本文に登場する人物たちの背景や地域的・歴史的状況、また彼らがたどった信仰的成熟の過程を追いながら、私たち自身の信仰がいま不完全なところにとどまってはいないか、そして聖霊の満たしを具体的な生活の中でどう経験すべきかを振り返る機会としたい。


Ⅰ. アポロの不完全な信仰とエペソの弟子たちのヨハネのバプテスマ:悔い改めから愛へ、知識から生活へ

使徒行伝18章24節以下には、アレクサンドリア出身のユダヤ人「アポロ」という人物が登場する。彼は律法と預言、すなわち旧約聖書に通じ、雄弁である人物として紹介されている(使徒18:24)。アレクサンドリアは当時、学問的・知的風土が盛んな土地として知られており、その出身であるアポロがきわめて学問的・哲学的な背景を持っていたことは、本文に記された「聖書に通じた者」「学問のある者」という表現により裏付けられる。アポロは会堂でイエスがメシアであることを熱心に教え、実際に他の人々に大きな影響を与えるほど、知識と雄弁の点で抜きんでていた。しかし聖書は同時に「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」(使徒18:25)と記し、彼の知識や情熱にも限界点があることを明確に指摘している。

「ヨハネのバプテスマ」とは、バプテスマのヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマを意味する。その核心は「立ち返り(メタノイア)」であり、罪を離れて悔い改め、心を新たにすることであった。しかし福音書が証言するように、バプテスマのヨハネは「私よりも力ある方が来られ、その方は聖霊と火によってバプテスマを授けられる」と予告している(マタイ3:11, マルコ1:7-8, ルカ3:16,ヨハネ1:26-27参照)。つまりヨハネのバプテスマは最終目標ではなく、あくまで準備的・先駆的な位置づけであった。ところがアポロは、イエスについて熱心に語り教えていながらも、肝心の「悔い改めの後の世界」、すなわち十字架と復活、聖霊の内住やダイナミックな生活へ進む段階を十分に知らないままにとどまっていたのである。これは、彼がイエスについての知識は豊富に教えていたものの、キリストの生に実際にあずかる十字架の道や、聖霊の力に対する認識が十分ではなかったことを示唆する。

この不完全さを補ったのが、まさにプリスキラとアクラの夫妻であった。彼らはパウロとともに宣教し、深い信仰を学んだ者たちで、エペソに滞在中、アポロが会堂で語るのを聞き、彼を連れて行って「神の道をいっそう正確に教えた」(使徒18:26)。では、プリスキラとアクラが伝授した核心は何だったのだろうか。アポロはすでに旧約に関する知識、イエスがメシアであるという事実、そして悔い改めの重要性などを一通り知っていたはずなので、彼が新たに学ぶべき教えは、言うまでもなく「十字架と復活によって完成された福音の深さ、そして聖霊の力の中で生きる信仰の次元」であったと考えられる。一般的に「神の道をいっそう正確に教えた」という文面の中には、イエス・キリストの贖罪の御業、その死と復活の力、そしてクリスチャンの生活の中で聖霊がどのように働かれるのか、という具体的な理解が含まれていたと見なせる。

ここで私たちは、張ダビデ牧師の牧会哲学と宣教的な教えがどのようにこの本文とつながっているのかを考えてみることができる。張ダビデ牧師は、悔い改めと知的な悟りにとどまるだけのキリスト教信仰ではなく、実際の生活のあらゆる領域に十字架と復活の力が根を下ろすべきであると強調してきた。さらに何よりも、クリスチャンが教会共同体の中で愛を実践し、互いに仕えあい、共に険しい道を歩むことこそ真の福音の実りだと力説する。これはプリスキラとアクラがアポロを助けて立てる方法とも深く通じている。つまり、単に「知らなかった教義を教えること」ではなく、「福音の真の全貌」を伝えて、彼に十字架と復活、そして聖霊と共に歩むという「生活の現場」へと招き入れることにほかならない。

アポロの話に続いて、使徒行伝19章1節以下には、パウロがエペソで「ヨハネのバプテスマ」を受けた別の弟子たちと出会い、彼らが「聖霊があるということさえ聞いたことがなかった」と答える場面が描かれる(使徒19:2)。パウロが彼らを見て最初に確かめたのは「信じたときに聖霊を受けたのか」であり、彼らはヨハネのバプテスマしか知らなかったので、実際に聖霊の存在と働きをまったく体験したことがなかった。おそらく彼らはイエスの存在や悔い改めについては受け入れていたと推測されるが、福音が最終的に「聖霊の内住」と「新しい被造物」への変化によって完成されるものであるとは知らなかったのである。

そこでパウロは「ではどんなバプテスマを受けたのか」と尋ね、彼らがヨハネのバプテスマしか知らなかったとわかると、すぐに「ヨハネもまた自分の後に来られるイエス・キリストを信じるべきことをはっきり告げたではないか」と強調する(使徒19:4)。そして彼らに「主イエスの名によるバプテスマ」を授けたのち、彼らに按手して聖霊を受けるよう祈ると、彼らの上に聖霊が下り、異言と預言が現れたと聖書は記録している(使徒19:5-6)。これはペンテコステの聖霊降臨以降、サマリアや異邦人にも下った聖霊のバプテスマ(使徒2章、使徒8章、使徒10章など)と並んで、教会が拡張される重要な転換点と見なされ、「エペソの聖霊降臨事件」と呼ばれることもある。

ここで私たちは、もう一つ重要な視点に気づく。アポロがエペソを離れてコリントに行っている間に、パウロが後からエペソに入ってきて、ヨハネのバプテスマにとどまっていた弟子たちに出会い、彼らを「聖霊のバプテスマ」へと導いたということである。つまり「アポロはイエス・キリストを熱心に教え、彼によってエペソ教会がしっかり立てられたが、まだ完全には至っていない部分があり、それをパウロが補った」と言えるだろう。実際にコリントの信徒への手紙を見ると、アポロはコリント教会にも大きな影響を与え、「私はパウロにつく、私はアポロにつく、私はケパにつく」という派閥ができるほど、その教えはすぐれた力と活気を帯びていた(Ⅰコリント1:12)。しかし、その出発点は「ヨハネのバプテスマしか知らなかった不完全な状態」であり、プリスキラとアクラを経て、さらにはパウロによって、徐々により完全な福音の意味へと進んでいったという過程を、私たちはこの本文で確認できるのである。

このような過程は、現代の私たちにとっても非常に重要であり、かつ実際的な示唆を与える。信仰の不完全さは決して「悔い改めていない人だけ」の問題ではない。すでに教会の中で熱心に奉仕し、聖書知識も豊富で、イエスがキリストであることを告白しているとしても、なお「ヨハネのバプテスマ」的段階にとどまる可能性がある。つまり、知的にはイエスを信じ、悔い改めたと公言していても、生活の現場において「聖霊のバプテスマがもたらす深い力と真の愛」を体験していないまま留まることがあり得るのだ。

これを教会の実際の状況に当てはめてみると、多くの人々が信仰的な熱心さや教理的知識を備えていても、共同体で聖霊のダイナミズムを十分に味わえなかったり、兄弟姉妹への仕えや献身、さらには世に対するイエス・キリストの愛を具体的に示す行動へとつながっていない場合が多々あることに気づかされる。これは「初めの愛から離れてしまった」と叱責されたエペソ教会(黙示録2章)の姿とも重なるが、驚くべきことに、あのエペソ教会はパウロが3年も直接教えるほど神学的・教理的水準が高かったのである。つまり、「レベルが高くても愛が冷める可能性は十分にある」ということを示している。最終的に重要なのは、教理的知識やかつての悔い改め体験に安住せず、日々の生活で十字架と復活の愛を改めて確認し、聖霊の働きを新たに体験し続けることである、というのが本文の根本的メッセージなのだ。

張ダビデ牧師は、教会の本質を「生命の共同体を形成すること」にあると繰り返し強調し、教会とはただ礼拝堂に集まって礼拝や教理学習をするだけの場ではないと教えている。むしろ互いの生活に関わり合い、必要を満たし合い、主が進まれた十字架の道を共に担っていくような、現実的な「同行の共同体」とならなければならないというのだ。これは、「ヨハネのバプテスマ」的次元、すなわち悔い改めと救いの確信だけにとどまるのではなく、イエスの生き方を実際に生き抜き、互いに分かち合う生活へと拡張されることを意味する。

プリスキラとアクラがアポロを直接「連れて行って教えた」という行動も、深い愛の表現と考えられる。アポロが誤った教えを広めるのを防ぎたいという狙いもあっただろうが、彼の情熱を称賛しつつ同時に「より完全な福音」を伝えたいという愛と配慮、そして共同体意識に基づいたものであったと言える。そしてアポロはそれを謙虚に受け止め、のちにはコリント教会などでパウロ・ペテロと肩を並べるほど大きな影響力を持つ人物へと成長した。「真の福音の力」を体験したアポロは、かつて「ヨハネのバプテスマしか」知らなかった時代とは比べものにならないほど力強く主の道を証し、教会を建て上げる働きに大いに用いられたのである。

同様に、聖霊のバプテスマを受けたエペソの弟子たちもまた「異言」と「預言」が現れるようになり、その地方の教会が新しく出発する決定的な契機を得た。聖書は「全部でおよそ十二人ほどであった」と記す(使徒19:7)が、これは象徴的な表現である。イエスが十二人の弟子とともに始められた新しい共同体の運動が、小アジアの中心都市エペソにおいても聖霊の臨在によって再び始まったことを意味するからだ。そしてこの十二人を中心にエペソ教会が形成され、やがてアジア全域に福音が伝えられる足がかりとなっていった。今日、張ダビデ牧師が強調する「聖霊による成長」も、まさにこの聖書的モデルに倣い、「悔い改め」にとどまらず「聖霊の油注ぎを受けた生活」へと躍進すべきであると訴えているのである。こうして聖霊に満たされた者たちは、最終的に世へと積極的に出て行き、イエス・キリストの愛と真理を証しすることになる。

結局、この一連の流れが示す核心は、「ヨハネのバプテスマ」にとどまる不完全な状態を超えて、十字架と復活、そして聖霊の内住やそのダイナミズムによって完成される「完全な福音」へと進まなければならない、という点である。これはイエス・キリストの存在を知的に理解し、悔い改めるという段階を超えた問題である。本文に登場する人々は、実際の生活にあずかることで、聖霊のバプテスマがもたらす力と愛を人生全体で享受するようになった。プリスキラとアクラがアポロを「連れて行って」教えたように、教会共同体の中でより成熟した者や牧師たちは、まだ完全に至っていない信仰者たちを細やかに世話し、彼らが聖霊のうちに成長していく道を示す役割を担うべきである。張ダビデ牧師が語ってきた「伴走的な弟子化」も、まさにこの文脈で、単に知識伝達にとどまらず、苦難を共に負い、愛を実践し、聖霊体験の場へと招く弟子養成を意味する。

実際面を考えると、教会の中である人が聖書をよく知り、礼拝や奉仕にも熱心だが、その人の生活がなお聖霊の実(ガラテヤ5:22-23)に満たされず、兄弟姉妹に対する愛が十分に表れていないとしたら、その人はある程度「ヨハネのバプテスマ」的次元にとどまっていると言わざるを得ない。その時、私たちに求められるのは小言や裁きではなく、プリスキラとアクラがそうしたように、「神の道をいっそう正確に」教える実際的な指導と世話、そして共に聖霊の臨在を慕い求める祈りをもって待ち続ける姿勢である。

その後、エペソ教会が使徒行伝以降も重要な地位を占め、パウロが長期間にわたって集中的な宣教を行った拠点になったこと、そして後には使徒ヨハネまでもがこの地で活動するようになった背景には、まさにこの「聖霊体験」がターニングポイントとなったという事実がある。使徒行伝19章に描かれた「エペソの聖霊降臨」は、パウロが他の地域で建てた教会と同じように、エペソ教会を特別な力と愛に満ちた共同体へと形成する礎となったのである。しかし同時に黙示録2章に描かれた「エペソ教会の初愛喪失」という出来事は、どれほどかつて強力な聖霊体験をしても、時が経つとその情熱と愛を失ってしまう危険性があることを警告する例でもある。すなわち、一度の熱い体験や知的な悟りによって永遠に完成される信仰は存在しないということだ。張ダビデ牧師が教会員たちに「継続的な聖霊充満」や「絶えざる御言葉の黙想と適用」、そして「犠牲的な愛の実践」を力説するのも、まさにこうした聖書の事例に照らし合わせ、「聖霊体験」と「絶えざるケア」がどれほど重要であるかを知っているからである。

まとめると、アポロとエペソの弟子たちは最初、「ヨハネのバプテスマ」しか知らなかったため、悔い改めと知的な側面には満ちていたかもしれないが、「十字架と復活、そして聖霊の新しいいのち」を知らずにいたという事実である。そしてその不足を、プリスキラとアクラ、さらにはパウロがそれぞれ異なる方法で補った結果、彼らは力強い福音の働き手に、あるいは十二名の中心メンバーとして教会に大きな恵みをもたらす働き手へと成長していった。今日の教会もまた、悔い改めや教理的知識だけでは不十分であり、聖霊にあっての実際的な体験と愛の実践が伴わなければならないことを、本文は証言している。張ダビデ牧師が強調してきた「具体的な同行」と「聖霊体験を通じた教会共同体の成長」というメッセージは、まさにこの使徒行伝の本文の核心を現代の教会に適用する非常に実践的な例だと言える。


Ⅱ. のバプテスマと完全な福音の具現化:共同体的な愛と張ダビデ牧師の現代的適用

先に見たように、アポロやエペソの弟子たちの事例からわかるのは、信仰は一度の決断や知識だけで完結しないということである。むしろ信仰は持続的な成長過程を経て、その中で「聖霊のバプテスマ」が決定的な役割を果たす。その際、聖霊のバプテスマとは単に「異言や預言」といったカリスマ的な側面にとどまらず、「キリストの愛と生を実際に生き抜かせる霊的な力」を意味する。アポロが「神の道をいっそう正確に」学んで以降、コリント教会でパウロと共に福音を築き上げる強力な同労者となったように、聖霊のバプテスマを体験した信徒は「悔い改めとイエスの知識」だけを備えた段階をさらに一歩進め、いかに険しい十字架の道であれ恐れずに歩むことができるようになるのだ。

今日、多くの教会が聖霊について語るものの、ときに過度にカリスマ的徴候だけを重視してしまうか、あるいは逆に聖霊の働き全体を神学的・知的枠組みだけで解釈して、実際の生活の中で体験しないという両極端に陥りやすい。しかし使徒行伝が示すように、真の聖霊体験とは「悔い改めとイエス・キリストの名による罪の赦し」を土台にしながら、「聖霊の力と教会共同体における愛の結合」へと結びつくものである。悔い改めは個人の魂を清め、イエスの救いにあずからせるものであると同時に、聖霊のバプテスマはキリストの体なる教会にあって豊かな愛の実践をもたらすものなのである。

張ダビデ牧師の宣教・牧会は、この点で現代教会が参考にできる特徴を備えている。彼は牧会の現場において、信徒たちが聖霊体験を単なる「カリスマ的現象」として消費せず、「真の回心と持続的な弟子道の旅路」へとつなげることを目指してきた。たとえば、ある人が異言の賜物を得たとしても、それを個人の自慢や「自分は特別だ」という優越感の材料にするのではなく、むしろ共同体を建て上げ、他者にへりくだって仕える愛の原動力としなければならないというように教えている。これはコリント第一の手紙13章、いわゆる愛の章が示している中心的メッセージと重なる。すなわち「たとえ人の言葉や天使の言葉を語っても、愛がなければやかましいドラやうるさいシンバルと同じである」(Ⅰコリント13:1)という警告を、教会共同体が実際に心に刻むべきだということである。実際、信仰が頭で学んだ知識や一時的なカリスマ体験で終わってしまうと、結局はすぐに争いや分裂を起こす教会を生み出してしまうことは、歴史的にも現代の教会現場を見ても決して珍しいことではない。

実際の教会生活では、聖書知識やカリスマ体験が豊富な人々が、むしろより深い愛をもって自己を低くし奉仕するのではなく、高慢になったり他者を教えたがる態度を取ることもしばしばある。これは本文が語る「ヨハネのバプテスマにとどまる不完全な信仰」を体現している例とも言える。外面的には大きな熱意と知識を誇っていても、実際には聖霊がもたらす「十字架的愛・自己空し・兄弟を尊重し教会を建てる謙遜」に欠けているからである。こういう人々には、プリスキラとアクラ、あるいはパウロのように誰かが近づき、「神の道をいっそう正確に示す」ケアが必要である。残念ながら、多くの教会ではこうした繊細なケアや人格的・霊的養成が十分になされないまま、結局は混乱が起きたり、教会が分裂することも少なくない。

張ダビデ牧師が特に強調する「共同体性」は、まさに前述のプリスキラとアクラのケアのあり方とも軌を一にしている。すなわち「一人だけの信仰」ではなく、「共に苦しみ、共に喜び、共に成長していく信仰共同体」を指向するのである。使徒パウロも「体のたとえ」を用いて、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が栄誉を受ければ、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)と言ったが、これはイエス・キリストの十字架が示してくださった「自己犠牲的愛」を共同体の中で実現せよという意味である。教会がキリストを頭として互いにつながるとき、聖霊の賜物は互いを分裂させる道具ではなく、むしろ教会を建て上げ、結束させ、世に福音の力を明かし示す資源へと変わっていく。

特に張ダビデ牧師は、教会の中で対立が起きて分裂する原因の多くが、「聖霊の満たしが知識あるいは個人的体験のレベルでとどまり、実際的な愛へと進まないことにある」と指摘する。これは使徒行伝18~19章が示す内容とも軌を一にする。アポロやエペソの弟子たちは「熱心」と「悔い改め」を確かに持っていたが、聖霊の働きを正しく知らなかったため、愛をもって聖徒たちを仕え、福音の力を最大化する段階へ進むことができなかった。そこでパウロやプリスキラ・アクラといった存在が訪れ、彼らに「より正確な福音」を伝え、聖霊のバプテスマを通じて彼らの人生を根本から変革していく。今日の教会の中にも、「知ってはいるが実践がない」知識重視型の信仰や、「体験はあるが愛が欠如している」カリスマ中心の信仰が蔓延する可能性は十分にある。大切なのは、その両方を「統合」し、「正しい目的」で用いるよう導く世話と教えである。

このようにして完成された福音は、決して個人主義的な信仰生活で終わらない。本物の福音を悟った者たちは、エペソの十二弟子のように地域の教会をしっかり建て上げ、アポロのようにコリントの教会でも素晴らしい影響力を及ぼして、分裂よりむしろ一致と成長を生み出す姿を示すのである。ここで言う教会の成長とは、単に数的増加だけを指すわけではない。むしろ使徒パウロが述べた「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つとなり、成熟した人間になって、キリストの満ち満ちた身の丈にまで達するのである」(エペソ4:13)という次元の「内面的・霊的な成長」を指す。教会の量的な拡大はその結果として起こり得るが、聖霊に満たされて現れる愛の力こそ、真の教会成長の原動力だと本文は示しているのである。

張ダビデ牧師もまた教会の成長とリバイバルを唱えるが、その根本は「聖霊の働きと信徒間の愛のネットワーク」にあると教える。これは使徒行伝の精神をそのまま現代教会に適用した試みと言え、牧会のあらゆる面で「聖霊に依り頼むが、その結果として必ず兄弟愛と共同体の実践が伴わなければならない」という点を確認している。人々はしばしば、教会における奉仕や活動を「義務」や「責任」と考えて嫌々やることもあるが、聖霊の満たしの中で真の愛を体験した者たちは、その奉仕を喜びとして受けとめ、共同体や世に向かって自発的に奉仕の手を差し伸べるようになる。これは「ヨハネのバプテスマ」という基準点をすでに超えた状態、すなわち「聖霊のバプテスマ」が与える変化であると見なせる。

たとえば、ある信徒が以前はただ「罪悪感」から始まる悔い改めによって信仰生活を始めたとして、彼が聖霊のバプテスマを通じて真の福音の喜びを味わい、兄弟姉妹を愛し仕える段階まで成長するには、プリスキラとアクラのようなメンターのケアや、パウロのような牧会的養成が必要である。そしてそれ自体が教会の責務でもあり使命でもある。もし教会がこうした霊的・人格的ケアに失敗すれば、その信徒はヨハネのバプテスマ的次元にとどまり、悔い改めを繰り返すだけで疲弊してしまったり、知識的・形式的な信仰に終始する可能性がある。張ダビデ牧師が「魂を生かし、育てる牧会」を強調する背景には、このような痛ましい現実認識がある。すなわち、教会がただ人数の増加に躍起になったり、大きな建物を建てることに熱を上げるのではなく、一人ひとりに聖霊の力とキリストの愛を体験させ、それを共同体の中で分かち合うように導かなければならないということである。

使徒行伝19章で言及されている「およそ十二人ほどであった」(使徒19:7)という表現が象徴するのは、「少人数であっても完全な福音を悟った人々が集まれば、そこが教会であり、そこから神の驚くべき働きが拡大していく」という事実である。十二人という数字は、イエスの十二弟子やイスラエルの十二部族を連想させ、「新しい神の国運動」の始まりを意味する。エペソがその後、小アジアの福音伝道の戦略的拠点になったことや、そこがパウロの宣教活動の最も中心的な柱となったことを考えると、この十二人が体験した聖霊の降臨は、単なる個人的な回心の出来事ではなく、教会史における重要な分岐点でもあったと言えよう。

現代においても、地域教会が始まるとき、あるいは新たなリバイバルや開拓を進めようとするとき、目に見える大きなリソースや多人数がいなくとも、「聖霊に満たされた少数者」がいれば、真の教会のリバイバルはそこから出発し得る。張ダビデ牧師は何かの働きを開拓するとき、規模や華やかさではなく、その中に「聖霊体験と十字架の愛」が生きている人がいるか、そして「真に神のビジョンをつかむ少数」が存在するかをいっそう重視すると言う。これはすなわち使徒行伝が示す教会開拓と成長の原理に合致するアプローチである。

まとめると、本稿の対象である使徒行伝18章24節から19章7節の出来事は、「ヨハネのバプテスマ」で象徴される不完全さが、「聖霊のバプテスマ」を通して完全へと進んでいく転換点が、いかにして教会共同体を建て上げる原動力になるかを鮮やかに示している。アポロという優れた人物でさえ、「神の道をいっそう正確に」知る前は悔い改めと旧約の預言知識のレベルにとどまっていたし、エペソの十二弟子も「聖霊がおられることさえ聞いたことがなかったため」、悔い改めだけを繰り返す状態にあった。しかしプリスキラとアクラ、そしてパウロの助けによって、彼らは聖霊のバプテスマを受け、異言や預言などの賜物を通して教会に大きな恵みをもたらす働き手へと変わっていった。そしてこの出来事がエペソ教会の歴史、さらに言えばコリント教会の成長とも密接につながっていたのである。

現代の教会を見ても、私たちは聖書知識や熱心さ、あるいは悔い改め経験のみを強調するあまり、実際の聖霊の力や十字架の愛によって進むべき本質を見失う危険にさらされている。これに対して張ダビデ牧師は、「聖霊のうちにある自発的な献身、共同体を建てる犠牲的な愛」を教会の核心価値として提示し、牧会のあらゆる側面でこれを具体化しようと努めてきた。これは単なる「聖霊を受けよう」というスローガンや「悔い改めよ」という標語にとどまらず、「共に御言葉を分かち合い、共に時間を過ごし、苦難を共に担い、喜びや悲しみを共に味わう共同体的な生活」へと拡大されていく。この体験を通じて教会は、エペソ教会が受けた聖霊降臨の恵みを再現でき、アポロのように不完全さから完全へと転換する信徒を多く立てていくことができるのである。

しかしここで終わりではなく、常に自分自身を顧みる必要がある。エペソ教会は確かに驚くべき聖霊体験によってリバイバルし、パウロが3年にわたって宣教するほど十分に霊的水準が高かったが、黙示録2章に記されているように「初めの愛を捨てた」と叱責を受けてしまった。これは「かつて経験した聖霊のバプテスマや強力なカリスマ体験」が永遠に信仰を保障してくれるわけではないという事実を、改めて私たちに思い起こさせる。私たちは日々神の前にへりくだり、御言葉と祈りのうちに自らを低くし、共同体愛を回復することで聖霊の力を新たに受け続けなければならない。

したがって、プリスキラとアクラがアポロに、パウロがエペソの弟子たちに助けの手を差し伸べたように、今日の教会の中でも信徒同士の霊的ケアが盛んに行われる必要がある。一部の限られた人だけがすべてを担うのではなく、互いにへりくだって立て合い、「ヨハネのバプテスマ」にとどまらないよう「より正確な福音」とは何かを共に考え、祈り、実践していくことが重要である。張ダビデ牧師の牧会の事例は、このような霊的ケアが実際に機能するとき、教会がどれほどダイナミックで健全な霊的生命力を発揮できるかをよく示している。

私たちは使徒行伝のこの本文を通じ、「不完全な信仰が完全へと至る過程」とはすなわち「悔い改めから始まって聖霊のバプテスマによって完成される道」であることを再確認した。情熱や知識を持っていても、もし悔い改めの段階にだけ留まってしまえば、その信仰はまだ完全なる福音の力を発揮できない。しかし聖霊によってキリストの十字架と復活の命にあずかるようになるとき、さらに愛の共同体のうちで互いに仕え合うようになるとき、その信仰は新たに生まれ変わって教会を堅固に建て上げ、世に福音を伝える大きな力へと変わるのである。張ダビデ牧師が絶えず強調してきた「聖霊による共同体形成と十字架的愛の実践」とは、まさにこの使徒行伝的原理を現代の教会に適用する具体的な姿と言えよう。

今日の私たち一人ひとりも、「アポロが当初はヨハネのバプテスマしか知らなかったが、神の道をいっそう正確に知ってからは力ある働き人となった」という物語を自分の信仰に当てはめて考えてみることができる。「私は悔い改め、イエスがキリストであることを知ってはいる。しかしその先で止まっているのではないだろうか」「今、私は聖霊の満たしを実際に体験し、兄弟姉妹に仕え、世に向かって福音を証しする生活を送っているだろうか」「教会共同体の中で愛を実践するために、いったいどれほど祈り、献身し、他の人の必要を満たそうと努力しているだろうか」。こうした問いを自らに投げかける必要がある。もし不完全なところにとどまっているなら、プリスキラとアクラの助けを受けたアポロのように、自分より先を歩む人々に学び、パウロのような牧会的ケアを与えてくれる指導者に導かれ、何よりも聖霊を慕い求めて祈らなければならない。

教会は互いの不十分さをともに補い合う霊的な家族(ファミリー)でなければならない。不完全さにとどまっている人は共同体のケアを通して完全へと進んでいき、すでに聖霊の力を味わっている人は、いっそうへりくだって互いに仕え、まだ知らない人々には「いっそう正確な福音」を伝えるという相互成長の構図が実現されるべきである。そしてその中心には「十字架と復活の福音」があり、それを現実で可能にするのがまさに聖霊である。張ダビデ牧師が提唱する「聖霊による伴走的弟子道」とは、このような教会モデルを実現するための具体的なオルタナティブとなり得るだろう。

重ねて言うが、アポロとエペソの弟子たちは、すでに「イエスがキリストであること」を認めていた。教理的な理解も相当に高く、悔い改めに対しても真剣だった。しかし結局「聖霊」が抜け落ちてしまうと、悔い改めや熱心、そして知識さえも、深い愛の実践と十字架的な生活へ結びついていかない。このように、悔い改めから聖霊へと進む「転換」は、私たちの信仰に不可欠な飛躍であり、教会を教会たらしめる原動力となる。使徒行伝19章でパウロが投げかけたあの問い「あなたがたは信じたときに聖霊を受けたのか」は、今もなお有効であり、私たち一人ひとりの信仰を鋭く点検する。もし「私たちは聖霊がおられることさえ知らなかった」と告白せざるを得ない人がいるなら、あるいはイエスを信じて奉仕や献金をしているが、自分のうちに愛が冷え込んで他人を裁き、共同体を分裂させてしまっているなら、あるいは神の力を知識としてしか知らず、実生活で体験できていないならば、この本文は私たちに明確な道を示している。「神の道をいっそう正確に学び、主イエスの名によってバプテスマを受け、聖霊の臨在を切に求めよ」ということである。そのとき私たちの信仰は不完全さを脱し、アポロのように力ある証人となり、エペソの十二弟子のように「新しい共同体の出発点」として用いられる可能性が開かれる。そして教会は、張ダビデ牧師が常に説いてきたように、「いのちに満ちた霊的家族」へと築き上げられていくのだ。

これは聖書時代だけの話ではなく、今も変わらず適用される真理である。教会は礼拝やプログラム、教理教育、奉仕などの外的要素だけで建てられるのではなく、「聖霊のうちにある愛と協働」によって建てられる。だからこそ使徒行伝の教会は、礼拝堂も財政も制度的基盤もなかったように見えるが、世界中を揺るがすほどの力を発揮した。その力の源は聖霊であり、そこから生まれた「十字架的愛」だったのだ。ヨハネのバプテスマから聖霊のバプテスマへと移る瞬間、すべてが変わる。イエス・キリストの死と復活、そして聖霊の臨在が信徒を動かす「生きた推進力」となり、そこから真の教会の歴史が始まる。アポロの限界と突破、エペソの弟子たちの悔い改めと聖霊体験が織りなしたこのドラマは、現代の私たちにもなお強烈な挑戦状を突きつけている。「あなたがたは本当に聖霊に満たされているか。あなたがたの教会は本当に聖霊によって一つとなり、互いを愛しているのか。」――この問いに「そうだ」と答えられる共同体が増えることを願いつつ、同時に私たち全員が「不完全から完全へ」と進む信仰の旅を歩み続けなければならない。

張ダビデ牧師が語る「聖霊とともに歩む教会、十字架の愛を実践する教会」とは、まさにそうしたビジョンである。再び使徒行伝の精神が息づき、初代教会が持っていた熱い聖霊充満と献身が現代教会にも再現されるとき、私たちはこの時代に対する福音の力を真に証明できるだろう。アポロとエペソの弟子たちが残した貴重な教訓は、このダイナミックな信仰の道へと私たちを招いている。「ヨハネのバプテスマにとどまるな、聖霊のバプテスマへと進め」。これこそが使徒行伝18章24節から19章7節が私たちの胸に刻む明確なメッセージであり、同時に張ダビデ牧師が今日の教会に提示する挑戦でもある。

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ゲッセマネの祈り – 張ダビデ牧師


1. ゲッセマネの祈りとイエスキリストの孤

張ダビデ牧師は、ゲッセマネの園で明らかになったイエス・キリストの孤独とその祈りについて、深い洞察を示している。まず彼は、マルコによる福音書14章32節から42節までの展開に注目し、イエス様が十字架という極限の苦難を目前にしたときの心境と状況を、生々しく描写している。この本文で主は「わたしの心は死ぬほど悩みもだえている」と語り、地にひれ伏して切に祈られた。しかし弟子たちは、その切迫した状況下にあっても眠り込んでしまっていた。

張ダビデ牧師は、この物語を通してイエス様こそが「真の祈りの模範」であると強調しつつも、その祈りが単に「大胆不敵な確信」だけを示しているのではなく、「激しい叫びと涙」(ヘブライ5:7)によって表された、きわめて人間的な苦悩や恐れを伴っている点を重要な核心として挙げている。

イエス様は公生涯の間、何度も奇跡を行い、悪霊を追い出し、病人を癒やしながら神の国を宣言なさった。弟子たちはそうしたイエス様の権能を何度も体験していたため、「イエス様が望むならどんな苦難でも避けられるのではないか」と考えていたかもしれない。しかし張ダビデ牧師が指摘するように、イエス様は弟子たちが期待していた「力による苦難回避」ではなく、「全人格的な従順」を通してこの道を選択されたことを、本本文では明らかにされている。すなわち「アッバ、父よ。あなたには何でもおできになります…」(マルコ14:36)という言葉は、「神に不可能はない」という絶対的な信頼を含みつつも、「しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」という告白で締めくくられる。張ダビデ牧師は、これこそがイエス様の祈りが持つ最も美しく偉大な頂点だと語る。

この祈りの中にはイエス様の弱い人間的側面がにじみ出ているが、まさにその人間的恐れと神の絶対主権への信頼とが相まって、「完全な服従」が実現されているのである。私たちは信仰生活の中で「神のみこころに従う」とよく口にしながら、いざ現実の苦痛や恐れが迫ってくると、それに耐えきれなくなることが多い。ところがイエス様でさえ十字架を前に「この杯を取りのけてほしい」と願われたという事実は、私たちの弱さをありのまま認めさせる。それでも最後には「父の御心ならば、わたしはそれを担います」という決断に至られる。その過程の中に、張ダビデ牧師はイエス様の孤独な祈りの場面から、信仰者が学ぶべき本質的教訓を見いだすのである。

張ダビデ牧師の説明によれば、ゲッセマネの祈りは単に「イエス様がまもなく死なれることを前に苦しまれた」という歴史的叙述にとどまらない。それはキリストが「メシア(油注がれた者)」として、苦難を完全に担う象徴的な場でもあった。そもそもゲッセマネという名前自体は「油搾り」を意味するが、ここでオリーブの実が圧搾されて油が出るように、イエス様もまた「罪びとの代価となる贖い」となるため、身体も心も押しつぶされるような極限の苦痛を味わわれたという。聖書によれば、イスラエルでは王を立てるとき、預言者や祭司が頭に油を注ぐ。この象徴は「王権」を意味すると同時に、油注がれた者が民を導く使命を示すものでもあった。しかしイエス様は「王」としてただちに尊貴と栄光の座に就かれるのではなく、まず苦難と死を選ばれた。この事実が、本本文に含意されているのである。

エルサレム神殿では、過越の祭りに多くの羊が屠られ、その血が神殿でまかれると、キドロンの谷に沿って血の混じった赤い水が流れ下っていった。イエス様と弟子たちは最後の晩餐の後、このキドロンの谷を渡ってゲッセマネの園へ入られた。張ダビデ牧師はこの場面を、「赤い血が流れる谷を渡られる救い主の孤独な後ろ姿」と描き、イエス様はご自分の血もまた、まるでこれらの羊の血のように流れねばならないことをすでにご存じであり、その残酷な死の意味を深く黙想しつつも、一歩一歩前へ進まれたと強調する。そしてその道を共に歩むべき弟子たちは、ゲッセマネに入るとき歌を口ずさみ、決意を新たにするどころか眠りに落ちてしまった。そのためイエス様の孤独は一層際立つのである。

張ダビデ牧師の解説によれば、イエス様の孤独は単に「人間的な裏切り感」からきているのではないという。もちろん十二弟子のうちの一人であるユダは、すでにイエス様を引き渡す陰謀を企てており、ほかの弟子たちも主の苦しみをまったく理解できないまま眠り込んでいたので、主は「たった一時間でも目を覚ましていられなかったのか」(マルコ14:37)と悲しみを帯びた叱責をせざるを得なかった。しかしイエス様の孤独は何よりも、「神の御旨」に自発的に従わなければならない使命者としての孤独だった。最後までただ一人で従わずにはいられないその独自の使命を負っていたため、人々の支持や共感、慰めがまったく得られない状況にあっても、イエス様は決してあきらめなかったのである。

さらに張ダビデ牧師は、この孤独がイエス様の生涯全般に通じる、ある必然的な流れと結びついている点を指摘する。イエス様は公生涯の初期から周囲の人々に誤解されたり、過度な歓迎を受けたり、あるいは同じ民族であるユダヤ人の指導者たちから排斥されたりしてきた。弟子たちでさえ、十字架の出来事以前には、心からイエス様を「メシア」として認められず、イエス様が望む神の国の価値観が何であるかも正しく悟れていなかった。そのため主が説教されるたびに、表面上は「アーメン」と応じても、その言葉の本質にはふさわしく反応していなかった。イエス様がご自身の受難を予告されたとき、弟子たちはそれを正しく理解できなかったり、主の言葉を表面的にしか受け取らなかったりした。その結果がこのゲッセマネの祈りの場面で集中的に露呈しているとも言える。

イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを、より近いところへ連れて行かれた。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)によれば、この3人は変容山の出来事にも立ち会った核心的なメンバーである。張ダビデ牧師は、彼らが特別に勇気や誠実さを持っていたからというよりは、主がご自身の最も深い苦しみを見せるに足る者として選ばれたのだと解釈する。しかし血のような汗を流して祈られた(ルカ22:44)イエス様のそばで、結局彼らは目を覚ましていられなかった。それは単なる眠気ではなく、自分たちが信じて従ってきた主の「極限の苦痛」を受け入れる精神的な準備ができていなかった結果とも考えられる。実際、イエス様が最も助けを必要とされる瞬間に、共に目を覚まして祈るべき弟子たちが眠っていたという事実は、彼らがいかに弱い存在であるかを如実に示している。これについて張ダビデ牧師は、「イエス様の道こそが『孤独の道』である」というメッセージを繰り返し説き、このような孤独の中にあっても、イエス様がむしろ神なる父に徹底的にすがる祈りを捧げることによって、使命を放棄しなかった点が重要だと語る。

さらに見逃せない要素として、イエス様がペテロに対して「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言う」(マルコ14:30)と告げた事実がある。ペテロは自らの決意では「たとえ死ぬことがあっても、主を知らないなどと言わない」と声高に誓ったが、結局は失敗してしまう。張ダビデ牧師は、この箇所が人間的な「決断」と「神の御旨への服従」の違いをはっきりと示していると説教する。ペテロは人間的な意志だけで「主のために命を捨てる」と言ったが、いざイエス様がゲッセマネで祈られるとき、その祈りを支える「霊的な目覚め」はまるで発揮できなかった。そして実際に主が捕らえられると、彼は恐れて逃げ出し、「主を知らない」と否認する痛ましい状況へ陥るのだ。

このように、私たちはイエス様のゲッセマネの祈りを通して、二つの面を同時に見る。一つは、主がひどく驚き、悲しみ、嘆願される弱々しい姿であり、もう一つは「しかしわたしの願いではなく、あなたの御心のままに」(マルコ14:36)と告白して、自ら進んで十字架を負われる強さである。張ダビデ牧師は、この相反する二つの姿が結びついていることこそ、イエス様の人格と働きの真髄を示すと解説する。すなわち、本当の信仰の大胆さとは決して「人間的な無感覚」や「思考の単純さ」から来るのではなく、「苦痛を直視しながらも、神の御旨に屈服する従順」から生まれるということである。

しばしば私たちは「信仰があれば苦難を恐れない」と誤解しがちである。しかし張ダビデ牧師によれば、イエス様は苦難を恐れられたが、それでもその恐れを克服する道を選ばれたのだ。その道とはまさに、「祈りの場で何もかも父なる神に打ち明け、それでもなお立ち上がって十字架へと歩んでいく道」である。そしてこれを「孤独な道」と呼べるのは、誰にも代わってもらえないイエス様個人の道だったからである。張ダビデ牧師は「私たちも人生の谷間で独り取り残されたように感じるとき、イエス様がどのように祈られたかを思い出すべきだ」と勧める。世のすべての人が眠り、そばにいるはずの人々がいなくなってしまったあの夜、神なる父を「アッバ」と呼び、すべてをゆだねて従われたイエス様の姿こそが、信仰者が究極的に見習うべきモデルだというのである。

ヨハネによる福音書を見てみると、ゲッセマネでの祈りの場面が直接的には描かれていない。代わりに13章から16章まで最後の晩餐と別れの説教があり、そして17章で長い別れの祈りが記された後、18章からイエス様の逮捕の場面へと進んでいく。張ダビデ牧師は、その理由について「ヨハネはすでに、イエス様の決断が最後の晩餐(ヨハネ13:1〜)の中で成し遂げられたことを強調したかったからだ」と説明する。他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はゲッセマネでのイエス様の「内面的葛藤」に焦点を合わせるが、ヨハネ福音書ではその前に、すでにイエス様が「人の子は栄光を受けた」(ヨハネ13:31)と語り、受難を「栄光」と規定しているという。しかしマルコによる福音書14章で読まれるイエス様の祈りこそ、その決断の裏側にどれほどの叫びと涙があったのかを教えてくれるという点で、私たちは共観福音書とヨハネ福音書を補完的に読むことができる、というのが張ダビデ牧師の見解である。

総合して見ると、ゲッセマネの祈りの場面は、イエス様の「完全な神性」だけを強調するのではなく、むしろ苦痛に満ちた人間的側面を同時に表すことで、イエス様の犠牲がいかなる覚悟から出たものであるかを鮮明に示している。そしてそのような苦痛や恐れは、最終的には父なる神への全面的な信頼へと昇華し、十字架へ向かう大胆な一歩へとつながる。張ダビデ牧師の説教で強調されるように、私たちはこの出来事を通して「神の御心に従う」ということが、どれほど困難でありながら同時に美しいことなのかを悟ることができる。主のうちには「この苦い杯を取りのけてほしい」という人間的な願いと、「父の御心のままになさってください」という信仰的な決断が同時に存在した。それゆえ私たちの人生においても、困難や苦痛に直面したとき、イエス様のこの姿に倣い、「わたしの願い」ではなく「神の御心」を求める祈りに進まなければならない、と張ダビデ牧師は語る。

さらに彼は、このゲッセマネの物語が、ただ昔のエルサレムである夜に起こった出来事として終わるのではなく、今日でもなお神の人々に当てはまる事実であることを力説する。私たちが何かを決断しなければならない瞬間、あるいは思いがけない試練や苦難の前に立たされた瞬間、私たちにも「ゲッセマネの祈り」が求められるというのだ。その祈りとは単に「神様、力をください」というだけでなく、イエス様のように自分のあらゆる弱さや恐れを正直に打ち明け、それでもなお「御心のままになさってください」と求める従順の祈りである。張ダビデ牧師は「人生に訪れる孤独な夜、誰もそばにいないように感じるまさにそのときこそ、『アッバ、父よ』と呼びつつ、御霊の力によって立ち上がるときだ」と説く。そしてこれこそが、イエス様が歩まれた尊い足跡を私たちが辿る道にほかならないと力を込めて語る。

さらに、ゲッセマネの祈りを通して表されたイエス様の孤独は「私たちの救いのために必然的に選ばれた道」でもあった。神の御子であるイエス様が、あえてあのような惨たらしい苦痛と孤独を体験する必要がなかったのであれば、あんなにも苦しまれることはなかったはずである。しかし張ダビデ牧師は「罪びとをあがなうため」にイエス様はあの道を避けなかったのだと強調する。どれほどイエス様の思いに寄り添おうとしても、実際に身をもって味わわれた「あくまで死に至るまでの従順」を完全に理解することは、私たちにはほとんど不可能に近い。しかし聖書がそのことを詳しく証言し、マルコによる福音書がイエス様の叫びと汗をありのままに描写し、そして張ダビデ牧師のような働き手がその意味を説き続けるのは明白な理由がある。それは、私たちにあの孤独の夜を黙想させることで、主の恵みと愛をさらに深く悟らせると同時に、私たち自身も人生においてこの孤独な従順の道を学ぶよう招いているからである。

結局、ゲッセマネの祈りは、イエス様が「時は来た、人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、さあ行こう」(マルコ14:41-42)と宣言されることで締めくくられる。張ダビデ牧師は、これをイエス様の「尊い前進」であり、孤独を乗り越える「救いの始まり」と呼ぶ。あらゆる涙と叫びの只中にあっても、「さあ行こう」と語られる主の声は、イエス様自身の決断を告げると同時に、私たちにも「この苦難の道に加わりなさい」と招く声でもある。ここで私たちは「同伴」の意味を見いだす。本来は弟子たちがイエス様と同行すべきだったのに、実際には皆散り散りになってしまい、主は一人で十字架を負われた。しかしその後、復活と聖霊の降臨を通して弟子たちはイエス様の道を追随し始め、教会はこの「苦難と栄光」を継承してきた。張ダビデ牧師は「今日でも教会は、そして個々の信徒は、ゲッセマネの夜にしっかり目を覚まして祈る姿勢で歩むべきだ」と結論づける。すなわち、私たちも主が担われた孤独と苦悩に共に与ることで、神のみこころを成し遂げる道にいっそう近づくことができるのだ。


2. ペテロと弟子たちの弱さ、そして弟子の道

張ダビデ牧師は、ゲッセマネの場面に続き、同じマルコによる福音書14章の後半に描かれるペテロや他の弟子たちの姿を細かく見ていく。その中で特に、マルコ14章50節以降、イエス様が捕らえられると弟子たちが逃げ散り、ペテロがイエス様を三度否認する場面が続く。そしてマルコ14章51-52節に登場する「亜麻布を一枚まとったままイエスについていったある若者」が、群衆につかまれそうになったとき亜麻布を捨てて裸で逃げたという記述があるが、伝承的にこの若者こそ福音書を記したマルコ本人だと理解する解釈が多い。張ダビデ牧師は、この部分に言及しながら、弟子たちやマルコの「卑怯さ」や「恐怖心」を隠さずにあからさまに示している点こそ、福音書が持つ生々しい正直さだと説く。

実際、イエス様の弟子たちは皆、「たとえ何があっても主を最後まで守る」と決意していた。ペテロは「たとえみんながあなたを捨てたとしても、私はそんなことはしない」と豪語していた(マルコ14:29)。しかし結局、その決意は崩れ去り、ペテロの誓いはむなしい言葉に終わってしまった。この事実はペテロ一人の問題ではなく、すべての人間が持つ「弱さ」を代弁している。張ダビデ牧師は、多くの人が「どのような状況でも主を裏切らない」と心に決めるが、いざ身に危険や恐怖が迫ると、本能的に逃げようとするのが私たちの正直な姿だと説く。どれほど信仰が深そうに見える人でも、サタンの試みや世の圧力の前で徹底的に崩れ去ることがあるという。

しかし、より重要な教訓はそこで終わらない。福音書は、ペテロが否認した直後、苦い思いをし、最終的には悔い改めて再び主の弟子として立ち直る過程を伝えている(ヨハネ21章で復活した主がペテロを回復させる場面)。張ダビデ牧師は、これが「弱さにもかかわらず用いられる弟子たちの姿」を象徴的に示していると語る。ゲッセマネで眠り、イエス様が捕らえられるときは逃げ散り、さらには師を裏切ったり否認したりするほどあまりに醜く恥ずべき姿だった。しかしそれでもイエス様は復活後再び彼らのもとに訪れた。すなわち、弟子たちの失敗がそのまま永遠の見捨てになるわけではなく、「臆病な弟子たち」が「偉大な使徒たち」へと変えられた事実は、福音が持つ恵みをまざまざと示している。張ダビデ牧師は、これを「主の愛は私たちの失敗よりも大きい」と表現する。

ここで特に注目したい人物が、マルコによる福音書を書いたとされる「マルコ」である。張ダビデ牧師は、マルコが14章51-52節の恥ずかしい出来事をわざわざ自分の福音書に書き留めた点に大きな意味を見いだす。普通なら隠したい過去であるにもかかわらず、福音書はむしろ自分たちの失敗を包み隠さず記し、「人間はこれほどまでに欠けた存在だ。しかしイエス様はこのように欠けた私たちを見捨てることはなさらない」というメッセージを強調しているのである。マルコは亜麻布一枚だけをまとって、ひそかにイエス様を追っていくほどの「主を離れたくない」という熱意があった。しかし同時に、群衆につかまりそうになるや否や恐怖に駆られ、衣服を投げ捨てて逃げるほど弱く、結局イエス様の逮捕や受難に何の役にも立てなかった。ところが、このような自分の過ちを福音書に描き込んだのは、イエス様の十字架の出来事を一層はっきりと照らすしかけとなる。「最も近しい者たちさえ、これほど卑怯で恥ずかしい姿で逃げ去った」という事実が、イエス様が孤独に耐え抜かねばならなかった十字架の重さを、いっそう濃く際立たせるからである。

張ダビデ牧師は、説教の中でこうした点を鋭く強調する。「もしペテロやマルコ、ほかの弟子たちの失敗がなかったら、イエス様の孤独な従順と犠牲が、これほど私たちの胸を打っただろうか?」という問いかけである。弟子たちは使徒言行録以降、聖霊の力強い働きによって新しく生まれ変わり、福音宣教の先頭に立って霊的覚醒を主導する人物となる。しかしその出発点は、「口にするのも恥ずかしい」ような裏切りと逃亡、眠りと無知であった。これは逆説的に、福音の力とイエス・キリストの恵みを最も劇的に示す。信仰とは「完璧な人間」であるがゆえに持つ資格や特権ではなく、むしろ「自分の欠けを自覚する者」が神の愛と赦しを受けることによって与えられる恵みなのである。

張ダビデ牧師はこのことを踏まえ、「私たちも弱さの中でイエス様を否認し、イエス様のそばを守れないときが多い。しかしその失敗がすべての終わりではない。もう一度悔い改めて立ち返るなら、神は私たちを福音の証人として立ててくださる」と力説する。このメッセージは2000年前の弟子たちだけに当てはまるのではなく、今日の私たちにも有効な福音の真理である。私たちは宣教の現場でも、あるいは日常生活の中でも、さまざまな誘惑や困難の前に崩れ落ちることがある。一時はペテロのように「死んでも主を裏切らない」と告白しても、いざ窮地に陥ると祈れず、試みに負けてしまう場合が多々ある。しかし大事なのは、イエス様がペテロを回復されたように、私たちも悔い改めれば「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)という使命を与えられる可能性があるということだ。

張ダビデ牧師は「私たちが倒れても、神は私たちを見放さず、私たちの弱さをご存じの上で再び立たせてくださる」と、この福音の核心を強調する。ペテロが涙ながらに慟哭し、のちにイエス様から「あなたはわたしを愛しているか」と三度問われ(ヨハネ21章)、同じ回数だけ回復されていく場面に大きな希望を見いだす。「失敗で終わる人生はない。失敗を認めて悔い改めるなら、神はその失敗さえも用いて働かれる」ということである。したがって私たちもマルコやペテロのように、最も恥ずべき瞬間でさえも主のもとに立ち返ることができ、その主が復活によって完成なさった勝利に与れるのである。

一方、弟子たちの弱さは「主が負われた十字架が、いかに徹底して『孤独な道』であったか」をあらためて浮き彫りにする。十字架の出来事は、人類史上最も決定的な犠牲であり、それはイエス様がご自身で負われたものだ。本来はキドロンの谷を一緒に渡った弟子たちもいて、ゲッセマネまで共に足を運んだ者たちもいた。しかし「結局、最後の瞬間にはイエス様一人が残された」。張ダビデ牧師は、これが救いの本質的な性質を示しているという。すなわち「もし私たちが少しでも力を足してイエス様を助けることができるのならよいが、罪の問題の前では誰も自分を救うことができない。ただイエス様だけが担わねばならなかった」というのである。

それゆえキリスト者の信仰の旅路も、ある種の逆説的な道となる。一方では「一緒に行こう」というイエス様の招きによって共同体である教会を形成するが、また他方では「自分が負うべき十字架」が与えられていることに気づかされる。つまり、他の人々の祈りや励ましも必要だが、最終的には「自分自身の決断」が必要になる瞬間がある。張ダビデ牧師は「各々が自分の十字架を負って主に従え」(マタイ16:24)という言葉を思い起こさせながら、ゲッセマネで弟子たちが眠り込んでしまった姿は、その「霊的実情」を私たちに突きつけるものだと説明する。「結局は自分で担わないといけない十字架があり、その道を阻むあらゆる試みがまぶたの重さのように私たちを圧し掛かる。そのとき目を覚まして祈らねばならないが、人間的な限界だけに頼っていれば、ペテロのように簡単に崩れ落ちる可能性がある」というわけである。

それでは、その崩れ落ちに対する答えは何か。張ダビデ牧師は、一貫して「イエス様の祈りから学ばなければならない」と勧める。イエス様が「アッバ、父よ。できることならこの杯を取り除けてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られたように、私たちも父なる神を全面的に信頼する思いで進むべきだという。「これこそがペテロや弟子たちが最も学ばなければならなかった祈りであり、私たちも同様である」と張ダビデ牧師は強調する。弟子たちはその瞬間に目を覚まして祈ることができなかったが、その失敗を土台にして教会の使徒へと成長し、後に聖霊に満たされてからは「福音のために命を捨てる殉教者的信仰」を示していく。結局、苦難や失敗を一度も経験していない人よりも、失敗の中で悔い改め、再び弟子として立ち上がる人のほうがはるかに強くされるという事実を、聖書は繰り返し示している。

このように張ダビデ牧師は、ペテロやマルコ、そして他の弟子たちの過ちや失敗を「隠すことなくさらけ出している」福音書の正直さを高く評価し、そこにこそ今日の私たちへの希望があると言う。もし聖書が「弟子たちはいつも立派だった。どんな裏切りもなかった」と書いていたら、私たちはその御言葉の中に、今の自分の弱い姿を投影することはできなかっただろう。しかし福音書の筆者たちは、自分たちの弱さをさらけ出す一方で、イエス様がその弱さを超える愛でもって彼らを回復してくださったことを証言する。だからこそ、私たちは「弱さがさらけ出された場所にこそ、キリストの恵みがどれほど大きいかを悟るきっかけがある」という真理を改めて確認できるのである。

張ダビデ牧師は、それが最終的に私たちに「信仰の道」を示すのだとまとめる。信仰者になるというのは、決して「失敗しない完璧な存在になること」ではない。むしろ、失敗し挫折してこそ自分の限界を痛感し、そのとき初めてイエス様を全面的に仰ぐ姿勢が開かれる。私たちはペテロのように「最後まで主の道を従います」と決然と誓うかもしれないが、実際にはその決意を遂行できずにつまずくこともある。しかしそのときにもイエス様の愛は変わらない。主は復活された後、再びペテロを探して「わたしの羊を飼いなさい」と使命を与えられた。それはペテロ一人のためだけでなく、今日のすべての信仰者に与えられた慰めであり使命でもある。

ゲッセマネで明らかになったイエス様の孤独と、その前でさらけ出された弟子たちの弱さを同時に眺めるとき、私たちは「真の弟子の道」とは何かを模索できる。「主よ、私は決してあなたを裏切りません」という言葉だけで弟子の道が完成するわけではなく、倒れた後でも「主よ、私をあわれんでください。再び立たせてください」と祈る者こそが、真の弟子となる。張ダビデ牧師は「これこそが福音のストーリーであり、信仰の歩みとはまさにこのパターンの繰り返しだ」と語る。誰もがつまずき、自分の弱さを露呈する瞬間が必ずやってくるが、そのたびにゲッセマネで祈られたイエス様を思い出し、ペテロの失敗と回復を思い起こしながら、再び弟子の道へと戻っていくことができる。世間で言われる「十回倒れても十一回起き上がればいい」というスローガンではなく、「主が私たちを最後まで支えてくださる」という福音の真理がここにあるのだ。

だからこそ張ダビデ牧師は具体的に「教会の中で互いの弱さが表に出るとき、それを責め立てるのではなく、『私もまた同じ弱さを抱える者だ』と告白し合いながら、互いを建て上げねばならない」と教える。もしペテロ一人が失敗したとき、ほかの弟子たちが背を向けて彼を責め立てていたら、それは福音的な態度とは言えなかっただろう。イエス様は弟子たちを一つに結ばれ、ペテロとともに他の者たちも自分自身を省みるよう促された。後に使徒言行録を見ると、初代教会は互いに愛し合い、祈り合い、持ち物を共有し、時には倒れた兄弟を立ち上がらせる共同体へと成長していく。これこそまさに「キリストとともに歩むこと」が具体的に実現される姿である。十字架以後の復活、その後の聖霊降臨と教会の誕生は、ゲッセマネの眠り込んだ弟子たちが目覚め、「今度は共に目を覚まして祈る共同体」へと成長していく決定的な契機となったと言える。

総合的に見ると、張ダビデ牧師はゲッセマネの園に凝縮されているイエス様の孤独と、それによって際立つ弟子たちの限界を率直に描写することで、信徒たちに次のような結論を伝えている。第一に、イエス様の道は初めから終わりまで「孤独の道」であり、私たち罪人のために代価の杯をただ一人で飲み干された道であった。第二に、弟子たちは皆その道をまったく理解できないまま逃げ去り、あるいは師を裏切り否認したが、主は彼らの失敗をさえ赦し、再び使徒として立て、福音宣教の器とされた。この事実は私たちも例外なく弱い者だが、その弱さも神の救いのご計画の中で回復されうることを意味する。第三に、私たちがこの「十字架と回復の物語」を自分に適用し、今まさに苦難の中にあるときにゲッセマネで祈られたイエス様を仰ぎ見て、つまずいたときにも再び立ち上がる勇気を持てるようになるべきだということである。

これらすべては、「ゲッセマネの祈りを通してイエス様が示された完全なる服従、そしてその服従から生み出される救いの御業」へと帰結する。イエス様が十字架の道を「栄光」と告白されたその信仰が、あの道をともに歩めなかった弟子たちをも、再び「一緒に行こう」と招かれることになった。張ダビデ牧師はまさにこの地点で、私たちも主に従い、それぞれが負うべき十字架を喜んで担いつつ、それでも希望を失わない「復活の共同体」として生きるべきだと説く。苦難のただ中にあっても「アッバ、父よ」と呼び、「あなたのみこころのままになさってください」という告白があふれることこそが真のキリスト教信仰であり、マルコによる福音書14章に描かれたイエス様の叫びと弟子たちの失敗は、その信仰がいかに人間の現実のなかで激しく花開くものであるかを最も劇的に示している出来事なのだ。

こうしてゲッセマネの祈りと弟子たちの弱さを合わせて俯瞰するとき、私たちはあの十字架の夜が、決してイエス様おひとりの犠牲だけを語るのではなく、私たちすべての「苦難と救い」を貫く神の大いなる救済の物語であることに気づく。張ダビデ牧師の言葉を借りれば、「イエス様が最も激しく泣き叫ばれたあの瞬間こそ、同時に神なる父の愛が最も深く表された瞬間でもある」。そしてそのときそばにいるはずの者たちはことごとく眠り込んでいたが、むしろ彼らの眠りや裏切り、逃亡が逆説的に「人間の罪深さを赤裸々に示し、イエス様の救いのみわざなしには誰も生きられない」ことを証明している。しかし復活へと続く福音の結末は、私たちに希望を与える。初めは自分自身を過信し、大言壮語をしていたペテロでさえ失敗から立ち直り、教会の初代指導者になったのだから。同様に、私たちがどれほど深刻な罪責感にとらわれ、主のもとから逃げ出した過去があったとしても、再び立ち上がってキリストに従おうという道が開かれているのである。

ゲッセマネの祈りは、一見すると悲劇と孤独の極致に見えるが、張ダビデ牧師が言うように「神の国の新しい夜明け」を予告するものである。なぜなら、まさにその祈りによってイエス様は十字架へと進み、その十字架こそ復活への扉を開く核心的な原動力となったからである。弟子たちはあの夜目を覚ましていられなかったが、復活と聖霊の臨在後にようやく「目を覚ましている」弟子へと生まれ変わる。そして私たちもまた、ゲッセマネの祈りを思い返すことで、「目を覚まして祈れ」という主の声を聞くことができる。私たちの道がイエス様の道よりはるかに楽に見えるとしても、あるいは逆にイエス様が経験された苦痛に比べものにならないほど辛い状況に置かれているとしても、イエス様がすでに歩まれたあの孤独の道は「私たちのための道」であり、同時に「私たちが一緒に行こうと招かれている道」なのだと知る。

これこそが張ダビデ牧師が強調する「キリストとの同行」の意味である。イエス様はゲッセマネの園でただひとり汗を流して祈られたが、その祈りは「私たちをあがなうためのとりなしの祈り」でもあった。弟子たちは眠り込んでいたが、最終的には回復され、神の国の尊い働き手として用いられた。それは私たちが「主よ、目を覚ましていたいと思っていましたが眠ってしまいました。どうか私の霊魂を覚ましてください」と祈るとき、主が再び私たちを立ち上がらせてくださる恵みを体験できることを示唆している。こうして私たちは毎年、四旬節や復活祭を繰り返し記念しているが、それは単なる記念日ではなく、この孤独な従順の歴史の上に打ち立てられた救いが「今の私にも」現実となっていることを改めて確認する時間になるべきだと、張ダビデ牧師は結論付ける。

張ダビデ牧師はしばしば説教の中で「もしあの夜、私がイエス様のそばにいたらどうだっただろうか?」と問いかけ、「きっと私も眠り込み、逃げ出しただろう」と答えることがあるという。それほどまでに、人間の弱さは本質的に「あの弟子たち」と変わりない。しかしだからこそ、いっそう私たちには「キリストの恵み」が必要なのである。イエス様おひとりが忠実で完全であったからこそ、私たちは皆、失敗をしてもなお希望を持ち得る。このメッセージこそが、ゲッセマネの祈りの場面が今日を生きる信仰者にとって依然として切実な理由だと、張ダビデ牧師は重ねて強調する。

「キリストとの同行」とは、苦難や試練がまったくない平坦な旅路ではない。イエス様が歩まれた十字架の道、それを目前にしてゲッセマネで涙ながらに祈られた道こそが、救いを成し遂げる道だった。弟子たちはその道を正しく歩むことができなかったが、復活後にはそれぞれが十字架を胸に新しい一歩を踏み出すようになった。ゆえに私たちもこの苦難と恵みの道に参与しさえすればよい。弟子の道は失敗したときに終わるのではなく、その失敗を踏まえて再び主を仰ぐ道へと進む。イエス様の孤独は徹底したものであったが、その孤独が結果として全人類を救うみわざの起点となり、弟子たちのように弱い者たちさえ再び招き、立ち上がらせてくださった。

この一連の歩みの中で、張ダビデ牧師が繰り返し思い起こさせる要のポイントは、「アッバ、父よ」というイエス様の祈りのひと言にこめられた信頼と愛である。私たちが神を「アッバ、父よ」と呼べるのは、イエス様があれほどまでに徹底した服従を貫き、私たちを神の子とする道を開いてくださったからにほかならない。その恵みがあるからこそ、失敗した弟子も、眠り込んでしまった私たちも、裸で逃げ出したマルコでさえも、再び共同体に戻り、祈りによって目を覚ますことができるのである。「わたしの願いではなく、父のみこころのままになさってください。」この告白こそが、十字架と復活を貫く福音のエッセンスであり、私たちの回復と勝利のカギでもある。張ダビデ牧師が言うように、「私たちはしばしば挫折するが、イエス様の従順によって終わりなき恵みの道が開かれている」。ゲッセマネの長い夜は、その恵みの道が始まった場所であった。

私たちの人生でも同じような状況が訪れるときがある。理解できない苦難や、理不尽なこと、恐れが目の前に立ちはだかり、「この杯を取りのけてください」と祈りたくなるようなときに、イエス様が示されたあの道をもう一度思い起こすのだ。いくら落胆しても、失敗や恥の意識がどれほど大きくても、十字架と復活の栄光を信じるなら、私たちは再び立ち上がれる。なぜならイエス様がすでにその道を歩まれ、弟子たちの失敗でさえも新しく造りかえられたからである。結局、すべては神の主権と愛への絶対的な信頼から始まり、その信頼を最後まで手放さない「ゲッセマネの祈り」へと凝縮される。張ダビデ牧師のメッセージは明快だ――「私たちが主とともに歩む道は、この祈りを人生の中で繰り返すことにある」。そしてその繰り返しの中で、弟子たちの弱さが強さへと変えられたように、私たちの人生も神の御心にかなうように変えられていくのだ。

マルコによる福音書14章に描かれたゲッセマネの祈りとイエス様が味わわれた深い孤独、そしてそれを前にさらされたペテロや弟子たちの痛ましい弱さこそ、「キリストとともに歩む」ことがどれほど尊い恵みでありながら、同時に私たちすべてに開かれた新しい機会の道であるかを示す最も鮮烈な場面の一つだと言える。あの苦難の夜は決して悲劇的な終止符ではなかった。むしろ「立て、さあ行こう」(マルコ14:42)という主の声につながり、十字架と復活、そして教会の誕生へと続いたのである。張ダビデ牧師はまさにそこで、現代を生きる信仰者もまた、それぞれのゲッセマネで「アッバ、父よ」と呼びつつ目覚めて祈らねばならず、その結果として復活の力が私たちの現実ともなるのだと教えている。

このようにゲッセマネの祈りとペテロおよび弟子たちの姿は、福音の本質を最も鮮明に映し出す場面の一つだ。イエス様が体験された孤独は、私たちに「真の従順」の意味を呼び覚まし、その前でつまずいた弟子たちは、弱さを抱えながらも最終的に神の国の「使命者」となりうることを証ししている。私たちが失敗しても、それで終わりではない。主がもう一度道を開いてくださる。だからこそ、信仰者が歩みうる最も祝福された道は、「主とともにゲッセマネに入り、祈ること」なのだ。そこではじめて私たちは「わたしの願いではなく、御心のままに生きる」弟子の歩みへと進むことができる。これこそが張ダビデ牧師が継続的に強調してきた「キリストとの同行」の核心であり、ゲッセマネの園の夜が今なお私たちの胸に生き続けるべき理由なのである。

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心灵的割礼与福音的本质 — 张大卫牧师

的割礼与福音的本 —— 

以下内容基于张大卫牧师对罗马书3章1-8节的讲道手稿,但在此基础上将主题分为两大部分,更深入探讨经文的意义与神正论问题,以及对福音本质的讨论。整篇信息的主脉是保罗论点所具有的意义,以及由此衍生的“对上帝的误解与罪的责任”这一重要神学主题。同时,这里也结合了原文手稿所提及的旧约、新约经文背景,以及在教会历史与神学上的含义加以阐述。


1. 神正(Theodicy)的问题

张大卫牧师在讲解罗马书3章1-8节时强调,这段经文的核心议题与“神正论”问题有着深刻联系。神正论(Theodicy)指的是这样一种辩护或说明:全知全能且良善的上帝,如何允许这个世界上存在罪恶(惡)与不义(不義)?当我们仰望上帝的统治与护理时,人总会产生各种疑问:如何能够“替上帝辩护”,说明上帝依然是公义无瑕的?因此,神正论往往使信徒心情复杂,也成为非信徒怀疑或反对上帝的代表性议题。

在罗马书3章中,保罗提出了关于以色列民族所享有的特权,即“犹太人的优越性”到底是什么的问题。长期以来,犹太人对自己从上帝借摩西之手所领受的特殊盟约与律法深感骄傲,尤其是“割礼”这一记号,象征了他们是“圣洁子民”。然而在罗马书2章末尾,保罗曾直言:外在的割礼并不能真正确保“成为上帝子民”;即便拥有律法,若无法切实遵行,不仅无法自夸,反而会面临比外邦人更严厉的审判。犹太人听到这一令人震惊的教导时,必然会质疑:“那我们一直以来所享有的特权还有何意义?难道割礼从此变得无效了吗?”

张大卫牧师指出,犹太人的这种反抗态度其实也与神正论的质疑相呼应。若“上帝拣选了我们,可我们因罪而违背了律法,那岂不说明上帝方面也失败了吗?”——人总是想为自己的罪或过失寻找借口,甚至进一步将责任推给上帝。从创世记3章亚当与夏娃犯罪后彼此推卸责任的那一刻起,“为罪开脱、转嫁责任”的倾向就一直存在。

在3节中,保罗提出一个问题:“即便有些犹太人不信,那么他们的不信会使上帝的信实无效吗?”也就是:“如果作为上帝立约子民的犹太人中,有人不忠不信,那是否意味着上帝的信实也就落空了吗?”张大卫牧师认为,这一问题背后正是当时教会内外对神正论的一种典型抗议:上帝全知全能且拣选无悔,但既然祂拣选的百姓却因不顺服而遭审判,难道是上帝拣选失误,或者拣选之后却无力保守吗?

对此,保罗在第4节果断回答:“断乎不是!”他坚称上帝绝不可能不义、失误或对立约不忠。“纵使众人都虚谎,上帝仍然是真实的”——人的各种借口无法动摇上帝绝对的真理与信实。张大卫牧师特别强调“人都虚谎,惟独上帝真实”这一经文,并引用大卫在诗篇51篇4节的悔罪诗:大卫在与拔示巴的罪之后恳切悔改,承认自己只得在上帝面前认罪,唯有上帝是公义且纯全的。这表明人再怎么罪大恶极,也伤不了上帝的公义。

那么为何上帝不阻止犹太人犯罪受罚?或者干脆不让人类的堕落发生?这是神正论最常见、最根本的问题。张大卫牧师指出,其答案就在于“自由且基于爱的关系”。上帝赐予人自由意志,目的在于让人能够主动回应祂的爱。倘若没有自由,顺服只能是机器式或自动式的,但真正的爱无法建立在强制或程序预设之上。

有人或许质问:“若人的堕落也在上帝旨意之内,那岂不是祂在安排或计划恶?”或者说:“若犹大不背叛耶稣,十字架救恩怎能成就?那犹大岂不是在协助上帝完成救恩吗?”针对这类问题,张大卫牧师提到保罗在7-8节中表明的立场:有人说:“若我的谎言反而彰显上帝的真实,那我为何还被定罪为罪人?”保罗则回应:“若为成全善而行恶,那么我们干脆做更多恶事吧?绝对不可如此!”
若上帝事先就“计划好人的邪恶”,使恶成为成就善的工具,那么作恶之人甚至可以自傲地宣称自己是在“成全上帝计划”。但保罗对此坚决否认。人不能用任何方式逃避对罪的责任,也不能将罪的起源归咎于上帝。

张大卫牧师还借创世记约瑟的经历来阐述这一点。约瑟因兄长嫉恨而被卖到埃及,经历极大苦难。兄长们的行为无疑是“恶”的表现,不可能被视为“善”或上帝的“堕落预设”。但上帝却在这恶行之中保守了约瑟,最终使他升至宰相位置,借此在饥荒中拯救了许多民族。约瑟对兄长说:“你们本意是要害我,但上帝却把这恶事转为善事,使许多人的生命得以保全”(创50:20)。
由此可见,上帝是能“将人的恶变为善”的上帝,而非“把恶本身计划好”的上帝。祂拥有大能,不会向恶屈服,反能将恶反转为善。这正是神正论的答案所在。也就是说,人类的堕落与罪,是滥用自由意志的产物,但上帝有能力将人所造成的恶逆转为善。若有人声称“堕落就是上帝的旨意”,或者“离了恶就无法彰显善”,那便是保罗所极力警戒的歪论与亵渎。

张大卫牧师呼吁我们留意保罗向罗马教会内外的犹太人所提出的要点:保罗本人也曾出于对律法的热心而迫害过耶稣,但当他与基督相遇后,一切都截然不同。他真正明白了律法之深义,以及基督为赎罪而自我牺牲的十字架之意义。从那爱的角度看,人犯罪从来不是上帝原本的心意,也非上帝强迫安排。人的不顺服,应由人自己承担责任。上帝却仍然用爱忍耐,盼望人悔改,并为此亲自献上生命。

罗马书3章1-8节以一问一答的形式,探讨:“犹太人的失败会否令上帝的信实破灭?”“若通过恶行彰显善,那恶是否也必要?”保罗反复强调“绝对不可能!”意思是:上帝始终真实公义;罪与恶全由人承担责任,而上帝却伟大到能够将人的罪恶逆转为善。犹太人若听到这个信息,就应当反省自己,停止只为曾受赐律法的特权而骄傲,而应该为未能真正顺服上帝而深切悔改。

神正论的答案正是如此:“上帝为何不立刻审判恶人?”“为何任凭历史如此漫长,以至于罪横行?”——这类问题多半仍是在把责任推向上帝。张大卫牧师透过保罗的宣告提醒我们:“断乎不是!”并非要替上帝辩护,而是要坚信上帝满有慈爱与公义。换言之,“人若无法成为上帝的选民,该由谁负责?是上帝的错吗?”当然不是。人应当反省自己:“我不信、我不顺服、我违背了上帝的话语。”若反过来质问“为什么你不阻止我?”“为什么你要预定如此?”就绝对无法进入正道。那种对爱之上帝的重大误解,正是保罗大声驳斥的被滥用的预定论或扭曲的神正论。


2. 福音的本:做“心受割的人,活出信仰

在上文对神正论问题的探讨之外,张大卫牧师也关注到,罗马书3章1-8节还隐含了另一大主题——“福音的本质”。保罗在罗马书2章28-29节已宣告:“表面上的犹太人,不是真犹太人;肉身上的割礼,也不是真割礼。唯有里面作的犹太人,才是真犹太人;割礼也当行在心里。”这是对传统选民观的根本性冲击。

张大卫牧师解释,保罗此言并非简单地否定割礼的价值,而是要指出:“真正的割礼、真正的信心与顺服,究竟从何开始?”犹太人以受割礼来表明自己继承了亚伯拉罕之约,从而确立“立约子民”的身份。但保罗警告说:“若你违背了律法,你的割礼便等同于未受割礼”(罗2:25)。换言之,若不守律法,即便你已经行了肉体上的割礼,也仍不能算是真正的上帝子民。

保罗并不是全盘否定割礼的任何益处。在罗马书3章1-2节,他就问道:“那么,犹太人有什么长处?割礼有什么益处?凡事多有好处,第一在于他们得托付了上帝的圣言。”张大卫牧师结合当代教会实际说明,“基督徒受洗也是同理”。洗礼本身并非无用的仪式,而是公开向世人宣告自己与主同埋葬、同复活的重要礼节。问题在于,若它沦为仅剩外在形式,而无内在实意,就毫无益处。

保罗在罗马书9章以后再次提到,犹太人确实拥有极大的特权:他们得着“儿子名分”(罗9:4)、蒙了“各样的约”(罗9:4),得到“律法”(罗9:4)和“应许”(罗9:4)的托付,连基督也从他们的血统而出(罗9:5)。这是何等荣耀。如今,在教会中受洗或自幼在基督徒家庭中长大的信徒,也同样带有某种“恩典的条件”。然而,这些条件究竟是停留在“自我夸耀”上,还是成为真正将生命献给上帝、实行“心灵割礼”的契机?

张大卫牧师进一步引述旧约先知耶利米书31章33节:“耶和华说:‘我要将我的律法放在他们里面,写在他们心上……我要作他们的上帝,他们要作我的子民。’”这才是上帝真正期盼的“立约关系”。不在肉体外表,而在内心深处受割礼,即不是停留在条文或形式,而是借圣灵产生的顺服。耶利米与以西结等先知都多次强调:“我要从你们肉体中除掉石心,赐给你们肉心,又将我的灵放在你们里面”(参结36:26)。

保罗在加拉太书、腓立比书、歌罗西书等书信中多次探讨这一议题。在加拉太教会中,有些犹太背景的基督徒主张“外邦信徒也必须受肉体割礼才算真得救”。对此,保罗严厉斥责,甚至用“当防备那些妄行割礼的”(腓3:2)字眼。他宣告:“因为真受割礼的,乃是我们这凭上帝的灵敬拜,在基督耶稣里夸口,不靠肉体的”(腓3:3),并警告那些执着“外在割礼”的人反而是“犬类”。

在歌罗西书2章11节起,保罗同样提及在基督里所受“非人手所行”的割礼:这是透过洗礼与基督同死同埋葬、又与祂一同复活的奥秘(西2:12),即与基督联合(Union with Christ)的真理。张大卫牧师由此指出:“可见,外在的记号只是表征内心改变的一个标记(sign);它本身并不决定一切。”

保罗在罗马书2-3章的脉络里,将此观点直接应用到犹太人身上:“不可以只因外表行割礼就自诩是选民;外在形式不是本质。唯有真心悔改与信服,才能让割礼发挥意义。”他严肃警告说:“若不遵守律法、反而亵渎了上帝名,即使受割礼也等同于未受;相反,若未行割礼者却遵守了律法,就在上帝面前被视为是割礼之人”(参罗2:25-27)。

对于犹太人而言,这番话无疑是震撼性的,他们自然反问:“那我们行割礼、传承律法岂不是毫无用处?”保罗回答:“当然不。因为你们领受了上帝的话语,这确是一种特权”(罗3:2)。但他同时告诫:若不忠实于上帝的本意,反使祂的名受羞辱,这特权反会成为更严厉的审判依据。

张大卫牧师提醒我们,这一点同样适用于当代教会:洗礼、长年信仰资历、教会职分、神学知识等,都是可贵的恩典见证。但若只把它们当做外在夸口,则毫无意义。保罗在罗马书2章形容:某些外邦人(放到今天可理解为“非基督徒”),仅凭良善与道德,也足以让那些自诩基督徒却缺乏实际顺服的人无地自容。这正是经文所谓“未受割礼者若遵行律法,岂不更显出你的亏缺?”(参罗2:27)。

那么,福音的本质何在?保罗在其他书信屡次重申“义人必因信得生”(罗1:17,加3:11等),意即我们的得救并非源自功德或外在形式,而是基于基督十字架的代赎与复活,并且“因着信”才能领受这救恩(弗2:8-9)。但这并不意味着“肉体记号毫无价值”,而是说:割礼或洗礼只是外在的符号(sign),用来向上帝和教会群体见证我们内心的真实状态。它并非本质;本质乃是“心灵的割礼”——借着圣灵在内心里更新、真诚悔改与顺服上帝的爱。

耶稣在世上亲身示范了爱、谦卑、服事和恩典,正是信仰生活中最应结出的果子。张大卫牧师反复强调:“不要以为割礼或洗礼就自动保证得救,也不要以为教会里有许多事奉经历就能算为义。”

保罗在罗马书3章继续对比“上帝的义”和“人的不义”,由此也衍生了另一个谬论——若“我的不义反而衬托出上帝的义,岂不是带来好事吗?”甚至有人提出“那不如多行恶,好叫善显得更大”(罗3:8)的极端主张。保罗针对此直言“定罪是应当的”。人若犯罪后仍妄称“结果上帝的荣耀更显出来了,我的罪也成了功劳”,这无疑是对福音本质的严重扭曲。

保罗在整卷罗马书中想要突出的主题之一是:救恩绝非起源于人自己,而是源自基督的十字架;唯有我们凭信心领受,圣灵才在我们内里动工,使我们“心灵受割礼”而重生。张大卫牧师进一步指出,这真理不但破除了所有律法主义的形式,也为“神正论”问题提供了强有力的论据。因为上帝从未预先策划“恶”,而是把人造得有自由,并在我们滥用自由堕落之时,依然选择以十字架来施行救赎。

在罗马书3章1-8节的脉络里,种种质疑——“犹太人的特权有何意义?”“他们的不信是否代表上帝失败?”“若不义更彰显上帝的公义,那罪本身是否有益?”——都得到统一回答:上帝依然公义且信实,人却常因不信或无知而陷于虚妄;保罗以“断乎不是!”那句决然的话为结论,敦促教会今日亦当警惕仅凭外在形式、忽视内心更新的宗教生活。

就神正论层面而言,“上帝为何允许恶存在如此之久?”这问题最终指向“为何上帝不把我们变成提线木偶?”但无自由的爱,其实并非真正的爱。上帝如此尊重我们,却又让我们可以在罪中跌倒,而责任无可推卸。与此同时,基督在十字架上付出代价,确保人的堕落也无法否定或摧毁上帝的爱与主权,反而彰显了祂能将恶化为善的能力。祂如此伟大的爱,超越了一切黑暗。

这也让我们重温“被拣选却不配合这拣选”之犹太人,或“表面接受福音却缺乏行为体现”的现代基督徒,同样面临警醒。保罗的提醒以及张大卫牧师的诠释,都敦促我们悔改并下决心:没有“心灵割礼”的宗教活动,绝非真福音生活;把罪之根源推给上帝,更是严重错误。

张大卫牧师将此总结为“回归福音的本质”。这福音的核心在于:人之罪和悖逆完全出于人本身,但上帝的信实却不被动摇;祂甚至甘愿舍己,使罪人得恢复,并藉圣灵在人的内心动工,使凡真心悔改、信靠祂的人都能得到拯救。若我们已然得着此恩典,就当活出与这恩典相称的生命。那才是“心灵受割礼”之人的存在方式。

罗马书3章1-8节给出的主要教训可归纳如下:
第一,当人陷在谎言和罪中时,往往容易误解上帝,并想将罪的责任推卸给上帝;这是从创世记开始就有的人类罪性。
第二,然而上帝绝不会放弃祂的信实,人再不信也动摇不了上帝的计划。
第三,若我们只因外在的割礼、礼仪、长年信仰经历来自夸,就会与保罗所责备的犹太人犯同样的错误。
第四,真正的福音在于“人心里信而称义,口里承认而得救”(罗10:10),这包含“非人手所行的割礼”,也就是圣灵带来的内在改变与决心。
第五,那种“让恶多一点,好让善更明显”的荒唐谬论绝对不被允许。上帝虽可化恶为善,但这并不意味着人可推卸罪责。

张大卫牧师强调,这信息不仅给两千年前的犹太人,也同样指向现今所有基督徒。唯有破除对上帝的偏见与误解,才能进入保罗在罗马书所宣示的“因福音而得的自由”(罗8:2)。在我们发出“上帝啊,为什么你容许恶到这个地步?”的神正论质疑前,更应自问:“我是否已受心灵的割礼?”“我是否真凭信心生活?”

若我们自以为“我已受洗、在教会几十年了,所以很安全”,其实和犹太人质问“那我们还有何益处?”并无本质差别。基督徒的名分应通过高举上帝之名、活出见证来体现。若外邦人看见我们自称信主,却行事虚伪败坏,反而会责备“因你们,上帝的名受亵渎”,那与只拥有外在割礼的犹太人毫无分别。

因此,透过对罗马书3章1-8节的整体讲解,张大卫牧师反复呼吁:“要受心灵的割礼!”唯如此,我们才真正能与保罗同感:“众人都虚谎,唯有上帝真实。”若我们仍陷于罪,却仅借“上帝全能”“上帝预定”之类词语来开脱,那就只会逃避信仰的本质与自身应有的生命更新。

除此以外,若缺乏源自内心的悔改与信心,我们对“神正论”的答案也只能停留在空洞理论层面。说什么“都是上帝的安排”“无法测透上帝的旨意”,并不能让我们在实际生活中更坚定地相信上帝或更喜乐地传扬福音。但正如保罗,若我们曾是“罪人中的罪魁”,却因基督恩典称义,就不会把神正论的疑问当作自我开脱的借口;反而会谦卑自省,尊崇上帝,远离罪恶,选择行善,并为自己拥有“自由选择”的尊贵而感恩。

保罗之所以要透过“犹太人的优越与不信”,引出神正论的讨论,并且一再强调“断乎不是!”,同样适用于今日的我们。无论何种方式,将罪起源归咎上帝都是错误;企图以更多罪来彰显上帝之恩典更是荒谬。唯有当我们在基督里经历真实的救恩,且由心灵受割礼而更新时,才能确证福音的真实性。

结合经文背景、神正论议题,以及成为“心灵受割礼”之人的福音本质,并延伸到旧约、新约与初代教会的冲突,我们得出明确的结论:“纵使人都虚谎,上帝依然真实;祂的爱大到足以把人因滥用自由意志所犯的罪也逆转成善,但这绝不成为为罪开脱的理由。”我们切忌认为外表就能保证什么;应当真诚悔改、顺服,做“里面的信徒”。这正是保罗“断乎不是!”背后所隐藏的真理,也是张大卫牧师在讲解罗马书3章1-8节时所要传达的核心信息。

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心の割礼と福音の本質 – 張ダビデ牧師

以下の文書は、張ダビデ牧師によるローマ書3章1-8節に関する説教原稿を土台としつつ、その内容を大きく二つのテーマにまとめ、本文の意味と神正論(しんせいろん)的問題、そして福音の本質についてより豊かに論じたものです。説教の主たる流れは、パウロの論旨がもつ意義、そしてそこから派生する「神に対する誤解と罪の責任」という重要な神学的主題を中心に展開されています。また、ここでは原稿本文に提示された内容に加え、その背景で説明された旧約・新約の聖句や教会史的・神学的含意にも言及しています。


1. パウロの論旨と神正論(しんせいろん)の問題

張ダビデ牧師は、ローマ書3章1-8節を講解するにあたり、この本文がもつ核心の問いが「神正論」の問題と深く結びついていると強調します。神正論(Theodicy)とは、全知全能であられ、善なる神が、どうしてこの世に起こる悪や罪、不義のようなものを許されるのかという問いに関する弁明ないし解明を扱う学問・議論です。つまり、神の統治と摂理を眺めるとき、人間側に生じるあらゆる疑問に対して、「神はなおも正しく、いささかの過ちもない」ことをいかに「弁護」できるかを取り扱うわけです。したがって、この問題は常に信仰者たちの心を複雑にし、同時に不信者にとっては神を信じない、あるいは反神(はんしん)的態度を取る代表的なテーマとして機能してきました。

本文においてパウロは、イスラエル民族がもっていた特権、すなわち「ユダヤ人の優位性」とは何かという問いと、それに対する応答を提示します。従来、彼らは神の特別な契約と律法を授けられ、モーセから継承された選民思想を誇りにしてきました。とりわけ「割礼」というしるしは、「神の聖なる民」であることを象徴する強力な標(しるし)でもありました。ところがパウロはローマ書2章の終わりで、表面的な割礼は真の意味での「神の民となること」を保証しないと断言しました。たとえ律法の条文を与えられたとしても、もしそれを完全に守れないなら、どんな異邦人よりも重い罪に定められ得る、と厳しく語ったのです。この衝撃的な教えがユダヤ人たちに伝わったとき、「それなら、私たちが享受してきたあらゆる特権は無駄だったのか。割礼そのものが無効になったというのか」という反発が、即座に起こるのは当然でした。

張ダビデ牧師は、この段階で見られるユダヤ人たちの反発が、神正論的な問いとも重なるのだと指摘します。すなわち「神が私たちをお選びになったのに、私たちは罪によって律法を破ってしまった。とするなら、これは神の側の失敗ではないのか?」といった形で、人間の不従順を神に転嫁する論理が生まれてしまう、というわけです。人間は常に自らの罪や過ちを弁明しようとするばかりか、さらにその責任を神に押し付けようとする傾向があります。これは創世記3章でアダムとエバが罪を犯したときから始まった「罪に関する弁明と責任転嫁」の延長線上にあるのです。

3節でパウロはこれを、「ある者たちが信じなかったとして、その不信が神の真実(まこと)をむなしくするのか?」という問いとして提示します。すなわち「もし神の契約の民であるユダヤ人たちの中に、不信と不従順の者がいたとしたら、それによって神の誠実さが損なわれ、無効になるのか?」というわけです。張ダビデ牧師は、当時の教会内外で十分に起こり得た代表的な神正論的抗議を、ここで想起させます。神が全知全能であり、選びに後悔がないとされるなら、なぜ選ばれた民が不従順によって裁きを受けるような事態が生じるのか。結局は神が選びを誤ったのか、それとも選んだのに守れない無能さゆえなのか――そういった疑問です。

これに対してパウロは、「断じてそんなことはない」(4節) ときっぱりと言い切ります。神は決して不義であられたり、過ちを犯されたり、あるいは契約に不誠実な方ではない、と力説するのです。たとえすべての人間が偽りだとしても、神は真実である、という言葉は、人間の側でいかなる弁明があろうとも、神の絶対的真理と誠実は少しも揺らがないことを示しています。張ダビデ牧師はここで「人はみな偽り者だが、神は真実である」というくだりを特に強調し、ダビデの悔悛詩として知られる詩篇51篇4節を引用します。ダビデがバテシバの事件後に悔い改める中で「私はあなたにだけ罪を犯し、御前に悪を行いました。ですからあなたが仰せになるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたは清くあられます」と告白した箇所です。これは、人間の罪深さがいくら大きくとも、それが神の正しさに傷を負わせることはできないことを示しています。

ではなぜ、神はユダヤ人たちが不従順になり、裁きを受けるのを事前に止めなかったのか。それとも、そもそも堕落自体が起きないようになさらなかったのか。これこそ神正論における、最も普遍的で根源的な問いでしょう。張ダビデ牧師は、その答えは「自由な愛の関係」にあると説きます。神が人間に自由意志を与えたということは、人間が自ら神の愛に真心から応えることを許されている、ということです。もし自由意志がなかったなら、それは機械的な服従や自動的な従順にすぎなくなるでしょう。しかし愛の真実性は、強制やプログラムでは決して満たされません。

さらに言えば、「人間の堕落が神の御心だったなら、それは神が悪を計画されたことにならないか?」と反論する人もいるでしょう。あるいは「もしユダがイエスを裏切らなかったなら、十字架による救いはどう実現されたのか。結局ユダは神の救いの歴史に協力した功労者なのでは?」と問う人もいます。これらの究極的な問いに対して、パウロが示す論理を紹介するのが、本節7-8節です。パウロは「もし私の偽りが神の真実をいっそう豊かにさせるのなら、どうして私が罪人のように裁かれるのか?」という問いに対し、「では善を成すために悪を行おうと言うのか?そんなことは断じてあり得ない!」と宣言します。

このくだりの真意を掘り下げると、もし神が「人間の悪をあらかじめ計画」して、その悪を通して善をなし遂げる方なのだとしたら、悪を行う者はむしろ「神の御心を成就するために」道具として用いられ、しかもそれを誇ることさえできてしまうことになるでしょう。ですがパウロはそうした詭弁を一切認めません。人はどのような手段をもってしても罪の責任を免れたり、罪の起源を神になすりつけることはできないのです。

張ダビデ牧師は、この点を創世記のヨセフの物語を引き合いに出し、さらに説明を広げます。ヨセフは兄たちに憎まれ、穴に投げ込まれ、やがてエジプトに奴隷として売られるという非常な苦難の道を通りました。兄たちは明らかに「悪い心」でヨセフを売り渡したのであって、それは断じて善い行為でもなければ、あらかじめ計画された堕落でもありません。しかし神はその悪のど真ん中にあってもヨセフを支え、最終的にはエジプトの宰相にまで引き上げ、やがて多くの民族を飢饉から救う道を備えられました。その後、兄たちがヨセフの前でおびえて震えているとき、ヨセフはこう告白します。「あなたがたは私を害そうと図りましたが、神はそれを良きことに変えて、今日見るように多くの民の命を救われたのです」(創世記50章20節)。

このように神は「人間の悪を善に変えられる方」であって、「悪そのものを計画される方」ではありません。神の主権は、悪に屈服しないばかりか、むしろ悪を善へと変容させるほどに偉大で全能です。そしてこの事実こそが、神正論への回答にもなります。結局、人間側の堕落と悪は、自由意志を誤用した結果にすぎません。そこに善なる結果を生み出されるのは、あくまで神の側の御業なのです。しかし「堕落こそ神の御心」と強調したり、「悪を通さないと善が顕れなかった」という結論に至ることは、パウロが断固として警戒し、否定している過ちであり、不敬虔な考え方です。

張ダビデ牧師は、ローマ教会の内外のユダヤ人に対してパウロが掲げた論旨に注目するよう促します。パウロ自身もかつては律法への熱心からイエス・キリストを迫害していました。しかしキリストと出会った後、「すべてが変わった」のです。律法の真の意味、そして人の罪をあがなうためにご自身を差し出されたキリストの十字架が何を意味するのかを悟ったのです。その愛の視点から見るなら、人間が罪を犯すあらゆる場面は、決して神の本来の御心ではなく、神が強制的に計画されたものでもありません。人間の不従順はあくまで人間側の責任です。神は最後までその愛によって人間の救いを切望され、回復のためにご自身を犠牲にされるお方です。

結論として、1〜8節でパウロが展開する問答的な議論は、「ユダヤ人の失敗によって神の真実までもが壊れるのか?」「悪を通して善が顕れるのなら、結局悪も必要だということか?」という問いに対し、「そんなことは断じてあり得ない!」と明言するものです。神は常に真実であり正しく、罪と悪は全く人間に責任があり、それにもかかわらず神は人間の悪すら善に変えるほど偉大である、ということです。ユダヤ人たちはこのメッセージを受け取り、これまで自分たちが律法を授かった特権をただ誇ってきた姿勢を省みなければなりませんでした。そして本当に神の御心のとおりに生きられなかった部分、すなわち自由を神に服従させ、愛をもって従順することに失敗した部分を、深く悔い改め、立ち返る必要があったのです。

神正論への答えも、まさにここにあります。「なぜ神は悪人をすぐさま裁かれないのか?」「なぜ歴史がこれほど長く続き、罪が蔓延するのを許しておられるのか?」といった問いも、結局は人間の視点から神に責任を押し付けることになりやすいのです。張ダビデ牧師は、パウロの言葉を通して、私たちの信仰は「そんなことがあるはずない」という断固たる答えを、「神を弁護するための防衛論」ではなく、「神が愛と正義に満ちた方である」という確信の告白として受け取るべきだとまとめます。

すなわち、「人間が神の選民になれなかったとしたら、その責任は誰にあるのか?神のせいなのか?」――断じてそうではありません。むしろ私たちは自らを振り返り、「私が信仰をもたず、私が不従順で、私が御言葉に不義だったのだ」と悔い改めなければなりません。そうせずに「あなたが防がなかったではないか」「あなたが予定したではないか」と神に食ってかかるようになれば、誰も正しい道へ至ることはできません。それは「愛の神」に対する重大な誤解であるだけでなく、パウロが声を上げて拒絶した、悪用された予定論的思考、あるいは歪んだ神正論に他なりません。


2. 福音の本質、「心に割」を受けた者との信仰

上記の神正論的問題と並んで、張ダビデ牧師はローマ書3章1-8節に内包されるもう一つの重要な主題である「福音の本質」にも着目します。パウロは直前のローマ書2章28-29節で、「表面的なユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外面的な肉の割礼が割礼なのではない」と宣言しました。さらに続けて「隠れたユダヤ人こそがユダヤ人であり、割礼は心で行うものであって、文字によるのではなく御霊によるのだ」と語ります。この大胆な主張は、選民思想を根本から揺るがすものでした。

張ダビデ牧師によると、パウロのこうした宣言は、単に「割礼の無用論」を主張するのではなく、「真の割礼、真の信仰と従順はどこから始まるのか」を明らかにする御言葉だと説明します。ユダヤ人たちは割礼を受けることでアブラハムの契約を継承し、自分たちが「契約の民」であることを公にしてきました。しかしパウロは「もし律法を破るならば、あなたの割礼は無割礼になる」(ローマ2:25)と警告します。すなわち、律法を守らないのなら、肉の包皮を切除したかどうかは関係なく、真の神の民であるとは言えない、というのです。

だからと言って、割礼そのものに何の価値もないと言っているわけではありません。ローマ書3章1-2節でパウロははっきりと「それなら、ユダヤ人の優れている点は何か、割礼の益は何か。あらゆる面で多い。まず第一に、彼らは神の言葉を委ねられたことである」と述べています。張ダビデ牧師は、これを当時の教会の状況に照らし合わせて、「キリスト者が受ける洗礼も同じ」だと解釈します。洗礼自体が無益な儀式なのではなく、本来はキリスト者の信仰を公に告白し、「主とともに葬られ、主とともに生きる」ことを宣言する重要な式典です。問題は、それが「外形だけの儀式」に堕してしまったときに生じます。

パウロが9章以降でも触れるように、ユダヤ人は神から「子とされる身分(ローマ9:4)」や「契約(ローマ9:4)」をいただき、「律法(ローマ9:4)」と「約束(ローマ9:4)」を託され、さらにキリストもその血筋から来られた(ローマ9:5)。これはとてつもない特権です。同様に、今日の教会において洗礼を受けている人や、キリスト教家庭に生まれ自然と信仰生活を営んできた人も、非常に大きな恵みの条件を与えられていると言えます。では、その条件が「自分の実践を伴わない自慢」だけで終わるのか、それとも本当に自分の生を神に捧げ、「心に割礼」を受けた内面的な信仰にまで至るのかが問われるのです。

張ダビデ牧師は旧約の預言書、エレミヤ31章33節を想起させます。「主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らのうちに置き、彼らの心にこれを記す…わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と。これこそが神が真に願われる契約関係であり、包皮に刻まれた割礼ではなく、心の奥底に刻まれた割礼、すなわち表面的行為を超えて霊のうちでの従順を強調しています。エレミヤやエゼキエルといった預言者たちも、「あなたがたの心の石のような固いものを取り除き、柔らかい肉の心を与える。わたしは新しい霊をあなたがたのうちに与える」(エゼキエル36:26)というメッセージを繰り返し伝えました。

パウロはガラテヤ書やピリピ書、コロサイ書などでも繰り返しこの問題を扱います。ガラテヤの教会内部には、「異邦人信者も肉体の割礼を受けなければ真の救いは得られない」と主張するユダヤ人出身の兄弟たちがいました。パウロは彼らを激しく批判し、「割礼派に用心しなさい」(ピリピ3:2)とまで表現します。そして「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉を頼みとしない私たちが真の割礼なのだ」(ピリピ3:3)と宣言し、外面的な割礼ばかりを固執する者たちを、むしろ「犬どもに気をつけよ」という過激な言い方で警告します。

コロサイ書2章11節以下でも、キリストにあって受けた「人の手によらない割礼」の重要性を説き、肉体的儀式ではなく「洗礼によってキリストとともに葬られ…神の御業を信じる信仰によって、その中で共に生かされたのだ」(コロサイ2:12)という点を強調しています。これは神学的に言えば、キリストと共に死に、キリストと共に生きる「キリストとの連合」を示す真理です。張ダビデ牧師はここで、「目に見える印(sign)は、心の変化を表す一つの象徴にすぎない。その印自体がすべてを決定するわけではない」と説き明かします。

この論理をユダヤ人たちに直接当てはめたのが、ローマ書2章から3章に至る流れです。パウロは「外面的な割礼だけでは選民だと誇るな。それは本質ではない。心からの真の悔い改めと信仰があるとき、その割礼に意味と効力が生じるのだ」と宣言しました。そして「もし律法を守らず神の名を汚すならば、あなたの割礼は無割礼になり得る。一方で、律法の定めを守る無割礼の者は、たとえ割礼がなくても神の前で義とされるのではないか」と警告しています(ローマ2:25-27参照)。

この衝撃的な教えに対して、「それではいったい私たちが割礼を受け、律法を伝承してきたことは何の役にも立たないのか?」という反応が当然出てきます。パウロはこれに「いや、そうではない。あなたがたは神の言葉を委ねられたのだから、ユダヤ人の優位性は確かにある」(ローマ3:2)と答えます。しかし、その優位性や特権が「あなたが本質に忠実であるとき」にこそ真に意味を持ち、もしその特権を守らず、かえって神の御名を汚す不信仰を表すのであれば、その特権はむしろさらに大きな裁きの根拠になり得る、と指摘するのです。

張ダビデ牧師は、これを今日の教会状況にも同じように適用すべきだと提案します。洗礼や長年の信仰歴、教会での職分、神学的知識などは、まことに尊く貴重な恵みの証拠でしょう。とはいえ、それが外面的な自慢話にすぎないのなら、何の意味があるでしょうか。パウロが鋭く指摘したように、ある異邦人(今日で言えば未信者)でさえも「正しい良心と道徳的生活」を通して、形式的にクリスチャンと呼ばれているだけの人を、むしろ辱め得るのです。これこそが本文で語られている「無割礼の者が律法を行うなら、かえってあなたをさばくのではないか」という警告(ローマ2:27)にほかなりません。

では福音の本質はどこにあるのでしょうか。パウロは他の書簡でも、「義人は信仰によって生きる」という命題を繰り返しています(ローマ1:17、ガラテヤ3:11など)。つまり、私たちの救いは人間の功績や外面的な形式によって成し遂げられるのでは断じてなく、ただキリストの十字架の贖いと復活、そしてそれを心から信じ受け入れる信仰を通して、恵みによって与えられるもの(エペソ2:8-9)だということです。とはいえ、それが「肉のしるしを完全に無価値とする」ことを意味するわけではありません。張ダビデ牧師は「しるしとは、心にある実体を示す外的サイン(sign)であり、神と教会共同体の前で自分の状態を確認する儀式だ」と説明します。

しかしこのしるし(割礼や洗礼)こそが本質なのではありません。本質とは「心の割礼」、すなわち御霊による内面の変化と真の悔い改め、そして神への愛と隣人愛を実践しようとするキリストの生き方への従順です。イエスご自身が地上で示された愛とへりくだり、仕え、恵みを与える姿こそが、私たちが信仰生活において第一に優先すべき実です。張ダビデ牧師は「割礼や洗礼を受ければ救いが保証される」と勘違いしたり、「教会で長く奉仕してきたから義とされる」と思い込むのは間違いだ、と重ねて強調します。

さらに、パウロがローマ書3章で触れている「神の義」と「人間の不義」の対比に関するもう一つの争点は、「私たちの不義によってむしろ神の義が顕れるのなら、それは結果的には善なのではないか」という詭弁を引き起こすことです。「善をもたらすために悪を行おう」と言わんばかりの無謀で極端な論理です(ローマ3:8)。パウロはこれを「そんな者たちは当然さばかれるのだ」と一刀両断にしています。私たちが罪を犯したからといって、「結果的に神の栄光がさらに顕れたのなら、私の罪はむしろ善をもたらしたではないか」と言うことは、福音の本質をねじ曲げる危険極まりない発想だというのです。

結局、パウロがローマ書で示そうとしている核心は、「救いは私たちから出たものでは少しもなく、ただキリストの十字架の犠牲から始まり、それを信仰によって受け入れるとき、御霊の働きが私たちのうちに臨み、心の割礼として生まれ変わる」という真理です。張ダビデ牧師は、この教えがあらゆる律法的形式主義を打ち砕くと同時に、「神正論の問題」から神を弁護する上でも強力な論拠となるのだ、と力説します。なぜなら、神は私たちに悪を計画される方ではなく、私たちを徹底して自由な存在として造り、その自由を踏み外し罪に陥った私たちを、最後まで救おうと十字架の道を選ばれたからです。

ローマ書3章1-8節は、このような流れの中で「ユダヤ人の特権とは何か?」「彼らの不信によって神が失敗されたのか?」「私たちの不義が神の義を顕すなら、罪も有益だということか?」といった問いを通して、神の正しさと誠実さ、そして人間側の不信と愚かしさがどれほど虚しいかを示します。張ダビデ牧師は「そんなことは断じてあり得ない!」というパウロの断固とした結論を重ねて解説し、現代の教会においても、私たちが形だけにしがみつく表面的な信仰生活を省み、「真の心の割礼」を受けねばならないと強調します。

神正論的観点から見ると、「なぜ神は悪の存在を許されたのか?」という問いは、つまるところ「なぜ神は私を操り人形にされなかったのか?」という問いと直結します。ですが、自由のない愛は、もはや愛ではありません。神が私たちの自発的な応答を望まれたという事実は、救済計画全体の中であまりにも重要です。そこまで人間を高めてくださったのに、人間は自ら罪を選び、その責任から逃れられません。同時に、その罪の代価をイエスが十字架で身代わりに負われたことによって、私たちの堕落は神の愛と主権を否定したり、崩すことはできなくなりました。むしろ神がどれほど偉大なお方であるか――「罪や悪さえも善に変えられる力」をもっておられるかを示す結果となったのです。

結局、私たちは「選ばれていたのに、その選びにふさわしく生きなかった」ユダヤ人たち、あるいは「福音を上辺だけ受け取って行いで証明できていない」現代の形式的信徒の問題と全く同じものに直面します。それを明確に指摘するパウロの言葉、そしてそれを解釈・講解する張ダビデ牧師の説教は、今日の私たちに悔い改めと決断を迫ります。心の割礼もないままに教会の儀式だけに倣っている信仰は、決して「真の福音生活」にはなり得ず、「結局はすべて神の計画なのだから仕方なかった」といった言い訳は、なおさら許されないという厳粛なメッセージです。

張ダビデ牧師は、これを「福音の本質の回復」と要約します。この福音の本質は、人間の罪や不従順があくまで人間の側の誤りによって引き起こされたと宣言し、それにもかかわらず神は限りなく誠実であられ、罪人を回復するために十字架にご自身を差し出され、聖霊によって心の変化をもたらしてくださり、だれでも真実に悔い改めて信じるなら救いに至らせる、ということです。私たちがこの恵みにあずかったなら、その恵みにふさわしく生きなければなりません。それこそが「外面的割礼ではなく、心に割礼を受けた者」の生き方です。

最終的にローマ書3章1-8節から学べる大きな教訓は次のようにまとめられます。
第一に、人は罪深い状態に留まっているとき、神を簡単に誤解し、罪の責任を神に転嫁しようとします。これは創世記以来の古い人間の罪性です。
第二に、それにもかかわらず神はご自身の誠実さを決して捨てられません。だれもその誠実を揺るがすことはできず、人間の不信のゆえに神の計画が破綻することもありません。
第三に、表面的な割礼や外面的儀式、あるいは長年の信仰生活などによって自らの義を誇ると、パウロが警告したユダヤ人と同じ誤りを犯す恐れがあります。
第四に、真の福音は「心で信じて義とされ、口で告白して救いに至る」(ローマ10:10) ものであり、これは「人の手によらない割礼」すなわち御霊による内的変化と決断を伴います。
第五に、「悪が増すほど神の栄光が顕れる」という類の愚かな詭弁は断じて容認できません。神は人間の悪を善へと変えられますが、人間の悪の責任が免じられるわけではないのです。

張ダビデ牧師は、このメッセージが2000年前のユダヤ人だけでなく、今日のすべてのクリスチャンにも変わらず適用される真理であることを想起させます。そして、私たちのうちにある「神に対する誤解」を打ち砕いてこそ、パウロがローマ書全体で語る「福音による自由」(ローマ8:2) に入っていけるのだと語ります。私たちは「なぜ神はこれほどひどい状況になるまで放置なさったのか?」という神正論的疑問を呈する前に、「私は心に真の割礼を受けているだろうか?」「私は本当に信仰によって生きているだろうか?」とまず自問すべきなのです。

もし「私は間違いなく洗礼も受けているし、教会に何十年も通っているから安心だ」と自分を安心させるなら、それはパウロの叱責に直面したユダヤ人たちの「それでは私たちに何の益があるのか?」という反論と大差ありません。クリスチャンの名誉とは、神の御名を高める生き方によって証明されるものです。未信者が私たちの歩みを見て、「なるほど、あなたがたの語る福音は真実だ」と告白するなら、それは真に割礼を受けた神の民と言えるでしょう。しかし、未信者が教会の中の偽善や罪を見て、むしろ「あなたたちのせいで神の御名が汚されている」と言うようになれば、それは外面的な割礼だけに頼っていたユダヤ人と何ら変わりありません。

したがって、ローマ書3章1-8節に関する一連の講解を通して、張ダビデ牧師が繰り返し強調することは明白です。「心に割礼を受けよ!」ということです。そうしてこそ、「人はみな偽り者であっても、神は真実であられる」というパウロの告白を、自分の魂が深く共感できるようになります。罪から離れられないまま「神の全能」「神の予定」といった言葉ばかり前面に押し出して弁解するなら、結局、自らの生き方に変化を伴わず、信仰の本質を回避しているだけにすぎません。

さらに言えば、こうした心からの悔い改めと信仰がなければ、いわゆる「神正論問題」に対するいかなる解答も、空論にとどまるでしょう。「すべて神がなさることだ」と片付けたり、「神の摂理は私には理解できない」と言葉を濁したとしても、実際の生活の中で神を熱く信頼し、福音を喜んで伝えることはできないのです。しかしパウロのように、「私は罪人の頭であったが、イエス・キリストの恵みによって義とされた」という感謝と感動が生きている者は、神正論におけるどのような問いも自己弁明のために用いません。むしろへりくだって自分を低くし、神をあがめ、悪を避けて善を選び取り、その「人間に与えられた自由の偉大さ」を感謝するのです。

結局、パウロが「ユダヤ人の優位性と不信」を論じながら、この神正論的テーマを投げかけ、「そんなことは決してあり得ない!」という強烈な警告と宣言を続けるのは、現代にもまったく同じことが言えます。どのような形であれ、罪の根源を神に押し付けようとする試みをやめ、罪を積み重ねて神の恵みを大いなるものとしようとする自己矛盾的思考にも警戒しなければなりません。キリストにあって与えられた救いの恵みが真実であることは、私たちの生き方が「心の割礼」を通して変わったときに初めて明らかにされるのです。

本文の背景と神正論の問題、そして「心に割礼を受けた者」になるべきという福音の本質を中心に、旧約と新約、初代教会の葛藤状況にまで広く言及してみました。結論として、この御言葉の前で私たちが覚えておくべき中心の真理は明確です。「人はみな偽りであっても神は真実であり、その愛は、私たちの自由意志の濫用による堕落すら善へと変えるほどに大きい。しかしその事実が、人間の罪を正当化することは断じてない」ということです。ゆえに私たちは、外面的なものによっては何一つ保証されないという真実を悟り、心から悔い改め、従順する「内面的信仰者」へと生まれ変わらなければなりません。そしてそれこそが、パウロの「そんなことはあり得ない!」という断固たる口調の奥に宿る真実であり、張ダビデ牧師がローマ書3章1-8節を通して伝えようとした核心的メッセージなのです。

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ゲッセマネの孤独と従順 – 張ダビデ牧師


1. ゲッセマネの祈りの背景と意味

ゲッセマネの園での祈りの場面は、イエス・キリストが十字架の死を目前にして示された、最も劇的でありながら深遠な瞬間の一つと評価される。福音書のうちマタイ、マルコ、ルカ(いわゆる共観福音書)はこの出来事を共通して伝えており、そこからイエスが経験された苦悩と孤独、そして祈りを通して神の御心に完全に従われる姿が、いかに生々しく描かれているかがわかる。一方、ヨハネによる福音書にはゲッセマネの祈りの場面が直接的に記録されていない。ヨハネ福音書では、すでに13章から16章にかけての別れの説教を通して、イエスが十字架への道を決意されたことを十分に示していると解釈できるからだ。福音書ごとにイエスに焦点を当てる視点は若干異なるが、イエスが十字架という極度の苦難に直面されたときに捧げられた祈りの深さは、共観福音書すべてに一貫して示されている。そしてその祈りに含まれる霊的教訓は、現代に至るまで信仰者が絶対に見落としてはならない中心的テーマとして残っている。

特にマルコによる福音書14章32~42節は、イエスがゲッセマネの園に入られる瞬間から弟子たちと交わされた簡略な対話、ひとりで汗が血のしずくのようになるほど祈られる姿、そして最後に「起きなさい、行きましょう」と宣言して十字架へと決断される場面までを凝縮して伝える。ゲッセマネの園はエルサレム神殿の東側、オリーブ山の麓に位置しており、その名前が「油を搾る場所」や「搾油所」を意味していることから、オリーブの実を実際に収穫して油を搾っていた場所であることがわかる。同時に、メシア(ヘブライ語)やキリスト(ギリシア語)という呼称が「油注がれた者」を意味する点から見ても、イエスとこの場所との間には深い霊的象徴が結びついている。

張ダビデ牧師は、このゲッセマネの園の意味を解説する中で、オリーブ山が「平和」と「永遠性」を象徴する山としてもよく知られている点に注目する。イエスが平和の王としてエルサレムに入城されたとき、人々は即時の問題解決を期待したが、実際にイエスが身につけられたのは勝利の冠ではなく苦難の茨の冠であった。十字架につけられる直前、最後にとどまられた場所がまさにゲッセマネであり、この園は本来オリーブの油を搾る場所であったが、メシアであるイエスはここでいわゆる「公式の油注ぎ」を受ける代わりに、むしろ切実な汗と涙の祈りを捧げられたという点が、非常に対照的である。王となられるべきお方が、むしろ最も卑しい死の場所へ追いやられた事実が、この空間的背景を通して一層際立つのである。

さらに別の側面から見ると、ゲッセマネの園に入る直前にイエスと弟子たちが渡ったキデロンの谷もまた注目すべき背景となる。過越祭の時期、エルサレム神殿では何十万頭もの小羊が一斉に生贄として捧げられたと推定され、その血が神殿の下を通ってキデロンの谷に流れ込み、谷を赤く染めたと考えられる。イエスはまさにその血で染まったキデロンの谷を越えてゲッセマネへ行かれ、ご自身が「神の小羊」として血を流して死ぬ運命を想起された可能性が高い。張ダビデ牧師は、イエスはすでにその重みをご存じであり、避けられなかったと解釈する。人類の罪を贖うべき小羊となられるお方は、まだ弟子たちには隠されていた救いのドラマを、ただひとりで完全に担わなければならなかったというのだ。

ゲッセマネの祈りを思い浮かべるとき、イエスがその決断を簡単に片付けた超人的英雄なのではなく、私たちと同じ肉体的苦痛と恐怖を生々しく経験された「真の人間」であったことが一層はっきりする。マルコによる福音書は、イエスが「ひどく恐れてもだえ始め」(マルコ14:33)と描写し、ヘブライ人への手紙5章7節では、イエスが「激しい叫びと涙をもって願いと祈りをささげた」と語る。これは、イエスがゲッセマネの祈りにおいて、実際に死への恐れと不安を吐露されたことを示唆している。「アッバ、父よ。あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36)という切実な訴えが示すように、イエスは避けられない苦難を前にして、きわめて人間的な苦悩を味わわれたのだ。

しかしその祈りが「わたしの望むようにではなく、あなたのみこころのままになさってください」という結末に至る点が決定的である。ここには「死に至るまで従順」である積極的な従順が含まれている。張ダビデ牧師は、これを「不可能に見える状況の中でも神の可能性を信じる信仰」としばしば語る。なぜなら、イエスが父を「アッバ」と呼び、自分を完全に委ねるには、全能なる神が最終的に善なる道へ導かれるという絶対的信頼がなければならないからだ。私たちが日常で経験する苦しみとは次元が異なる、人類救済という重大な使命を背負ったイエスですら「この杯を取りのけてください」と叫ばざるを得ないほど、その苦難は途方もなく大きかったことが推測できる。同時に、イエスはご自身の願いではなく、父のみこころを選ぶことで、その信仰を行動によって証明された。

ここで注目すべきは、イエスがひとり祈りの格闘をしておられる間、弟子たちは眠り込んでしまったという事実である。汗が血のしずくのようになるほど祈られているイエスのそばで、一時間も目を覚ましていられなかった弟子たちの姿は、人間の弱さを映し出す鏡のように感じられる。孤独は十字架への道をさらに苛酷なものにする重要な要素であった。結局、イエスが捕えられるとき弟子たちは四散し、さらにはペトロが大祭司の中庭でイエスを三度も否認する。イエスの受難が誰とも分かち合えない孤独な道であることが証言されるのだ。その道においてイエスは「起きなさい、行きましょう」(マルコ14:42)と叫ばれ、すでに祈りによって死の恐怖を乗り越える決断を下されていた。その祈りの力がイエスをして十字架に向けて揺らぐことなく進ませたのである。

結局、ゲッセマネの祈りは信仰者に「人間的な弱さを正直にさらけ出しつつも、神の善なるご計画を全面的に信頼し、従うことができるか」を問う。苦難と恐れが消え去らなくても、「アッバ、父よ」と叫ぶ関係の中で、最終的に父のみこころに従順する瞬間を、イエスは直接示してくださった。そしてまさにこの場面が、十字架を理解するうえでの鍵となる。イエスが十字架を回避できたにもかかわらず、「この杯を取りのけてください」という願いを捧げつつも最終的に神のみこころを選ばれた点が決定的だからである。そうして十字架は無力な犠牲ではなく、意識的な愛の決断として完成する。ゲッセマネは、その決断が現実となる舞台であり、その後に起こる十字架と復活の出来事の性格をあらかじめ示す場面でもある。

張ダビデ牧師はさまざまな説教を通じて、ゲッセマネの祈りなくして十字架を十分に理解することはできないと語る。イエスが「王として油注がれて当然の方」であるにもかかわらず、苦しみの中で「この杯を取りのけてください」と訴えるほど、十字架は軽々しく決断できる出来事ではなかった。しかし同時に、それは復活の栄光と結びつく道でもあった。苦難と栄光は切り離せず、十字架と復活も切り離せないゆえに、イエスのこの祈りには、苦しみを乗り越えた決定的従順の力が宿っている。そしてこの事実こそ、今日に生きる私たちにとっても重要な霊的教訓を示している。


2. 弟子たちの弱さとキリストの孤

ゲッセマネの祈りの場面では、イエスの苦悩と祈りの格闘が全面に浮き彫りになると同時に、その対比として強烈に描かれるのが弟子たちの弱さである。マルコによる福音書14章26節以下を見ると、弟子たちは最後の晩餐を終えた後、「賛美の歌をうたってオリーブ山へ」向かう。イエスの心には迫り来る受難がすでに予見されていたであろうが、弟子たちはその深刻さを十分に実感せず、比較的軽い気持ちで師に付き従っていたように思われる。ペトロは「たとえみんながあなたを見捨てても、わたしは絶対に見捨てません」と豪語したが、この決意はイエスが捕えられるや否や粉々に砕け散る。

イエスがオリーブ山を上り、ゲッセマネの園に至ると、弟子たちはイエスが祈っておられる間、待っているうちに眠り込んでしまう。マタイ、マルコ、ルカはいずれも、弟子たちが目を覚ましていられずに眠ってしまう姿を繰り返し描く。イエスは「一時間でも目を覚ましていられないのか」と尋ね、「誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさい」と勧められるが、弟子たちは疲れや無知、あるいは霊的無感覚にとらわれていた。その後、イエスが実際に捕えられると彼らは驚いて逃げ散り、ペトロまでもカヤパの中庭で三度イエスを否認する。共観福音書の記録は、このように弟子たちの失敗談を隠さずに曝け出している。

特にマルコによる福音書14章51~52節に登場する匿名の若者の逸話は注目に値する。ある若者が裸の体に布切れ一枚だけ巻いてイエスについて行ったが、捕まえられそうになると布を捨てて逃げてしまったと記されており、これがマルコ自身だったという説が伝えられている。張ダビデ牧師は、まさにこの箇所から、福音書が書かれた初期教会共同体の中にあった恥ずかしい失敗例さえも隠さなかった点に着目する。ゲッセマネの事件は、単に誰か一人がうっかりした失敗をしたということではなく、人間の決心や意志がいかにあっけなく崩れてしまうかを赤裸々に示しているのだ。

さらに深刻なのはペトロの否認の場面である。「わたしはあなたのために命を捨てる」と誓ったペトロが、裁判所の庭で女中の問いかけ一つに耐えきれず、「あんな人は知らない」と否定してしまう。聖書によれば、三度目の否認の直後に鶏が鳴き、ペトロはイエスの言葉を思い出して激しく泣いたという。これは弟子共同体の中心的人物とも言えるペトロの徹底した失敗であり、「牧者を打てば羊は散る」というイエスの予告がそのまま成就したことを示している。

この点において、イエスの孤独はいっそう際立って見える。イエスから学んだことを生涯忘れないと誓ったはずの側近たちでさえ、決定的な瞬間にはイエスを置き去りにしてしまい、むしろ下女の言葉にさえ怯えてしまう姿へと転落していく。イエスは最も愛した人々からさえも外面され、誰にも頼ることができないお立場に置かれた。イエスの十字架への道がどれほど徹底して孤独な道であったかが痛感される。

このような孤独はイエスの人性(人としての性質)を示すと同時に、「罪のない方」が全人類の罪を背負っていく道がいかなるものかを劇的に浮かび上がらせる。張ダビデ牧師は、イエスのこの孤独が人類救済の歴史の中で必然的だったと説く。というのも、イエスご自身が直接負わなければならない罪の代価は、誰かが分かち合って代わりに負うことは不可能だったからである。弟子たちがどれほど目を覚まして祈ろうとも、イエスが歩まれる道を代わりに担うことはできなかった。結局イエスただおひとりが歩まなければならない道であり、ゲッセマネの園で露わになった弟子たちの無知や裏切りは、その道をさらに深く孤独なものにした。

しかし驚くべきことに、復活の後、弟子たちはまったく別人のように変えられる。ペトロは使徒言行録で福音を大胆に語るリーダーとなり、ほかの弟子たちも迫害をものともせず、イエスの教えを世界中に広める主要な証人となっていく。ゲッセマネで示された彼らの弱さは、むしろ悔い改めと自覚のきっかけとなり、その後本格的に主と共に歩む人生を歩み始めるのだ。張ダビデ牧師は、弟子たちの失敗が永遠の脱落ではなく、新たな出発点となったと語り、私たちも信仰生活の中で同じパターンを経験する可能性があると強調する。人間的な意志や力ではすぐに崩れ去ってしまうが、復活されたイエスとの再会と聖霊の働きを通して、ついには私たちもイエスの十字架と復活を証しする者として立てられるということである。

したがって、ゲッセマネの祈りの場面はイエスの孤独を示すと同時に、弟子たちの弱さをあらわにすることで「人間は自力では自分を守ることができない」という現実を強調する。心の底では主を捨てないと言い張っても、いざ現実の恐怖と試練の前に、その決心がいかにあっさり壊れてしまうかを、弟子たちは身をもって示した。しかし聖書のメッセージはそこで終わらず、イエスが復活することによって彼らの失敗と弱さをも覆い、新たに使命を担う道へと導いてくださることを明らかにする。結局この一連の過程を総合してみると、ゲッセマネでの弟子たちの姿は「私たちも神なしには一人で立つことはできない存在」であることを痛感させる。そしてイエスの孤独は、まさにその弱い人類を救うために不可欠な犠牲の道であったことを一層浮き彫りにする。

張ダビデ牧師は、これらすべてを説教する際、ゲッセマネの園の出来事が単に「主が苦しみに遭われた一場面」ではなく、信仰共同体が失敗を経験するたびに自らを振り返り、改めて主のもとに立ち帰るべきことを想起させる手本だと述べる。弟子たちの体験はあまりにも恥ずかしいものではあったが、福音書がそれを包み隠さず記録している理由は、「倒れない人間はいない」という事実と、「それでもなお回復の道が備えられている」という真理を知らせるためだと解釈する。結局、ゲッセマネの出来事であからさまになった弟子たちの弱さは、イエスの犠牲がなければ私たちも何の善も成し得ない存在であることを鮮明に示す一方で、その後に続く復活の勝利は、その弱さが乗り越えられても余りある神の力を約束している。


3. 順と同行の道

イエスがゲッセマネの園で示された中心的な教えを一言でまとめるなら、父なる神のみこころに対する「絶対的従順」であると言える。イエスはゲッセマネの祈りにおいて「この杯をわたしから取りのけてください」と嘆願されるほど、人間的な弱さを隠されなかった。同時に、「しかし、わたしの望むようにではなく、あなたのみこころのままになさってください」と祈ることで、死に直面しても神の摂理を疑わず、積極的に受け入れられた。これは強制や諦念ではなく、父を絶対に信頼する関係の中で可能となる能動的従順であった。

多くの人は「イエスだからできたのだろう」と言いやすい。しかし福音書は、イエスが私たちが感じる苦痛や恐れ以上に、内面的な葛藤を激しく経験されたことを非常に具体的に伝えている。汗が血のしずくのようになったという表現は、それほどの極度の精神的・肉体的圧迫を象徴する。それでもイエスは祈りを通して父のみこころをつかみ、その後は十字架へ向かう足取りを、誰も止めることができなかった。「起きなさい、行きましょう」と言われたとき、すでに祈りによって勝負は決していたのだ。張ダビデ牧師はこれを「ゲッセマネの祈りの後、イエスの心には一片の揺るぎもなかった」と表現する。

この従順が最終的にどのような実を結んだかを考えるなら、十字架での死は人類の救いの道となり、それが復活の栄光へとつながったことがわかる。フィリピの信徒への手紙2章は、イエスが「死に至るまで従順であられたゆえに、いと高く上げられた」と宣言する。つまり、十字架は屈辱ではなく、むしろ神の愛と力が万人に示される場であり、イエスの従順がその聖なる実を結んだ。張ダビデ牧師は「イエスが十字架を選ばれたという事実自体が、私たちに救いの門を開いたのだ」と説く。抵抗なく捕えられたイエスの行動こそ、最も能動的な愛の表現であったと気づかされる箇所でもある。

さらにイエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われ、その同じ従順の道へ私たちを招いておられる。これは「イエスと共に同行する道」がどういうものかをはっきり示す。しばしば信仰生活をする人の中には「イエスを信じれば苦難は消える」と期待する人もいるが、実際には福音はむしろ「あなたがたは世で苦難に遭うだろう」と予告する。それでもなお、イエスご自身が経験された苦難と孤独、そして従順の祈りは、私たちに「その道が決して絶望で終わらない」ことを確かに保証してくれる。ゲッセマネの園でのイエスを思い起こすとき、目の前の苦しみが今すぐ取り除かれなくても、「父のみこころが最終的に善を成し遂げる」という信仰をもって歩むことができるようになる。

このように「従順」と「同行」は切っても切れない関係にある。イエスが十字架への道を歩まれた後、復活して弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたことが、聖霊を通して信徒たちのうちに継続的に成就しているからだ。初期の弟子たちはゲッセマネで眠りこけ、恐れから逃げ去ったが、復活の主に出会った後は福音を大胆に宣べ伝え、ついには殉教の道へ進むまでになる。その変化は「一緒に行こう」と招くイエスの呼びかけに実際に応答した例である。私たちも日常の中で「私の思いどおりではなく、父のみこころどおり」を選ぶ瞬間に、キリストとの同行を体験することとなる。

張ダビデ牧師は長年の牧会の中で、ゲッセマネの祈りを噛みしめながら自らの人生に訪れた大小の試練を乗り越えた証しをたびたび語る。その内容の骨子は、苦しい問題の前で最初は「この杯がただ過ぎ去るように」と願いつつも、結局は「父のみこころが何であるか」を求め、そのみこころに従うとき、かつて想像もしなかった道が開かれ、その道が命と希望へとつながるということだ。苦しみ自体が即座に消え去らなくても、苦しみを見る視点が変わり、「神はこのプロセスを通して今何をされようとしているのか」を深く見つめるようになる。

ここでいう従順とは、決して受け身のあきらめではない。イエスが十字架刑を「受動的に」受けられたように見えるが、実はご自身を差し出す最も能動的な愛を示されたのだ。私たちがその道を辿るときも、苦難の中で恐れや絶望に流されるのではなく、むしろ霊の目を開いて「神の摂理」を見つめることが可能になる。これこそが従順と同行の道が与える自由であり、真の解放である。最終的にこの道を歩む者は、「イエスがすでに歩まれた道」であるという確信とともに、どんな試練の中でも「起きなさい、行きましょう」と呼びかける主のお声を聞くことができるようになる。

最後に、ゲッセマネの祈りの後イエスが歩まれた道は、実際に十字架刑へと繋がっていく。当時のローマ帝国で最も残酷かつ侮辱的な刑罰であり、だれもその道を「栄光」とは呼ばなかった。しかしイエスの復活によって、その屈辱と苦痛の道がこそが勝利と救いの道であることが万人に示された。信仰生活でも私たちは「復活の栄光」だけを享受したいと思いがちだが、イエスがゲッセマネの園で祈りによって準備された苦難の道を無視しては、決して完全な喜びに至ることはできない。張ダビデ牧師は「ゲッセマネなくして十字架はなく、十字架なくして復活もない」と強調する。イエスの苦しみと孤独、そして絶対的従順があったからこそ、復活の力がはじめて完全に示されたということだ。

この事実は弟子たちの失敗と回復にも当てはまる。ゲッセマネで徹底的に崩れ去った弟子たちは、復活されたイエスに出会った後、自分たちの裏切りと恥ずかしさを率直に認め、悔い改めることでまったく新しく生まれ変わった。彼らの失敗は後に教会を築くうえで貴重な資産ともなった。ペトロは自らの恥ずべき否認事件を思い返しながら、他の人々がつまずいたとき、より温かく力強く支える指導者へと変えられていった。これはゲッセマネの孤独と涙が単なる悲劇で終わるのではなく、復活の命によってむしろあふれる恵みへと転換されていく道が開かれたことを象徴している。

したがって私たちはゲッセマネの場面で、「人間はどれほどあっけなく崩れうるのか」「イエスの孤独はいかに苛烈であったか」を確認すると同時に、「それでもなお父のみこころを最後まで信じ、従うことによって勝利されたイエスの道が私たちにも開かれている」という結論に至る。福音書の記者たちはこの劇的な祈りを隠すことなく記録することで、イエスの苦悩を伝えるだけでなく、私たちも同じ道へ招かれていることを強調している。そしてイエスはその道の果てに復活の栄光を得られ、弟子たちもまた復活の信仰によって新たに生まれ変わり、教会を建て上げる器とされたのである。今日の私たちもゲッセマネの祈りを黙想するとき、人生のさまざまな試練のただ中で「アッバ、父よ。私の思いどおりではなく、父のみこころどおりになさってください」と告白できるようになる。

このように苦難と栄光が共存する道は、決して平坦とは限らない。涙の谷を通り、裏切りや外面を経験し、自分自身を見つめて恥じ入ることもある。しかしそこをすでにイエスが通っておられ、その道で「一緒に行こう」と私たちを呼んでおられることこそ最大の慰めである。これはすなわち、従順が苦痛に満ちた結末で終わる道ではなく、復活という命の約束へとつながる道であることを意味する。その瞬間に「同行」が成り立つ。イエスのゲッセマネの祈りが示す従順と同行の道とは、「涙と苦難の中でも神の愛と摂理を深く信頼する信仰」を具体的に実践する生き方にほかならない。

結局、ゲッセマネでイエスが捧げられた祈りは、私たちの信仰の歩みにおいて最も現実的な手本となる。人生を歩む中で、大なり小なり「ゲッセマネ」を迎えるときが必ずやってくる。そのたびに私たちはイエスのように「父よ、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの望むようにではなく、あなたのみこころのままに」と叫び、自分を完全にゆだねられるかどうかを試される。ゲッセマネでのイエスは死の恐怖に苛まれながらも、ついには父への従順の道を選ばれ、その道が人類救済の道となった。弟子たちは惨めに失敗したが、復活後、聖霊の力によって立ち直り、いっそう力強く福音を伝える者へと変えられた。

張ダビデ牧師はこの事実に基づき、「私たちが今どんな苦難や弱さを経験していようと、イエスのゲッセマネの祈りに倣うなら、十字架と復活の現実を体験できる」と強調する。ゲッセマネの祈りを忘れない者は、十字架の深い意味と復活の力を見失わず、たとえ涙や失敗を味わったとしても神の与える回復と使命の道へと最終的に導かれる。その道こそ「一緒に行こう」と招かれるイエスの呼びかけに応答する同行の道でもある。イエスはすでに身をもって歩まれ、その道を進む人々とともにいてくださると約束されたからだ。

まとめると、第一の小見出しではゲッセマネの祈りの背景と意味を考察し、第二の小見出しでは弟子たちの弱さとキリストの孤独を対照的に眺めた。そして第三の小見出しではイエスの従順と、その従順に同行する道がどんな霊的結実をもたらすかを論じた。十字架は残酷で恥辱的な刑具であったが、イエスの祈りから始まるこの従順の働きは、復活によって最も力強い命と救いの徴となった。弟子たちはその過程で自らの罪深さと無力さを骨身に染みるほど思い知らされたが、同時に復活の主によって回復され、教会を建てあげる恵みを受けた。この一連のドラマの序章の舞台となったのがゲッセマネの園であり、ゆえに信仰者ならば必ず黙想すべき核心の場面なのである。

今日も試練や苦しみに直面すると、私たちの弱さが容赦なく露呈することがある。だが、ゲッセマネのイエスは、その道が終わりではないことを証明してくださった。「アッバ、父よ」と叫ぶほど切実でも、父にすべてをゆだねた人は、最終的に死さえも克服する復活の喜びを得ることができる。弟子たちもまた眠りこけ、裏切ったが、それでも回復されて歴史上最も力強い福音の証人となった。だからこそ私たちも、どんな失敗や弱さのただ中にあっても、その道でイエスが「一緒に行こう」と呼びかけておられることを忘れてはならない。

結局、ゲッセマネの祈りは、十字架と復活が切り離せないことを示す決定的な出来事であり、私たちがキリストの弟子としてどのような姿勢をとるべきかを如実に教えている。すなわちイエスの歩まれた道は、苦難と孤独が入り混じる道であると同時に、神の救いの計画が成就する栄光の道でもある。ゲッセマネの祈りの中でイエスはご自身の望みよりも父のみこころを選び取ることで「従順の完成」を成し遂げられ、その従順によって人類は救いの入り口に立つことができた。弟子たちはそこで崩れ落ちたものの、復活のイエスによって再び立ち上がり、今日私たちが教会を通して福音を聞き、信仰生活を送る土台となったのである。

張ダビデ牧師はこれを指して、「ゲッセマネなくして十字架はなく、十字架なくして復活もない」と繰り返し強調する。そう考えると、私たちの人生においても「小さなゲッセマネ」に直面するときは、そのときイエスがどのような祈りを捧げられたかを思い起こし、同じ姿勢で歩むことこそが真の「キリストとの同行」である。誰も代わりに背負ってくれない十字架を自分の前に見るとき、「この杯を過ぎ去らせてください」と叫ぶ祈りをせずにはいられないが、それでも「父のみこころならどの道であっても行きます」と応答する勇気を奮い起こすとき、初めて私たちはイエスとともに歩む道の上に立つ。そしてその道の終着点には死ではなく復活の栄光が待っている。これこそゲッセマネの祈りが伝える、そして張ダビデ牧師が繰り返し強調する福音の核心であり、信仰の実体なのである。

すでに身を洗った者 – 張ダビデ牧師

1. イエス様の最後までの愛と「すでに身を洗った者」の意味

張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章2~11節に記されたイエス様の足を洗う場面を深く黙想し、この場面がクリスチャンの生活や教会共同体にもたらすメッセージを非常に重要なものとして扱っています。この本文では、最後の晩餐の席でサタンがすでにイスカリオテのユダの心に裏切りの思いを入れていた点から、極度の緊張感と悲劇が予告されます。しかし、それにもかかわらず、主はご自身の死が近いことをご存じでありながらも最後まで愛し、敵ですら悔い改めることを望むほどの愛を示されました。特に「すでに身を洗った者は足だけ洗えばよい。全身は清いのだから」(ヨハネ13:10)というイエス様の言葉は、再生(重生)した者と日々の悔い改めが必要な者の間にある緊張関係をよく示しています。

張ダビデ牧師はまず、「すでに身を洗った者」という表現が、信仰の根本をなす再生(重生)体験を意味すると強調します。これはイエス・キリストを信じることによって罪から解放され、新しい命へと移される根本的な変化です。たとえるならば、祝宴に招かれて入るためには、あらかじめ体を洗っておくことが礼儀であり、その宴に参加する資格があるということです。しかし、道を歩むうちに足はどうしてもほこりや泥で汚れてしまうため、宴に本格的に加わる前には足を改めて洗わなければなりません。これは、信仰をもった者も日々の生活の中で「罪を犯しやすい足」を持っているがゆえに、絶えず悔い改めと清めを必要としていることを象徴しています。

張ダビデ牧師は、再生(重生)体験こそが信仰生活の出発点であり必須要素であることを重ねて強調します。もしまだ「身を洗う」(再生)体験をしていない人がいるなら、その人はたとえ教会の礼拝や奉仕に参加していても、真の意味では主と関係を結んでいないことになると語ります。これは、イスカリオテのユダが主のそばにいながらも、ついにキリストの愛を悟ることなく裏切りの道へと進んでしまったのと同じだというのです。しかし、それだからといって、一度再生した人がまったく罪を犯さない完全無欠な存在となるわけではありません。「すでに身を洗った者」であっても、日々の生活の中で足が汚れてしまうことがあるので、絶えず自分の足を洗う過程が必要です。この「足を洗う」過程は「自発的に犯した罪(自犯罪)」に対処することであり、救いを得た後にも残る罪の性質(罪性)と毎日戦わなければならない霊的戦闘を意味します。

ヨハネ13章に描かれたイエス様の行為は、当時の師弟関係の伝統的な上下関係を覆すものでした。師や身分が高い者が、弟子や召使いに足を洗わせるのが一般的でしたが、イエス様は逆に弟子たちの足を自ら洗われたのです。張ダビデ牧師は、これを「愛のしもべ」となられたイエス様の極端なへりくだりだと説明します。イエス様は、真の権威と栄光は仕えることから来るという神の国の逆説を自らの姿で教えられました。

この行動を見たシモン・ペテロは反発します。「主よ、主が私の足を洗われるのですか?」という驚きは、なぜイエス様がそのような謙遜な行為をされるのか理解できなかったからです。しかしイエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる」(ヨハネ13:8)と断固たる口調でおっしゃいます。ここで張ダビデ牧師は、私たちがいかに自分には資格がないと思い、自分を卑しい存在だと見なそうとも、主の恵みと愛による洗いを受けなければ、決して主と結びつくことはできないのだと力説します。罪人である私たち自身が、主の恵みを拒むことこそ最大の高慢だというのです。

ペテロがこれに驚き、「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言うと、イエス様は「すでに身を洗った者は足だけ洗えばよい」とお答えになります。これは、信仰によって新しく生まれ変わった者に必要なのは「日々の罪の清め」であって、再びその存在自体を否定したり、新たに再生の儀式を繰り返すことではないという点を示唆します。張ダビデ牧師は洗礼の意味もこれと関連づけて解説します。水による洗礼は、すでに内面で起こった聖霊の洗礼を公に表す外的な標識にすぎないのであって、その儀式自体が再生を保証するわけではありません。本当には聖霊の働きを通じて個人が罪から立ち返り、キリストのうちに新しい命を得る根本的な体験が必要なのだと、張ダビデ牧師は強調します。

しかし、ここで終わりではありません。一度「身を洗った」人であっても、足は洗わなければなりません。張ダビデ牧師は、人間の肉体と本性が依然として罪にさらされていることを指摘します。たとえイエス様を信じて再生したクリスチャンであっても、世の中で生きるうちに貪欲、憎しみ、ねたみ、淫乱、高慢などあらゆる罪の要素に触れ、ときにそれに屈してしまう危険があるのです。だからこそ、絶えず足を洗う、つまり日々悔い改めて立ち返る過程が必要になります。そうしなければ、主と関わりのない者へと堕ちる恐れがあると張ダビデ牧師は警告します。

張ダビデ牧師は、これこそがクリスチャンの実存的な立場への貴重な洞察だと言います。私たちはすでにイエス様のうちに完全な救いを得ており、その恵みによって神の子どもとされました。しかし同時に、この地上で生きている間は、しばしば聖霊に従わず、肉の欲望に足を引っ張られてしまいます。使徒パウロの言葉を借りるならば「彼らの足は血を流すほうに速い」(ローマ3:15)のです。私たちの「足」は、あまりにも簡単に罪へと走り出す傾向があります。そのとき私たちがすべきことは、ただちにイエス様のもとへ行き、「主よ、私の足を洗ってください」と告白し、聖なる生き方を追い求めることです。

ヨハネ13章に登場する「すでに身を洗った者」は、こうした2つの大きな意味を持っています。1つは、すでに救われた存在として神の祝宴に参加できる身分が与えられているということであり、もう1つは、足を洗うことで主との関係を常に新しく保つ必要があるという点です。張ダビデ牧師は、これを「恵みに対する無謀さ」と「恵みの中での目覚め」という2つのキーワードで解き明かします。一方では、まったく資格のない罪人を最後まで愛し、包み、受け入れてくださるイエス様の恵みがいかに大きいかを深く黙想しなければなりません。他方では、その恵みをないがしろにしたり軽んじたりしないよう、自らを常に点検し、目を覚ましていなければなりません。キリストの教会と信徒たちは、この緊張関係を失わないように強く求められるのです。

この「すでに身を洗った者」という身分を大切にし、足を洗う日々の悔い改めによって絶えず主のもとへ進むことは、単なる個人的な敬虔生活にとどまりません。まさに教会共同体の本質ともつながっています。教会の中で互いの足を洗い合う奉仕は、イエス様ご自身が示されたへりくだりと愛の実践をそのまま踏襲するものです。互いの罪や過ちを見出したとき、ただ裁いたり距離を置いたりするのではなく、むしろ足を洗う心でケアし、祈り、勧め合う文化が求められます。そうした文化がなければ、教会はすぐに人間的な争いや対立に埋もれてしまうでしょう。最後の晩餐の席でも、弟子たちは誰が一番偉いかで争っていたことを(ルカ22章)見てもわかるように、仕えるよりも支配や上下関係を先に立てようとする人間の本能がいかに強いかが暴露されています。

結局のところ、張ダビデ牧師は「すでに身を洗った者は足だけ洗えばよい」というイエス様の言葉を、教会の内外すべての生活においてイエス様の仕えと愛に倣って生きるよう招いていると解釈します。私たちはすでに再生によって祝宴に招かれましたが、日々足を洗わなければ清さを保つことができません。だからこそ、イエス様が自ら進んで足を洗ってくださるその愛を深く悟り、その恵みにすがらなければなりません。この過程を通して、私たちは真のキリストの弟子として成長していきます。

このように、小主題1で扱った「すでに身を洗った者」の意味は、根本的な再生(重生)と日々の悔い改めが緊張関係の中でバランスを保たなければならないことを明らかにしています。張ダビデ牧師は、この真理を通してすべてのクリスチャンが個人的な救いの確信にとどまらず、絶えず自らの足を洗うべきであると強調し、罪と妥協しない聖さと潔さの生活へと進むよう呼びかけます。そして、このすべての「足の洗い」の過程は、自分で洗うのではなく、イエス様の愛と仕えによって行われ、私たちがその恵みに応答し、また互いにも分かち合うときに、教会共同体が新たにされるのだと語るのです。

2. イスカリオテのユダと弟子たちの無関心、そして最後まで愛される主

張ダビデ牧師は、ヨハネ13章2節、すなわち「夕食の間、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを売ろうという思いを入れていた」という部分を、きわめて深刻で悲劇的な場面として解釈します。最後の晩餐の席に敵がともに座っていたという事実自体が、人間の罪性と神の恵みがどれほど劇的に衝突するかを示しているというのです。ユダはイエス様からあれほど愛されたにもかかわらず、ついにその心を翻さず、裏切りの道に入ってしまいました。

まず、張ダビデ牧師はサタンが「主と弟子を引き離すこと」を最大の目標としていると語ります。弟子のうちのひとりを選んで主に対し反逆や裏切りを起こさせることは、サタンにとって最高の成功だからです。これは、教会内部で起こる裏切りや分裂、不信や憎しみがいかに危険であるかを警告します。ユダとイエス様は確かに同じ食卓でパンを割き、イエス様はそれほどまでに彼を最後までつなぎとめようとされました。ところがユダはその愛の招きを自ら振り払ってしまうのです。イエス様が足を洗ってくださり、最後まで愛とチャンスを与えても、「サタンが入れた思い」という偽りの種が、すでにユダの心を支配していました。

ここで張ダビデ牧師は、もう一つ重要な点を指摘します。それは、イスカリオテのユダがイエスを売る考えを抱き始めたとき、ほかの弟子たちはその深刻さにまったく気づかなかったという事実です。ヨハネ13章27節以降を見ると、イエス様がユダに「しようとしていることをすぐにしなさい」と言っても、弟子たちはユダが施しのための買い物に行くのだろう程度にしか考えていませんでした。誰も彼が裏切ろうとして出て行くことを知りませんでした。彼らの無関心と鈍感、そして他人の霊的状態を深く気遣わない態度こそが、結果的に共同体内部で大きな裏切りが起こりうる土壌を提供したのです。

張ダビデ牧師は、これは現代の教会の姿にも当てはめて振り返る必要があると語ります。教会や信仰共同体でも、表向きはともに礼拝や食卓を囲んでいても、誰かが心の奥で裏切りの種を育てているかもしれません。もし私たちが愛に鈍感で、お互いの魂に無関心であるならば、いつかサタンはその隙を狙って共同体を崩壊させようとするでしょう。だからこそ教会共同体は互いのために祈り、霊的に警戒し合いながら、同時にお互いの傷や痛みを見つめていく必要があるのです。

それにもかかわらずさらに驚くべきことは、イエス様はユダの裏切りをすでにご存じであったのに、彼を最後まで引き留めようとなさったという点です。張ダビデ牧師は、この場面を「主が裏切り者に注がれる最後の愛の手」と呼びます。ユダは晩餐を共にし、しかも足まで洗われた状態で出て行ってしまいましたが、これは人間の観点からすれば到底理解できないほど大きな裏切りです。「ユダが出て行った。それは夜であった」(ヨハネ13:30)という聖書の言葉は、この悲劇の頂点を示します。闇の中へと消えていったユダの姿は、結局彼自身の意思でその取り返しのつかない道を選んだことを表しているのです。

張ダビデ牧師は、この箇所から「神に放置される」ということ、つまり神が私たちを「そのままにしておかれる」ことの恐ろしさについて語ります。ローマ1章24節と26節で「それゆえ神は彼らを放っておかれた」という表現が出てきますが、これは神の愛と招きを持続的に拒み続ける者が、ついに自分で戻れなくなる深淵へと落ちていくことを指しています。ユダは貪欲と裏切りの思いを自ら取り下げることなく、主の重ねての愛の勧めを退けてしまいました。結果として彼は「放置される者」となったのです。しかし、この放置は神が冷酷で無情だからということではなく、人がまず神の御手を拒み、背を向け、サタンの思いを受け入れたからにほかなりません。

張ダビデ牧師は、ユダの例を通して私たちもいつでも罪と誘惑に陥り、取り返しのつかない道を行く可能性があることを思い起こさせます。教会共同体の中にもユダのような裏切り者が現れるかもしれないし、もしかすると私自身がそのユダになるかもしれないのです。大切なのは、主の愛がすでに注がれているのに、それを拒んだり悪用したりしてしまい、ついには信仰の暗闇に堕ちてしまわないよう、常に目を覚ましていることです。

また、ほかの弟子たちの鈍感さについても、張ダビデ牧師は鋭く指摘します。最後の晩餐の直前、弟子たちは誰が偉いのかをめぐって争っていました(ルカ22:24)。こうした心の状態では、決して他者の内面的葛藤や罪の渦を察知できません。むしろ自分自身の欲や席争いに没頭しているため、すぐ近くの兄弟が裏切り者へと堕ちていく過程を愛ある眼差しで見守ることができないのです。

張ダビデ牧師は、これを教会共同体が深く受け止めるべき教訓だと語ります。私たちは互いに「相手の足を洗う人」になっているでしょうか。それとも、「誰が偉いか」を争い合い、お互いに無関心でいるのでしょうか。教会の中に対立や分裂が生じるとき、あるいは誰かが霊的に大きく揺れ動いているとき、私たちはイエス様がなさったように真心から最後までつなぎとめる愛を示しているでしょうか。それとも「まさか自分じゃあるまいし」と考え、何の関心も払わず隣人の破滅を放置しているでしょうか。

さらに張ダビデ牧師は、ユダがついに席を蹴って「夜」の中へと出て行った(ヨハネ13:30)という描写を非常に象徴的に捉えます。ここで「夜」とは単に日没後の時間だけでなく、霊的な暗闇、罪と絶望の場を意味します。ユダが主の晩餐を離れてその闇へと入っていったように、誰でもイエス・キリストの愛から離れてしまえば、もはや光のうちにとどまれず暗闇に捕らえられてしまうのです。

結局、このすべての場面は、裏切り者ユダと無関心な弟子たち、そして最後まで愛を注がれるイエス様という対照的な姿を映し出しています。張ダビデ牧師は、この対比の中で神の愛がいかに大いなるものであり、人間の罪性がいかに頑固であるかをあわせ見なければならないと語ります。主は敵に対してさえも愛を示し、足を洗い、最後の勧めの手を伸ばされましたが、ユダはその愛を退けました。しかし他の弟子たちも、その裏切りの過程を阻止するほどに成熟した愛と関心を示したわけではなかったのです。

私たちが教会の中でしばしば出会う対立や裏切りは、この場面が繰り返される小さな縮図と言えるでしょう。いっけん同じように賛美し、奉仕し、食卓を囲んでいても、内面では互いをねたみ、憎み、競い合い、ときには裏切りと分裂の種を心に秘めていることもあるのです。では、イエス様はそのすべての状況の中でいったい何をなさるのでしょうか。張ダビデ牧師によれば、主は今もその場所にとどまり、最後まで愛の手を差し伸べてくださると言います。しかし最終的な選択は私たち自身に委ねられています。ユダのようにその手を振りほどくこともできるし、主の恵みによって涙ながらに立ち返り回復されることもできるのです。

このように、小主題2ではイスカリオテのユダと弟子たちの姿を通し、教会共同体と個々の信仰者が警戒しなければならない罪と裏切りの可能性を示しています。そして同時に、イエス様が示された最後までの愛がいかに偉大で不思議なものであるかを私たちに教えています。張ダビデ牧師は、この本文が単なる「ユダは悪い弟子だった」という話で終わるのではなく、「私たちもいくらでもユダになりうる。しかし主は今も私たちをつかんでくださる」という警告であり、慰めでもあると解釈しているのです。

3. 足を洗われるイエス様と「互いの足を洗い合いなさい」という命令

張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章4~5節でイエス様が実際に上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとい、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、その手ぬぐいで拭かれた場面を、神の国における真の権威が何かを示す劇的な出来事として理解しています。当時、足を洗う行為は普通、下僕やしもべの役割でした。あるいはラビと弟子の関係でも弟子がラビの足を洗うことはあっても、ラビが弟子の足を洗うことは想像さえできませんでした。

それにもかかわらず、イエス様は腰に手ぬぐいを巻いて、一人ひとりの足を洗われます。張ダビデ牧師は、これを「万王の王がしもべの中のしもべとなられた」という表現で、これは単なる見せかけのパフォーマンスではなく、真の“へりくだり”の本質を伴う行為なのだと解説します。イエス様は弟子たちに「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いの足を洗うべきである」(ヨハネ13:14)と命じられます。これは教会共同体が持つべき根本的な態度、すなわち互いへの仕えと愛の手本となるのです。

問題は、弟子たちがその状況下でも誰が一番偉いかを争っていたということです(ルカ22:24)。張ダビデ牧師は、この弟子たちの姿こそ人間の普遍的な罪の性質を表していると見ています。私たちがしばしば信仰共同体の中でも際限なく比較し合い、競争し合い、誰がより評価されるか、誰がより影響力を持つかを計算する姿と何ら変わりはないというのです。ところがイエス様は、その争いや競い合いの真っ只中にあって、自らしもべの姿を取ることによって、真の仕えとは何か、愛のもたらす真の権威とは何かを示されました。

張ダビデ牧師は、これを「愛のしもべとなる自由」と呼びます。すなわちイエス様は万物の上におられ、あらゆる権威を持たれる方ですが、その権威の行使の仕方は支配や君臨ではなく、「愛によって仕えるしもべ」としての姿でした。「愛のしもべ」となるとき、そこにこそ真の自由が訪れるのです。自分を捨ててへりくだる生き方によって、むしろどのような抑圧も恐れもない自由を手に入れることができます。これは、ピリピ2章6~8節でパウロが語る、イエス様が「ご自分を無にしてしもべの形を取り、自ら低くされた」という出来事と完全につながっています。

では、今日を生きるクリスチャンたちはどうすればイエス様のこの行為を実践できるのでしょうか。張ダビデ牧師は主に2つの次元で説明しています。

1つ目は個人の次元です。自分の十字架を負って自己を捨て、へりくだりを学ぶ必要があります。私たちの足はいつでも罪によって汚れる可能性があります。また、他者の足を洗うような生き方を選ぶには、どうしても自分の欲望や高慢を下ろさなければなりません。十字架こそが、この「自己否定」の場です。もし十字架が教会や家庭、あるいは自分の心の中に打ち立てられていなければ、私たちは他者に仕えるどころか、支配や利益追求の態度へと立ち返ってしまいやすいのです。張ダビデ牧師は「十字架がなければ教会は高慢な人間の集まりになってしまう」と断言します。

2つ目は共同体の次元です。互いの足を洗い合う文化が必要だということです。これは、文字通り相手の身体的な必要に目を向けてケアする物理的な次元もあれば、もっと広い霊的な次元として、兄弟姉妹の罪や過ちを赦し、回復へと導き、ともに悔い改められるように祈るということでもあります。教会が真に「足を洗う」ことの意味を実践するならば、そこには断罪や恥辱ではなく、回復と和解と愛があふれるはずです。張ダビデ牧師は、すべての信徒が「他人の足を洗うためのたらいと手ぬぐいを心に携えて生きなければならない」と比喩的に語っています。

これとあわせて重視されるのが、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関係がないことになる」というイエス様の言葉の深刻さです。これは、私たちが自分の力で自分の足を洗うのではなく、本質的にはイエス様の御手が必要だということを示しています。再生によってすでに身を洗った者でも、人生を歩むうちに再び足が汚れてしまうときには、イエス様のもとへ行って洗っていただかなければなりません。同時に互いの足を洗うことは、私がすべての人の代わりにイエス様になるというのではなく、イエス様の愛を伝える通路となるという意味です。

張ダビデ牧師は、教会の中で争いや対立が起こるたびに、ヨハネ13章に描かれた「足を洗う」出来事を思い起こすべきだと勧めます。なぜなら、争いの大半は「誰が偉いか」「誰が正しいか」「誰がどれだけ貢献したか」という比較意識や自己主張のぶつかり合いで起こるからです。ところがイエス様は、その瞬間に弟子たちの足を洗うことで、まったく逆の道を提示されました。師であり主であられるイエス様がみずからへりくだってしもべとなられたように、私たちもその道を歩まなければならないのです。

この世はいまだに「王となって支配しよう」とする思いにあふれています。成功や支配、影響力を追い求める文化のただ中で、互いの足を洗い合う生き方は逆説的で効率が悪いように見えるかもしれません。ところが張ダビデ牧師は、この逆説の中にこそ真の命と自由、そして神の国が展開すると語ります。私たちが他者の足を洗うとき、その行為はイエス様の愛を再び生かす力となるのです。

特に、張ダビデ牧師はこの足を洗うメッセージが四旬節と復活祭の時期にいっそう深い意味を帯びると説明します。四旬節はイエス様の受難と十字架を黙想する期間であり、イエス様のへりくだりと犠牲、従順の道を共に歩む霊的訓練のときです。この期間に「互いの足を洗い合いなさい」というイエス様の命令を改めて思い起こすとき、私たちの信仰は単に礼拝堂に集まって式を行うだけでなく、実際の生活において悔い改めと仕え、分かち合いへとつながっていくでしょう。

さらに復活祭は、十字架の死を乗り越えたイエス様の勝利を記念する日です。イエス様の自己卑下と犠牲は決して失敗や敗北では終わらず、復活によって栄光の勝利となって現れました。張ダビデ牧師は、私たちが互いの足を洗い合うという小さな仕えの実践も、最終的には復活の栄光へと続く道だと説きます。世が見るときには愚かしく見えるかもしれませんが、その道にこそ真の自由と喜びが湧き上がってくるのです。

総括すると、ヨハネ13章2~11節に描かれたイエス様の足を洗う出来事は、張ダビデ牧師によれば教会の本質であり、クリスチャンのアイデンティティを象徴する重要な場面です。第一に、「すでに身を洗った者」は再生(重生)した存在でありながら、日々自分の足を洗う悔い改めの必要を忘れてはならないこと。第二に、イスカリオテのユダの裏切りと弟子たちの鈍感さは、教会の内にもいまだ潜む恐ろしい罪や不信、無関心を思い出させること。そして第三に、イエス様ご自身が足を洗われた行為は、愛こそがしもべとなって仕えることであり、その道こそが真の共同体と救いの喜びを完成させる方法だということを示しているのです。

張ダビデ牧師は最後に、今の私たちが「敵」のように感じる人、あるいは共同体の中でいちばん仕えづらいと感じる人の足を洗うことができるかを自問してみるよう提案します。イエス様でさえイスカリオテのユダの足を洗われたのですから、私たちはいったい誰の足を洗いながら生きているのか。私たちの信仰告白は、口先だけで「愛」を唱えているのか、それとも実際にへりくだって兄弟姉妹に仕える生き方へと結びついているのか。その問いに正直に向き合うことこそが、教会を教会たらしめ、クリスチャンをクリスチャンたらしめるのだと語ります。

結局、「足を洗いなさい」というイエス様の命令は、私たちにとって非常に高い基準であると同時に、非常に驚くべき恵みでもあります。主は私たちが互いの足を洗う力のないことをご存じであるがゆえ、まず先に私たちを洗ってくださいました。そして日々汚れていく私たちの足をいとわず洗ってくださり、新たにしてくださいます。その愛をいただいた私たちは、今度は他者の足を洗うことでキリストのかぐわしさを伝えられるようになるのです。ここにこそ教会の具体的な使命と存在目的があると言えます。

このように、小主題3では「愛の実践」としての「足を洗う」ことに秘められた霊的・実践的な意味を考察しました。張ダビデ牧師は「互いの足を洗い合いなさい」というイエス様の教えこそが、教会共同体において兄弟愛を回復し、さらに世に向かってキリストの真実の愛を証しする道であると強調します。そしてその道は、四旬節を経て復活の朝へと至る巡礼者の道でもあります。イエス様が示されたへりくだりと犠牲の模範に本当に倣っていくならば、たとえ足を洗う行為は小さく目立たないことに見えても、それこそが大いなる神の国を現実へと築いていく奇跡なのだと忘れないようにとメッセージを送っているのです。

張ダビデ牧師の一連の解説を総合すると、ヨハネ13章に込められた足を洗う本質は、救われた者たちの絶えざる悔い改め、教会内に潜む裏切りの可能性への警戒、そしてしもべとなられたイエス様に倣う互いへの仕えに集約されます。イエス様が示されたこの道こそ、恵みと真理、愛の完成であり、私たちは日々これを黙想しつつ実践していくべきです。そうすることで「すでに身を洗った者」として与えられた救いの豊かさを、ますます深く味わい、同時に互いに仕え合う教会共同体へと成長していけるのです。