心の割礼と福音の本質 – 張ダビデ牧師

以下の文書は、張ダビデ牧師によるローマ書3章1-8節に関する説教原稿を土台としつつ、その内容を大きく二つのテーマにまとめ、本文の意味と神正論(しんせいろん)的問題、そして福音の本質についてより豊かに論じたものです。説教の主たる流れは、パウロの論旨がもつ意義、そしてそこから派生する「神に対する誤解と罪の責任」という重要な神学的主題を中心に展開されています。また、ここでは原稿本文に提示された内容に加え、その背景で説明された旧約・新約の聖句や教会史的・神学的含意にも言及しています。


1. パウロの論旨と神正論(しんせいろん)の問題

張ダビデ牧師は、ローマ書3章1-8節を講解するにあたり、この本文がもつ核心の問いが「神正論」の問題と深く結びついていると強調します。神正論(Theodicy)とは、全知全能であられ、善なる神が、どうしてこの世に起こる悪や罪、不義のようなものを許されるのかという問いに関する弁明ないし解明を扱う学問・議論です。つまり、神の統治と摂理を眺めるとき、人間側に生じるあらゆる疑問に対して、「神はなおも正しく、いささかの過ちもない」ことをいかに「弁護」できるかを取り扱うわけです。したがって、この問題は常に信仰者たちの心を複雑にし、同時に不信者にとっては神を信じない、あるいは反神(はんしん)的態度を取る代表的なテーマとして機能してきました。

本文においてパウロは、イスラエル民族がもっていた特権、すなわち「ユダヤ人の優位性」とは何かという問いと、それに対する応答を提示します。従来、彼らは神の特別な契約と律法を授けられ、モーセから継承された選民思想を誇りにしてきました。とりわけ「割礼」というしるしは、「神の聖なる民」であることを象徴する強力な標(しるし)でもありました。ところがパウロはローマ書2章の終わりで、表面的な割礼は真の意味での「神の民となること」を保証しないと断言しました。たとえ律法の条文を与えられたとしても、もしそれを完全に守れないなら、どんな異邦人よりも重い罪に定められ得る、と厳しく語ったのです。この衝撃的な教えがユダヤ人たちに伝わったとき、「それなら、私たちが享受してきたあらゆる特権は無駄だったのか。割礼そのものが無効になったというのか」という反発が、即座に起こるのは当然でした。

張ダビデ牧師は、この段階で見られるユダヤ人たちの反発が、神正論的な問いとも重なるのだと指摘します。すなわち「神が私たちをお選びになったのに、私たちは罪によって律法を破ってしまった。とするなら、これは神の側の失敗ではないのか?」といった形で、人間の不従順を神に転嫁する論理が生まれてしまう、というわけです。人間は常に自らの罪や過ちを弁明しようとするばかりか、さらにその責任を神に押し付けようとする傾向があります。これは創世記3章でアダムとエバが罪を犯したときから始まった「罪に関する弁明と責任転嫁」の延長線上にあるのです。

3節でパウロはこれを、「ある者たちが信じなかったとして、その不信が神の真実(まこと)をむなしくするのか?」という問いとして提示します。すなわち「もし神の契約の民であるユダヤ人たちの中に、不信と不従順の者がいたとしたら、それによって神の誠実さが損なわれ、無効になるのか?」というわけです。張ダビデ牧師は、当時の教会内外で十分に起こり得た代表的な神正論的抗議を、ここで想起させます。神が全知全能であり、選びに後悔がないとされるなら、なぜ選ばれた民が不従順によって裁きを受けるような事態が生じるのか。結局は神が選びを誤ったのか、それとも選んだのに守れない無能さゆえなのか――そういった疑問です。

これに対してパウロは、「断じてそんなことはない」(4節) ときっぱりと言い切ります。神は決して不義であられたり、過ちを犯されたり、あるいは契約に不誠実な方ではない、と力説するのです。たとえすべての人間が偽りだとしても、神は真実である、という言葉は、人間の側でいかなる弁明があろうとも、神の絶対的真理と誠実は少しも揺らがないことを示しています。張ダビデ牧師はここで「人はみな偽り者だが、神は真実である」というくだりを特に強調し、ダビデの悔悛詩として知られる詩篇51篇4節を引用します。ダビデがバテシバの事件後に悔い改める中で「私はあなたにだけ罪を犯し、御前に悪を行いました。ですからあなたが仰せになるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたは清くあられます」と告白した箇所です。これは、人間の罪深さがいくら大きくとも、それが神の正しさに傷を負わせることはできないことを示しています。

ではなぜ、神はユダヤ人たちが不従順になり、裁きを受けるのを事前に止めなかったのか。それとも、そもそも堕落自体が起きないようになさらなかったのか。これこそ神正論における、最も普遍的で根源的な問いでしょう。張ダビデ牧師は、その答えは「自由な愛の関係」にあると説きます。神が人間に自由意志を与えたということは、人間が自ら神の愛に真心から応えることを許されている、ということです。もし自由意志がなかったなら、それは機械的な服従や自動的な従順にすぎなくなるでしょう。しかし愛の真実性は、強制やプログラムでは決して満たされません。

さらに言えば、「人間の堕落が神の御心だったなら、それは神が悪を計画されたことにならないか?」と反論する人もいるでしょう。あるいは「もしユダがイエスを裏切らなかったなら、十字架による救いはどう実現されたのか。結局ユダは神の救いの歴史に協力した功労者なのでは?」と問う人もいます。これらの究極的な問いに対して、パウロが示す論理を紹介するのが、本節7-8節です。パウロは「もし私の偽りが神の真実をいっそう豊かにさせるのなら、どうして私が罪人のように裁かれるのか?」という問いに対し、「では善を成すために悪を行おうと言うのか?そんなことは断じてあり得ない!」と宣言します。

このくだりの真意を掘り下げると、もし神が「人間の悪をあらかじめ計画」して、その悪を通して善をなし遂げる方なのだとしたら、悪を行う者はむしろ「神の御心を成就するために」道具として用いられ、しかもそれを誇ることさえできてしまうことになるでしょう。ですがパウロはそうした詭弁を一切認めません。人はどのような手段をもってしても罪の責任を免れたり、罪の起源を神になすりつけることはできないのです。

張ダビデ牧師は、この点を創世記のヨセフの物語を引き合いに出し、さらに説明を広げます。ヨセフは兄たちに憎まれ、穴に投げ込まれ、やがてエジプトに奴隷として売られるという非常な苦難の道を通りました。兄たちは明らかに「悪い心」でヨセフを売り渡したのであって、それは断じて善い行為でもなければ、あらかじめ計画された堕落でもありません。しかし神はその悪のど真ん中にあってもヨセフを支え、最終的にはエジプトの宰相にまで引き上げ、やがて多くの民族を飢饉から救う道を備えられました。その後、兄たちがヨセフの前でおびえて震えているとき、ヨセフはこう告白します。「あなたがたは私を害そうと図りましたが、神はそれを良きことに変えて、今日見るように多くの民の命を救われたのです」(創世記50章20節)。

このように神は「人間の悪を善に変えられる方」であって、「悪そのものを計画される方」ではありません。神の主権は、悪に屈服しないばかりか、むしろ悪を善へと変容させるほどに偉大で全能です。そしてこの事実こそが、神正論への回答にもなります。結局、人間側の堕落と悪は、自由意志を誤用した結果にすぎません。そこに善なる結果を生み出されるのは、あくまで神の側の御業なのです。しかし「堕落こそ神の御心」と強調したり、「悪を通さないと善が顕れなかった」という結論に至ることは、パウロが断固として警戒し、否定している過ちであり、不敬虔な考え方です。

張ダビデ牧師は、ローマ教会の内外のユダヤ人に対してパウロが掲げた論旨に注目するよう促します。パウロ自身もかつては律法への熱心からイエス・キリストを迫害していました。しかしキリストと出会った後、「すべてが変わった」のです。律法の真の意味、そして人の罪をあがなうためにご自身を差し出されたキリストの十字架が何を意味するのかを悟ったのです。その愛の視点から見るなら、人間が罪を犯すあらゆる場面は、決して神の本来の御心ではなく、神が強制的に計画されたものでもありません。人間の不従順はあくまで人間側の責任です。神は最後までその愛によって人間の救いを切望され、回復のためにご自身を犠牲にされるお方です。

結論として、1〜8節でパウロが展開する問答的な議論は、「ユダヤ人の失敗によって神の真実までもが壊れるのか?」「悪を通して善が顕れるのなら、結局悪も必要だということか?」という問いに対し、「そんなことは断じてあり得ない!」と明言するものです。神は常に真実であり正しく、罪と悪は全く人間に責任があり、それにもかかわらず神は人間の悪すら善に変えるほど偉大である、ということです。ユダヤ人たちはこのメッセージを受け取り、これまで自分たちが律法を授かった特権をただ誇ってきた姿勢を省みなければなりませんでした。そして本当に神の御心のとおりに生きられなかった部分、すなわち自由を神に服従させ、愛をもって従順することに失敗した部分を、深く悔い改め、立ち返る必要があったのです。

神正論への答えも、まさにここにあります。「なぜ神は悪人をすぐさま裁かれないのか?」「なぜ歴史がこれほど長く続き、罪が蔓延するのを許しておられるのか?」といった問いも、結局は人間の視点から神に責任を押し付けることになりやすいのです。張ダビデ牧師は、パウロの言葉を通して、私たちの信仰は「そんなことがあるはずない」という断固たる答えを、「神を弁護するための防衛論」ではなく、「神が愛と正義に満ちた方である」という確信の告白として受け取るべきだとまとめます。

すなわち、「人間が神の選民になれなかったとしたら、その責任は誰にあるのか?神のせいなのか?」――断じてそうではありません。むしろ私たちは自らを振り返り、「私が信仰をもたず、私が不従順で、私が御言葉に不義だったのだ」と悔い改めなければなりません。そうせずに「あなたが防がなかったではないか」「あなたが予定したではないか」と神に食ってかかるようになれば、誰も正しい道へ至ることはできません。それは「愛の神」に対する重大な誤解であるだけでなく、パウロが声を上げて拒絶した、悪用された予定論的思考、あるいは歪んだ神正論に他なりません。


2. 福音の本質、「心に割」を受けた者との信仰

上記の神正論的問題と並んで、張ダビデ牧師はローマ書3章1-8節に内包されるもう一つの重要な主題である「福音の本質」にも着目します。パウロは直前のローマ書2章28-29節で、「表面的なユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外面的な肉の割礼が割礼なのではない」と宣言しました。さらに続けて「隠れたユダヤ人こそがユダヤ人であり、割礼は心で行うものであって、文字によるのではなく御霊によるのだ」と語ります。この大胆な主張は、選民思想を根本から揺るがすものでした。

張ダビデ牧師によると、パウロのこうした宣言は、単に「割礼の無用論」を主張するのではなく、「真の割礼、真の信仰と従順はどこから始まるのか」を明らかにする御言葉だと説明します。ユダヤ人たちは割礼を受けることでアブラハムの契約を継承し、自分たちが「契約の民」であることを公にしてきました。しかしパウロは「もし律法を破るならば、あなたの割礼は無割礼になる」(ローマ2:25)と警告します。すなわち、律法を守らないのなら、肉の包皮を切除したかどうかは関係なく、真の神の民であるとは言えない、というのです。

だからと言って、割礼そのものに何の価値もないと言っているわけではありません。ローマ書3章1-2節でパウロははっきりと「それなら、ユダヤ人の優れている点は何か、割礼の益は何か。あらゆる面で多い。まず第一に、彼らは神の言葉を委ねられたことである」と述べています。張ダビデ牧師は、これを当時の教会の状況に照らし合わせて、「キリスト者が受ける洗礼も同じ」だと解釈します。洗礼自体が無益な儀式なのではなく、本来はキリスト者の信仰を公に告白し、「主とともに葬られ、主とともに生きる」ことを宣言する重要な式典です。問題は、それが「外形だけの儀式」に堕してしまったときに生じます。

パウロが9章以降でも触れるように、ユダヤ人は神から「子とされる身分(ローマ9:4)」や「契約(ローマ9:4)」をいただき、「律法(ローマ9:4)」と「約束(ローマ9:4)」を託され、さらにキリストもその血筋から来られた(ローマ9:5)。これはとてつもない特権です。同様に、今日の教会において洗礼を受けている人や、キリスト教家庭に生まれ自然と信仰生活を営んできた人も、非常に大きな恵みの条件を与えられていると言えます。では、その条件が「自分の実践を伴わない自慢」だけで終わるのか、それとも本当に自分の生を神に捧げ、「心に割礼」を受けた内面的な信仰にまで至るのかが問われるのです。

張ダビデ牧師は旧約の預言書、エレミヤ31章33節を想起させます。「主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らのうちに置き、彼らの心にこれを記す…わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と。これこそが神が真に願われる契約関係であり、包皮に刻まれた割礼ではなく、心の奥底に刻まれた割礼、すなわち表面的行為を超えて霊のうちでの従順を強調しています。エレミヤやエゼキエルといった預言者たちも、「あなたがたの心の石のような固いものを取り除き、柔らかい肉の心を与える。わたしは新しい霊をあなたがたのうちに与える」(エゼキエル36:26)というメッセージを繰り返し伝えました。

パウロはガラテヤ書やピリピ書、コロサイ書などでも繰り返しこの問題を扱います。ガラテヤの教会内部には、「異邦人信者も肉体の割礼を受けなければ真の救いは得られない」と主張するユダヤ人出身の兄弟たちがいました。パウロは彼らを激しく批判し、「割礼派に用心しなさい」(ピリピ3:2)とまで表現します。そして「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉を頼みとしない私たちが真の割礼なのだ」(ピリピ3:3)と宣言し、外面的な割礼ばかりを固執する者たちを、むしろ「犬どもに気をつけよ」という過激な言い方で警告します。

コロサイ書2章11節以下でも、キリストにあって受けた「人の手によらない割礼」の重要性を説き、肉体的儀式ではなく「洗礼によってキリストとともに葬られ…神の御業を信じる信仰によって、その中で共に生かされたのだ」(コロサイ2:12)という点を強調しています。これは神学的に言えば、キリストと共に死に、キリストと共に生きる「キリストとの連合」を示す真理です。張ダビデ牧師はここで、「目に見える印(sign)は、心の変化を表す一つの象徴にすぎない。その印自体がすべてを決定するわけではない」と説き明かします。

この論理をユダヤ人たちに直接当てはめたのが、ローマ書2章から3章に至る流れです。パウロは「外面的な割礼だけでは選民だと誇るな。それは本質ではない。心からの真の悔い改めと信仰があるとき、その割礼に意味と効力が生じるのだ」と宣言しました。そして「もし律法を守らず神の名を汚すならば、あなたの割礼は無割礼になり得る。一方で、律法の定めを守る無割礼の者は、たとえ割礼がなくても神の前で義とされるのではないか」と警告しています(ローマ2:25-27参照)。

この衝撃的な教えに対して、「それではいったい私たちが割礼を受け、律法を伝承してきたことは何の役にも立たないのか?」という反応が当然出てきます。パウロはこれに「いや、そうではない。あなたがたは神の言葉を委ねられたのだから、ユダヤ人の優位性は確かにある」(ローマ3:2)と答えます。しかし、その優位性や特権が「あなたが本質に忠実であるとき」にこそ真に意味を持ち、もしその特権を守らず、かえって神の御名を汚す不信仰を表すのであれば、その特権はむしろさらに大きな裁きの根拠になり得る、と指摘するのです。

張ダビデ牧師は、これを今日の教会状況にも同じように適用すべきだと提案します。洗礼や長年の信仰歴、教会での職分、神学的知識などは、まことに尊く貴重な恵みの証拠でしょう。とはいえ、それが外面的な自慢話にすぎないのなら、何の意味があるでしょうか。パウロが鋭く指摘したように、ある異邦人(今日で言えば未信者)でさえも「正しい良心と道徳的生活」を通して、形式的にクリスチャンと呼ばれているだけの人を、むしろ辱め得るのです。これこそが本文で語られている「無割礼の者が律法を行うなら、かえってあなたをさばくのではないか」という警告(ローマ2:27)にほかなりません。

では福音の本質はどこにあるのでしょうか。パウロは他の書簡でも、「義人は信仰によって生きる」という命題を繰り返しています(ローマ1:17、ガラテヤ3:11など)。つまり、私たちの救いは人間の功績や外面的な形式によって成し遂げられるのでは断じてなく、ただキリストの十字架の贖いと復活、そしてそれを心から信じ受け入れる信仰を通して、恵みによって与えられるもの(エペソ2:8-9)だということです。とはいえ、それが「肉のしるしを完全に無価値とする」ことを意味するわけではありません。張ダビデ牧師は「しるしとは、心にある実体を示す外的サイン(sign)であり、神と教会共同体の前で自分の状態を確認する儀式だ」と説明します。

しかしこのしるし(割礼や洗礼)こそが本質なのではありません。本質とは「心の割礼」、すなわち御霊による内面の変化と真の悔い改め、そして神への愛と隣人愛を実践しようとするキリストの生き方への従順です。イエスご自身が地上で示された愛とへりくだり、仕え、恵みを与える姿こそが、私たちが信仰生活において第一に優先すべき実です。張ダビデ牧師は「割礼や洗礼を受ければ救いが保証される」と勘違いしたり、「教会で長く奉仕してきたから義とされる」と思い込むのは間違いだ、と重ねて強調します。

さらに、パウロがローマ書3章で触れている「神の義」と「人間の不義」の対比に関するもう一つの争点は、「私たちの不義によってむしろ神の義が顕れるのなら、それは結果的には善なのではないか」という詭弁を引き起こすことです。「善をもたらすために悪を行おう」と言わんばかりの無謀で極端な論理です(ローマ3:8)。パウロはこれを「そんな者たちは当然さばかれるのだ」と一刀両断にしています。私たちが罪を犯したからといって、「結果的に神の栄光がさらに顕れたのなら、私の罪はむしろ善をもたらしたではないか」と言うことは、福音の本質をねじ曲げる危険極まりない発想だというのです。

結局、パウロがローマ書で示そうとしている核心は、「救いは私たちから出たものでは少しもなく、ただキリストの十字架の犠牲から始まり、それを信仰によって受け入れるとき、御霊の働きが私たちのうちに臨み、心の割礼として生まれ変わる」という真理です。張ダビデ牧師は、この教えがあらゆる律法的形式主義を打ち砕くと同時に、「神正論の問題」から神を弁護する上でも強力な論拠となるのだ、と力説します。なぜなら、神は私たちに悪を計画される方ではなく、私たちを徹底して自由な存在として造り、その自由を踏み外し罪に陥った私たちを、最後まで救おうと十字架の道を選ばれたからです。

ローマ書3章1-8節は、このような流れの中で「ユダヤ人の特権とは何か?」「彼らの不信によって神が失敗されたのか?」「私たちの不義が神の義を顕すなら、罪も有益だということか?」といった問いを通して、神の正しさと誠実さ、そして人間側の不信と愚かしさがどれほど虚しいかを示します。張ダビデ牧師は「そんなことは断じてあり得ない!」というパウロの断固とした結論を重ねて解説し、現代の教会においても、私たちが形だけにしがみつく表面的な信仰生活を省み、「真の心の割礼」を受けねばならないと強調します。

神正論的観点から見ると、「なぜ神は悪の存在を許されたのか?」という問いは、つまるところ「なぜ神は私を操り人形にされなかったのか?」という問いと直結します。ですが、自由のない愛は、もはや愛ではありません。神が私たちの自発的な応答を望まれたという事実は、救済計画全体の中であまりにも重要です。そこまで人間を高めてくださったのに、人間は自ら罪を選び、その責任から逃れられません。同時に、その罪の代価をイエスが十字架で身代わりに負われたことによって、私たちの堕落は神の愛と主権を否定したり、崩すことはできなくなりました。むしろ神がどれほど偉大なお方であるか――「罪や悪さえも善に変えられる力」をもっておられるかを示す結果となったのです。

結局、私たちは「選ばれていたのに、その選びにふさわしく生きなかった」ユダヤ人たち、あるいは「福音を上辺だけ受け取って行いで証明できていない」現代の形式的信徒の問題と全く同じものに直面します。それを明確に指摘するパウロの言葉、そしてそれを解釈・講解する張ダビデ牧師の説教は、今日の私たちに悔い改めと決断を迫ります。心の割礼もないままに教会の儀式だけに倣っている信仰は、決して「真の福音生活」にはなり得ず、「結局はすべて神の計画なのだから仕方なかった」といった言い訳は、なおさら許されないという厳粛なメッセージです。

張ダビデ牧師は、これを「福音の本質の回復」と要約します。この福音の本質は、人間の罪や不従順があくまで人間の側の誤りによって引き起こされたと宣言し、それにもかかわらず神は限りなく誠実であられ、罪人を回復するために十字架にご自身を差し出され、聖霊によって心の変化をもたらしてくださり、だれでも真実に悔い改めて信じるなら救いに至らせる、ということです。私たちがこの恵みにあずかったなら、その恵みにふさわしく生きなければなりません。それこそが「外面的割礼ではなく、心に割礼を受けた者」の生き方です。

最終的にローマ書3章1-8節から学べる大きな教訓は次のようにまとめられます。
第一に、人は罪深い状態に留まっているとき、神を簡単に誤解し、罪の責任を神に転嫁しようとします。これは創世記以来の古い人間の罪性です。
第二に、それにもかかわらず神はご自身の誠実さを決して捨てられません。だれもその誠実を揺るがすことはできず、人間の不信のゆえに神の計画が破綻することもありません。
第三に、表面的な割礼や外面的儀式、あるいは長年の信仰生活などによって自らの義を誇ると、パウロが警告したユダヤ人と同じ誤りを犯す恐れがあります。
第四に、真の福音は「心で信じて義とされ、口で告白して救いに至る」(ローマ10:10) ものであり、これは「人の手によらない割礼」すなわち御霊による内的変化と決断を伴います。
第五に、「悪が増すほど神の栄光が顕れる」という類の愚かな詭弁は断じて容認できません。神は人間の悪を善へと変えられますが、人間の悪の責任が免じられるわけではないのです。

張ダビデ牧師は、このメッセージが2000年前のユダヤ人だけでなく、今日のすべてのクリスチャンにも変わらず適用される真理であることを想起させます。そして、私たちのうちにある「神に対する誤解」を打ち砕いてこそ、パウロがローマ書全体で語る「福音による自由」(ローマ8:2) に入っていけるのだと語ります。私たちは「なぜ神はこれほどひどい状況になるまで放置なさったのか?」という神正論的疑問を呈する前に、「私は心に真の割礼を受けているだろうか?」「私は本当に信仰によって生きているだろうか?」とまず自問すべきなのです。

もし「私は間違いなく洗礼も受けているし、教会に何十年も通っているから安心だ」と自分を安心させるなら、それはパウロの叱責に直面したユダヤ人たちの「それでは私たちに何の益があるのか?」という反論と大差ありません。クリスチャンの名誉とは、神の御名を高める生き方によって証明されるものです。未信者が私たちの歩みを見て、「なるほど、あなたがたの語る福音は真実だ」と告白するなら、それは真に割礼を受けた神の民と言えるでしょう。しかし、未信者が教会の中の偽善や罪を見て、むしろ「あなたたちのせいで神の御名が汚されている」と言うようになれば、それは外面的な割礼だけに頼っていたユダヤ人と何ら変わりありません。

したがって、ローマ書3章1-8節に関する一連の講解を通して、張ダビデ牧師が繰り返し強調することは明白です。「心に割礼を受けよ!」ということです。そうしてこそ、「人はみな偽り者であっても、神は真実であられる」というパウロの告白を、自分の魂が深く共感できるようになります。罪から離れられないまま「神の全能」「神の予定」といった言葉ばかり前面に押し出して弁解するなら、結局、自らの生き方に変化を伴わず、信仰の本質を回避しているだけにすぎません。

さらに言えば、こうした心からの悔い改めと信仰がなければ、いわゆる「神正論問題」に対するいかなる解答も、空論にとどまるでしょう。「すべて神がなさることだ」と片付けたり、「神の摂理は私には理解できない」と言葉を濁したとしても、実際の生活の中で神を熱く信頼し、福音を喜んで伝えることはできないのです。しかしパウロのように、「私は罪人の頭であったが、イエス・キリストの恵みによって義とされた」という感謝と感動が生きている者は、神正論におけるどのような問いも自己弁明のために用いません。むしろへりくだって自分を低くし、神をあがめ、悪を避けて善を選び取り、その「人間に与えられた自由の偉大さ」を感謝するのです。

結局、パウロが「ユダヤ人の優位性と不信」を論じながら、この神正論的テーマを投げかけ、「そんなことは決してあり得ない!」という強烈な警告と宣言を続けるのは、現代にもまったく同じことが言えます。どのような形であれ、罪の根源を神に押し付けようとする試みをやめ、罪を積み重ねて神の恵みを大いなるものとしようとする自己矛盾的思考にも警戒しなければなりません。キリストにあって与えられた救いの恵みが真実であることは、私たちの生き方が「心の割礼」を通して変わったときに初めて明らかにされるのです。

本文の背景と神正論の問題、そして「心に割礼を受けた者」になるべきという福音の本質を中心に、旧約と新約、初代教会の葛藤状況にまで広く言及してみました。結論として、この御言葉の前で私たちが覚えておくべき中心の真理は明確です。「人はみな偽りであっても神は真実であり、その愛は、私たちの自由意志の濫用による堕落すら善へと変えるほどに大きい。しかしその事実が、人間の罪を正当化することは断じてない」ということです。ゆえに私たちは、外面的なものによっては何一つ保証されないという真実を悟り、心から悔い改め、従順する「内面的信仰者」へと生まれ変わらなければなりません。そしてそれこそが、パウロの「そんなことはあり得ない!」という断固たる口調の奥に宿る真実であり、張ダビデ牧師がローマ書3章1-8節を通して伝えようとした核心的メッセージなのです。

www.davidjang.org

Leave a Comment