
1. イエス様の最後までの愛と「すでに身を洗った者」の意味
張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章2~11節に記されたイエス様の足を洗う場面を深く黙想し、この場面がクリスチャンの生活や教会共同体にもたらすメッセージを非常に重要なものとして扱っています。この本文では、最後の晩餐の席でサタンがすでにイスカリオテのユダの心に裏切りの思いを入れていた点から、極度の緊張感と悲劇が予告されます。しかし、それにもかかわらず、主はご自身の死が近いことをご存じでありながらも最後まで愛し、敵ですら悔い改めることを望むほどの愛を示されました。特に「すでに身を洗った者は足だけ洗えばよい。全身は清いのだから」(ヨハネ13:10)というイエス様の言葉は、再生(重生)した者と日々の悔い改めが必要な者の間にある緊張関係をよく示しています。
張ダビデ牧師はまず、「すでに身を洗った者」という表現が、信仰の根本をなす再生(重生)体験を意味すると強調します。これはイエス・キリストを信じることによって罪から解放され、新しい命へと移される根本的な変化です。たとえるならば、祝宴に招かれて入るためには、あらかじめ体を洗っておくことが礼儀であり、その宴に参加する資格があるということです。しかし、道を歩むうちに足はどうしてもほこりや泥で汚れてしまうため、宴に本格的に加わる前には足を改めて洗わなければなりません。これは、信仰をもった者も日々の生活の中で「罪を犯しやすい足」を持っているがゆえに、絶えず悔い改めと清めを必要としていることを象徴しています。
張ダビデ牧師は、再生(重生)体験こそが信仰生活の出発点であり必須要素であることを重ねて強調します。もしまだ「身を洗う」(再生)体験をしていない人がいるなら、その人はたとえ教会の礼拝や奉仕に参加していても、真の意味では主と関係を結んでいないことになると語ります。これは、イスカリオテのユダが主のそばにいながらも、ついにキリストの愛を悟ることなく裏切りの道へと進んでしまったのと同じだというのです。しかし、それだからといって、一度再生した人がまったく罪を犯さない完全無欠な存在となるわけではありません。「すでに身を洗った者」であっても、日々の生活の中で足が汚れてしまうことがあるので、絶えず自分の足を洗う過程が必要です。この「足を洗う」過程は「自発的に犯した罪(自犯罪)」に対処することであり、救いを得た後にも残る罪の性質(罪性)と毎日戦わなければならない霊的戦闘を意味します。
ヨハネ13章に描かれたイエス様の行為は、当時の師弟関係の伝統的な上下関係を覆すものでした。師や身分が高い者が、弟子や召使いに足を洗わせるのが一般的でしたが、イエス様は逆に弟子たちの足を自ら洗われたのです。張ダビデ牧師は、これを「愛のしもべ」となられたイエス様の極端なへりくだりだと説明します。イエス様は、真の権威と栄光は仕えることから来るという神の国の逆説を自らの姿で教えられました。
この行動を見たシモン・ペテロは反発します。「主よ、主が私の足を洗われるのですか?」という驚きは、なぜイエス様がそのような謙遜な行為をされるのか理解できなかったからです。しかしイエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる」(ヨハネ13:8)と断固たる口調でおっしゃいます。ここで張ダビデ牧師は、私たちがいかに自分には資格がないと思い、自分を卑しい存在だと見なそうとも、主の恵みと愛による洗いを受けなければ、決して主と結びつくことはできないのだと力説します。罪人である私たち自身が、主の恵みを拒むことこそ最大の高慢だというのです。
ペテロがこれに驚き、「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言うと、イエス様は「すでに身を洗った者は足だけ洗えばよい」とお答えになります。これは、信仰によって新しく生まれ変わった者に必要なのは「日々の罪の清め」であって、再びその存在自体を否定したり、新たに再生の儀式を繰り返すことではないという点を示唆します。張ダビデ牧師は洗礼の意味もこれと関連づけて解説します。水による洗礼は、すでに内面で起こった聖霊の洗礼を公に表す外的な標識にすぎないのであって、その儀式自体が再生を保証するわけではありません。本当には聖霊の働きを通じて個人が罪から立ち返り、キリストのうちに新しい命を得る根本的な体験が必要なのだと、張ダビデ牧師は強調します。
しかし、ここで終わりではありません。一度「身を洗った」人であっても、足は洗わなければなりません。張ダビデ牧師は、人間の肉体と本性が依然として罪にさらされていることを指摘します。たとえイエス様を信じて再生したクリスチャンであっても、世の中で生きるうちに貪欲、憎しみ、ねたみ、淫乱、高慢などあらゆる罪の要素に触れ、ときにそれに屈してしまう危険があるのです。だからこそ、絶えず足を洗う、つまり日々悔い改めて立ち返る過程が必要になります。そうしなければ、主と関わりのない者へと堕ちる恐れがあると張ダビデ牧師は警告します。
張ダビデ牧師は、これこそがクリスチャンの実存的な立場への貴重な洞察だと言います。私たちはすでにイエス様のうちに完全な救いを得ており、その恵みによって神の子どもとされました。しかし同時に、この地上で生きている間は、しばしば聖霊に従わず、肉の欲望に足を引っ張られてしまいます。使徒パウロの言葉を借りるならば「彼らの足は血を流すほうに速い」(ローマ3:15)のです。私たちの「足」は、あまりにも簡単に罪へと走り出す傾向があります。そのとき私たちがすべきことは、ただちにイエス様のもとへ行き、「主よ、私の足を洗ってください」と告白し、聖なる生き方を追い求めることです。
ヨハネ13章に登場する「すでに身を洗った者」は、こうした2つの大きな意味を持っています。1つは、すでに救われた存在として神の祝宴に参加できる身分が与えられているということであり、もう1つは、足を洗うことで主との関係を常に新しく保つ必要があるという点です。張ダビデ牧師は、これを「恵みに対する無謀さ」と「恵みの中での目覚め」という2つのキーワードで解き明かします。一方では、まったく資格のない罪人を最後まで愛し、包み、受け入れてくださるイエス様の恵みがいかに大きいかを深く黙想しなければなりません。他方では、その恵みをないがしろにしたり軽んじたりしないよう、自らを常に点検し、目を覚ましていなければなりません。キリストの教会と信徒たちは、この緊張関係を失わないように強く求められるのです。
この「すでに身を洗った者」という身分を大切にし、足を洗う日々の悔い改めによって絶えず主のもとへ進むことは、単なる個人的な敬虔生活にとどまりません。まさに教会共同体の本質ともつながっています。教会の中で互いの足を洗い合う奉仕は、イエス様ご自身が示されたへりくだりと愛の実践をそのまま踏襲するものです。互いの罪や過ちを見出したとき、ただ裁いたり距離を置いたりするのではなく、むしろ足を洗う心でケアし、祈り、勧め合う文化が求められます。そうした文化がなければ、教会はすぐに人間的な争いや対立に埋もれてしまうでしょう。最後の晩餐の席でも、弟子たちは誰が一番偉いかで争っていたことを(ルカ22章)見てもわかるように、仕えるよりも支配や上下関係を先に立てようとする人間の本能がいかに強いかが暴露されています。
結局のところ、張ダビデ牧師は「すでに身を洗った者は足だけ洗えばよい」というイエス様の言葉を、教会の内外すべての生活においてイエス様の仕えと愛に倣って生きるよう招いていると解釈します。私たちはすでに再生によって祝宴に招かれましたが、日々足を洗わなければ清さを保つことができません。だからこそ、イエス様が自ら進んで足を洗ってくださるその愛を深く悟り、その恵みにすがらなければなりません。この過程を通して、私たちは真のキリストの弟子として成長していきます。
このように、小主題1で扱った「すでに身を洗った者」の意味は、根本的な再生(重生)と日々の悔い改めが緊張関係の中でバランスを保たなければならないことを明らかにしています。張ダビデ牧師は、この真理を通してすべてのクリスチャンが個人的な救いの確信にとどまらず、絶えず自らの足を洗うべきであると強調し、罪と妥協しない聖さと潔さの生活へと進むよう呼びかけます。そして、このすべての「足の洗い」の過程は、自分で洗うのではなく、イエス様の愛と仕えによって行われ、私たちがその恵みに応答し、また互いにも分かち合うときに、教会共同体が新たにされるのだと語るのです。
2. イスカリオテのユダと弟子たちの無関心、そして最後まで愛される主
張ダビデ牧師は、ヨハネ13章2節、すなわち「夕食の間、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを売ろうという思いを入れていた」という部分を、きわめて深刻で悲劇的な場面として解釈します。最後の晩餐の席に敵がともに座っていたという事実自体が、人間の罪性と神の恵みがどれほど劇的に衝突するかを示しているというのです。ユダはイエス様からあれほど愛されたにもかかわらず、ついにその心を翻さず、裏切りの道に入ってしまいました。
まず、張ダビデ牧師はサタンが「主と弟子を引き離すこと」を最大の目標としていると語ります。弟子のうちのひとりを選んで主に対し反逆や裏切りを起こさせることは、サタンにとって最高の成功だからです。これは、教会内部で起こる裏切りや分裂、不信や憎しみがいかに危険であるかを警告します。ユダとイエス様は確かに同じ食卓でパンを割き、イエス様はそれほどまでに彼を最後までつなぎとめようとされました。ところがユダはその愛の招きを自ら振り払ってしまうのです。イエス様が足を洗ってくださり、最後まで愛とチャンスを与えても、「サタンが入れた思い」という偽りの種が、すでにユダの心を支配していました。
ここで張ダビデ牧師は、もう一つ重要な点を指摘します。それは、イスカリオテのユダがイエスを売る考えを抱き始めたとき、ほかの弟子たちはその深刻さにまったく気づかなかったという事実です。ヨハネ13章27節以降を見ると、イエス様がユダに「しようとしていることをすぐにしなさい」と言っても、弟子たちはユダが施しのための買い物に行くのだろう程度にしか考えていませんでした。誰も彼が裏切ろうとして出て行くことを知りませんでした。彼らの無関心と鈍感、そして他人の霊的状態を深く気遣わない態度こそが、結果的に共同体内部で大きな裏切りが起こりうる土壌を提供したのです。
張ダビデ牧師は、これは現代の教会の姿にも当てはめて振り返る必要があると語ります。教会や信仰共同体でも、表向きはともに礼拝や食卓を囲んでいても、誰かが心の奥で裏切りの種を育てているかもしれません。もし私たちが愛に鈍感で、お互いの魂に無関心であるならば、いつかサタンはその隙を狙って共同体を崩壊させようとするでしょう。だからこそ教会共同体は互いのために祈り、霊的に警戒し合いながら、同時にお互いの傷や痛みを見つめていく必要があるのです。
それにもかかわらずさらに驚くべきことは、イエス様はユダの裏切りをすでにご存じであったのに、彼を最後まで引き留めようとなさったという点です。張ダビデ牧師は、この場面を「主が裏切り者に注がれる最後の愛の手」と呼びます。ユダは晩餐を共にし、しかも足まで洗われた状態で出て行ってしまいましたが、これは人間の観点からすれば到底理解できないほど大きな裏切りです。「ユダが出て行った。それは夜であった」(ヨハネ13:30)という聖書の言葉は、この悲劇の頂点を示します。闇の中へと消えていったユダの姿は、結局彼自身の意思でその取り返しのつかない道を選んだことを表しているのです。
張ダビデ牧師は、この箇所から「神に放置される」ということ、つまり神が私たちを「そのままにしておかれる」ことの恐ろしさについて語ります。ローマ1章24節と26節で「それゆえ神は彼らを放っておかれた」という表現が出てきますが、これは神の愛と招きを持続的に拒み続ける者が、ついに自分で戻れなくなる深淵へと落ちていくことを指しています。ユダは貪欲と裏切りの思いを自ら取り下げることなく、主の重ねての愛の勧めを退けてしまいました。結果として彼は「放置される者」となったのです。しかし、この放置は神が冷酷で無情だからということではなく、人がまず神の御手を拒み、背を向け、サタンの思いを受け入れたからにほかなりません。
張ダビデ牧師は、ユダの例を通して私たちもいつでも罪と誘惑に陥り、取り返しのつかない道を行く可能性があることを思い起こさせます。教会共同体の中にもユダのような裏切り者が現れるかもしれないし、もしかすると私自身がそのユダになるかもしれないのです。大切なのは、主の愛がすでに注がれているのに、それを拒んだり悪用したりしてしまい、ついには信仰の暗闇に堕ちてしまわないよう、常に目を覚ましていることです。
また、ほかの弟子たちの鈍感さについても、張ダビデ牧師は鋭く指摘します。最後の晩餐の直前、弟子たちは誰が偉いのかをめぐって争っていました(ルカ22:24)。こうした心の状態では、決して他者の内面的葛藤や罪の渦を察知できません。むしろ自分自身の欲や席争いに没頭しているため、すぐ近くの兄弟が裏切り者へと堕ちていく過程を愛ある眼差しで見守ることができないのです。
張ダビデ牧師は、これを教会共同体が深く受け止めるべき教訓だと語ります。私たちは互いに「相手の足を洗う人」になっているでしょうか。それとも、「誰が偉いか」を争い合い、お互いに無関心でいるのでしょうか。教会の中に対立や分裂が生じるとき、あるいは誰かが霊的に大きく揺れ動いているとき、私たちはイエス様がなさったように真心から最後までつなぎとめる愛を示しているでしょうか。それとも「まさか自分じゃあるまいし」と考え、何の関心も払わず隣人の破滅を放置しているでしょうか。
さらに張ダビデ牧師は、ユダがついに席を蹴って「夜」の中へと出て行った(ヨハネ13:30)という描写を非常に象徴的に捉えます。ここで「夜」とは単に日没後の時間だけでなく、霊的な暗闇、罪と絶望の場を意味します。ユダが主の晩餐を離れてその闇へと入っていったように、誰でもイエス・キリストの愛から離れてしまえば、もはや光のうちにとどまれず暗闇に捕らえられてしまうのです。
結局、このすべての場面は、裏切り者ユダと無関心な弟子たち、そして最後まで愛を注がれるイエス様という対照的な姿を映し出しています。張ダビデ牧師は、この対比の中で神の愛がいかに大いなるものであり、人間の罪性がいかに頑固であるかをあわせ見なければならないと語ります。主は敵に対してさえも愛を示し、足を洗い、最後の勧めの手を伸ばされましたが、ユダはその愛を退けました。しかし他の弟子たちも、その裏切りの過程を阻止するほどに成熟した愛と関心を示したわけではなかったのです。
私たちが教会の中でしばしば出会う対立や裏切りは、この場面が繰り返される小さな縮図と言えるでしょう。いっけん同じように賛美し、奉仕し、食卓を囲んでいても、内面では互いをねたみ、憎み、競い合い、ときには裏切りと分裂の種を心に秘めていることもあるのです。では、イエス様はそのすべての状況の中でいったい何をなさるのでしょうか。張ダビデ牧師によれば、主は今もその場所にとどまり、最後まで愛の手を差し伸べてくださると言います。しかし最終的な選択は私たち自身に委ねられています。ユダのようにその手を振りほどくこともできるし、主の恵みによって涙ながらに立ち返り回復されることもできるのです。
このように、小主題2ではイスカリオテのユダと弟子たちの姿を通し、教会共同体と個々の信仰者が警戒しなければならない罪と裏切りの可能性を示しています。そして同時に、イエス様が示された最後までの愛がいかに偉大で不思議なものであるかを私たちに教えています。張ダビデ牧師は、この本文が単なる「ユダは悪い弟子だった」という話で終わるのではなく、「私たちもいくらでもユダになりうる。しかし主は今も私たちをつかんでくださる」という警告であり、慰めでもあると解釈しているのです。
3. 足を洗われるイエス様と「互いの足を洗い合いなさい」という命令
張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章4~5節でイエス様が実際に上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとい、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、その手ぬぐいで拭かれた場面を、神の国における真の権威が何かを示す劇的な出来事として理解しています。当時、足を洗う行為は普通、下僕やしもべの役割でした。あるいはラビと弟子の関係でも弟子がラビの足を洗うことはあっても、ラビが弟子の足を洗うことは想像さえできませんでした。
それにもかかわらず、イエス様は腰に手ぬぐいを巻いて、一人ひとりの足を洗われます。張ダビデ牧師は、これを「万王の王がしもべの中のしもべとなられた」という表現で、これは単なる見せかけのパフォーマンスではなく、真の“へりくだり”の本質を伴う行為なのだと解説します。イエス様は弟子たちに「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いの足を洗うべきである」(ヨハネ13:14)と命じられます。これは教会共同体が持つべき根本的な態度、すなわち互いへの仕えと愛の手本となるのです。
問題は、弟子たちがその状況下でも誰が一番偉いかを争っていたということです(ルカ22:24)。張ダビデ牧師は、この弟子たちの姿こそ人間の普遍的な罪の性質を表していると見ています。私たちがしばしば信仰共同体の中でも際限なく比較し合い、競争し合い、誰がより評価されるか、誰がより影響力を持つかを計算する姿と何ら変わりはないというのです。ところがイエス様は、その争いや競い合いの真っ只中にあって、自らしもべの姿を取ることによって、真の仕えとは何か、愛のもたらす真の権威とは何かを示されました。
張ダビデ牧師は、これを「愛のしもべとなる自由」と呼びます。すなわちイエス様は万物の上におられ、あらゆる権威を持たれる方ですが、その権威の行使の仕方は支配や君臨ではなく、「愛によって仕えるしもべ」としての姿でした。「愛のしもべ」となるとき、そこにこそ真の自由が訪れるのです。自分を捨ててへりくだる生き方によって、むしろどのような抑圧も恐れもない自由を手に入れることができます。これは、ピリピ2章6~8節でパウロが語る、イエス様が「ご自分を無にしてしもべの形を取り、自ら低くされた」という出来事と完全につながっています。
では、今日を生きるクリスチャンたちはどうすればイエス様のこの行為を実践できるのでしょうか。張ダビデ牧師は主に2つの次元で説明しています。
1つ目は個人の次元です。自分の十字架を負って自己を捨て、へりくだりを学ぶ必要があります。私たちの足はいつでも罪によって汚れる可能性があります。また、他者の足を洗うような生き方を選ぶには、どうしても自分の欲望や高慢を下ろさなければなりません。十字架こそが、この「自己否定」の場です。もし十字架が教会や家庭、あるいは自分の心の中に打ち立てられていなければ、私たちは他者に仕えるどころか、支配や利益追求の態度へと立ち返ってしまいやすいのです。張ダビデ牧師は「十字架がなければ教会は高慢な人間の集まりになってしまう」と断言します。
2つ目は共同体の次元です。互いの足を洗い合う文化が必要だということです。これは、文字通り相手の身体的な必要に目を向けてケアする物理的な次元もあれば、もっと広い霊的な次元として、兄弟姉妹の罪や過ちを赦し、回復へと導き、ともに悔い改められるように祈るということでもあります。教会が真に「足を洗う」ことの意味を実践するならば、そこには断罪や恥辱ではなく、回復と和解と愛があふれるはずです。張ダビデ牧師は、すべての信徒が「他人の足を洗うためのたらいと手ぬぐいを心に携えて生きなければならない」と比喩的に語っています。
これとあわせて重視されるのが、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関係がないことになる」というイエス様の言葉の深刻さです。これは、私たちが自分の力で自分の足を洗うのではなく、本質的にはイエス様の御手が必要だということを示しています。再生によってすでに身を洗った者でも、人生を歩むうちに再び足が汚れてしまうときには、イエス様のもとへ行って洗っていただかなければなりません。同時に互いの足を洗うことは、私がすべての人の代わりにイエス様になるというのではなく、イエス様の愛を伝える通路となるという意味です。
張ダビデ牧師は、教会の中で争いや対立が起こるたびに、ヨハネ13章に描かれた「足を洗う」出来事を思い起こすべきだと勧めます。なぜなら、争いの大半は「誰が偉いか」「誰が正しいか」「誰がどれだけ貢献したか」という比較意識や自己主張のぶつかり合いで起こるからです。ところがイエス様は、その瞬間に弟子たちの足を洗うことで、まったく逆の道を提示されました。師であり主であられるイエス様がみずからへりくだってしもべとなられたように、私たちもその道を歩まなければならないのです。
この世はいまだに「王となって支配しよう」とする思いにあふれています。成功や支配、影響力を追い求める文化のただ中で、互いの足を洗い合う生き方は逆説的で効率が悪いように見えるかもしれません。ところが張ダビデ牧師は、この逆説の中にこそ真の命と自由、そして神の国が展開すると語ります。私たちが他者の足を洗うとき、その行為はイエス様の愛を再び生かす力となるのです。
特に、張ダビデ牧師はこの足を洗うメッセージが四旬節と復活祭の時期にいっそう深い意味を帯びると説明します。四旬節はイエス様の受難と十字架を黙想する期間であり、イエス様のへりくだりと犠牲、従順の道を共に歩む霊的訓練のときです。この期間に「互いの足を洗い合いなさい」というイエス様の命令を改めて思い起こすとき、私たちの信仰は単に礼拝堂に集まって式を行うだけでなく、実際の生活において悔い改めと仕え、分かち合いへとつながっていくでしょう。
さらに復活祭は、十字架の死を乗り越えたイエス様の勝利を記念する日です。イエス様の自己卑下と犠牲は決して失敗や敗北では終わらず、復活によって栄光の勝利となって現れました。張ダビデ牧師は、私たちが互いの足を洗い合うという小さな仕えの実践も、最終的には復活の栄光へと続く道だと説きます。世が見るときには愚かしく見えるかもしれませんが、その道にこそ真の自由と喜びが湧き上がってくるのです。
総括すると、ヨハネ13章2~11節に描かれたイエス様の足を洗う出来事は、張ダビデ牧師によれば教会の本質であり、クリスチャンのアイデンティティを象徴する重要な場面です。第一に、「すでに身を洗った者」は再生(重生)した存在でありながら、日々自分の足を洗う悔い改めの必要を忘れてはならないこと。第二に、イスカリオテのユダの裏切りと弟子たちの鈍感さは、教会の内にもいまだ潜む恐ろしい罪や不信、無関心を思い出させること。そして第三に、イエス様ご自身が足を洗われた行為は、愛こそがしもべとなって仕えることであり、その道こそが真の共同体と救いの喜びを完成させる方法だということを示しているのです。
張ダビデ牧師は最後に、今の私たちが「敵」のように感じる人、あるいは共同体の中でいちばん仕えづらいと感じる人の足を洗うことができるかを自問してみるよう提案します。イエス様でさえイスカリオテのユダの足を洗われたのですから、私たちはいったい誰の足を洗いながら生きているのか。私たちの信仰告白は、口先だけで「愛」を唱えているのか、それとも実際にへりくだって兄弟姉妹に仕える生き方へと結びついているのか。その問いに正直に向き合うことこそが、教会を教会たらしめ、クリスチャンをクリスチャンたらしめるのだと語ります。
結局、「足を洗いなさい」というイエス様の命令は、私たちにとって非常に高い基準であると同時に、非常に驚くべき恵みでもあります。主は私たちが互いの足を洗う力のないことをご存じであるがゆえ、まず先に私たちを洗ってくださいました。そして日々汚れていく私たちの足をいとわず洗ってくださり、新たにしてくださいます。その愛をいただいた私たちは、今度は他者の足を洗うことでキリストのかぐわしさを伝えられるようになるのです。ここにこそ教会の具体的な使命と存在目的があると言えます。
このように、小主題3では「愛の実践」としての「足を洗う」ことに秘められた霊的・実践的な意味を考察しました。張ダビデ牧師は「互いの足を洗い合いなさい」というイエス様の教えこそが、教会共同体において兄弟愛を回復し、さらに世に向かってキリストの真実の愛を証しする道であると強調します。そしてその道は、四旬節を経て復活の朝へと至る巡礼者の道でもあります。イエス様が示されたへりくだりと犠牲の模範に本当に倣っていくならば、たとえ足を洗う行為は小さく目立たないことに見えても、それこそが大いなる神の国を現実へと築いていく奇跡なのだと忘れないようにとメッセージを送っているのです。
張ダビデ牧師の一連の解説を総合すると、ヨハネ13章に込められた足を洗う本質は、救われた者たちの絶えざる悔い改め、教会内に潜む裏切りの可能性への警戒、そしてしもべとなられたイエス様に倣う互いへの仕えに集約されます。イエス様が示されたこの道こそ、恵みと真理、愛の完成であり、私たちは日々これを黙想しつつ実践していくべきです。そうすることで「すでに身を洗った者」として与えられた救いの豊かさを、ますます深く味わい、同時に互いに仕え合う教会共同体へと成長していけるのです。