張ダビデ牧師 – 不完全な信仰

以下の文章は、張ダビデ牧師が説き明かした使徒行伝18章24節から19章7節に登場するアポロとエペソ教会の出来事を中心に、私たちの信仰が不完全な状態から完全へと進んでいく過程について考察しようとするものである。本論の本文を通して私たちは、「ヨハネのバプテスマ」という形で象徴される不完全な信仰が、「聖霊のバプテスマ」という完全な信仰へ移行する出来事を目の当たりにする。この本文の理解を踏まえ、現代の教会と信徒たちはどのような姿勢と態度をもって福音の完全さを体得していくべきか、そしてその過程において張ダビデ牧師の宣教・教え、さらに彼の牧会的実践がどのような示唆を与えるのかを共に探ってみたい。本稿の前半では、アポロが抱えていた不完全な信仰と、プリスキラとアクラによってより正確な道を学ぶに至った過程、そしてパウロがエペソで出会った弟子たちがヨハネのバプテスマにとどまっていた問題の根本は何だったのかを扱う。続く後半では、「聖霊のバプテスマ」という新しい局面がいかにして開かれたのか、そしてその出来事を今日の教会がどのように適用できるのかを、張ダビデ牧師の牧会方針と結びつけながら深く整理してみようと思う。本文に登場する人物たちの背景や地域的・歴史的状況、また彼らがたどった信仰的成熟の過程を追いながら、私たち自身の信仰がいま不完全なところにとどまってはいないか、そして聖霊の満たしを具体的な生活の中でどう経験すべきかを振り返る機会としたい。


Ⅰ. アポロの不完全な信仰とエペソの弟子たちのヨハネのバプテスマ:悔い改めから愛へ、知識から生活へ

使徒行伝18章24節以下には、アレクサンドリア出身のユダヤ人「アポロ」という人物が登場する。彼は律法と預言、すなわち旧約聖書に通じ、雄弁である人物として紹介されている(使徒18:24)。アレクサンドリアは当時、学問的・知的風土が盛んな土地として知られており、その出身であるアポロがきわめて学問的・哲学的な背景を持っていたことは、本文に記された「聖書に通じた者」「学問のある者」という表現により裏付けられる。アポロは会堂でイエスがメシアであることを熱心に教え、実際に他の人々に大きな影響を与えるほど、知識と雄弁の点で抜きんでていた。しかし聖書は同時に「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」(使徒18:25)と記し、彼の知識や情熱にも限界点があることを明確に指摘している。

「ヨハネのバプテスマ」とは、バプテスマのヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマを意味する。その核心は「立ち返り(メタノイア)」であり、罪を離れて悔い改め、心を新たにすることであった。しかし福音書が証言するように、バプテスマのヨハネは「私よりも力ある方が来られ、その方は聖霊と火によってバプテスマを授けられる」と予告している(マタイ3:11, マルコ1:7-8, ルカ3:16,ヨハネ1:26-27参照)。つまりヨハネのバプテスマは最終目標ではなく、あくまで準備的・先駆的な位置づけであった。ところがアポロは、イエスについて熱心に語り教えていながらも、肝心の「悔い改めの後の世界」、すなわち十字架と復活、聖霊の内住やダイナミックな生活へ進む段階を十分に知らないままにとどまっていたのである。これは、彼がイエスについての知識は豊富に教えていたものの、キリストの生に実際にあずかる十字架の道や、聖霊の力に対する認識が十分ではなかったことを示唆する。

この不完全さを補ったのが、まさにプリスキラとアクラの夫妻であった。彼らはパウロとともに宣教し、深い信仰を学んだ者たちで、エペソに滞在中、アポロが会堂で語るのを聞き、彼を連れて行って「神の道をいっそう正確に教えた」(使徒18:26)。では、プリスキラとアクラが伝授した核心は何だったのだろうか。アポロはすでに旧約に関する知識、イエスがメシアであるという事実、そして悔い改めの重要性などを一通り知っていたはずなので、彼が新たに学ぶべき教えは、言うまでもなく「十字架と復活によって完成された福音の深さ、そして聖霊の力の中で生きる信仰の次元」であったと考えられる。一般的に「神の道をいっそう正確に教えた」という文面の中には、イエス・キリストの贖罪の御業、その死と復活の力、そしてクリスチャンの生活の中で聖霊がどのように働かれるのか、という具体的な理解が含まれていたと見なせる。

ここで私たちは、張ダビデ牧師の牧会哲学と宣教的な教えがどのようにこの本文とつながっているのかを考えてみることができる。張ダビデ牧師は、悔い改めと知的な悟りにとどまるだけのキリスト教信仰ではなく、実際の生活のあらゆる領域に十字架と復活の力が根を下ろすべきであると強調してきた。さらに何よりも、クリスチャンが教会共同体の中で愛を実践し、互いに仕えあい、共に険しい道を歩むことこそ真の福音の実りだと力説する。これはプリスキラとアクラがアポロを助けて立てる方法とも深く通じている。つまり、単に「知らなかった教義を教えること」ではなく、「福音の真の全貌」を伝えて、彼に十字架と復活、そして聖霊と共に歩むという「生活の現場」へと招き入れることにほかならない。

アポロの話に続いて、使徒行伝19章1節以下には、パウロがエペソで「ヨハネのバプテスマ」を受けた別の弟子たちと出会い、彼らが「聖霊があるということさえ聞いたことがなかった」と答える場面が描かれる(使徒19:2)。パウロが彼らを見て最初に確かめたのは「信じたときに聖霊を受けたのか」であり、彼らはヨハネのバプテスマしか知らなかったので、実際に聖霊の存在と働きをまったく体験したことがなかった。おそらく彼らはイエスの存在や悔い改めについては受け入れていたと推測されるが、福音が最終的に「聖霊の内住」と「新しい被造物」への変化によって完成されるものであるとは知らなかったのである。

そこでパウロは「ではどんなバプテスマを受けたのか」と尋ね、彼らがヨハネのバプテスマしか知らなかったとわかると、すぐに「ヨハネもまた自分の後に来られるイエス・キリストを信じるべきことをはっきり告げたではないか」と強調する(使徒19:4)。そして彼らに「主イエスの名によるバプテスマ」を授けたのち、彼らに按手して聖霊を受けるよう祈ると、彼らの上に聖霊が下り、異言と預言が現れたと聖書は記録している(使徒19:5-6)。これはペンテコステの聖霊降臨以降、サマリアや異邦人にも下った聖霊のバプテスマ(使徒2章、使徒8章、使徒10章など)と並んで、教会が拡張される重要な転換点と見なされ、「エペソの聖霊降臨事件」と呼ばれることもある。

ここで私たちは、もう一つ重要な視点に気づく。アポロがエペソを離れてコリントに行っている間に、パウロが後からエペソに入ってきて、ヨハネのバプテスマにとどまっていた弟子たちに出会い、彼らを「聖霊のバプテスマ」へと導いたということである。つまり「アポロはイエス・キリストを熱心に教え、彼によってエペソ教会がしっかり立てられたが、まだ完全には至っていない部分があり、それをパウロが補った」と言えるだろう。実際にコリントの信徒への手紙を見ると、アポロはコリント教会にも大きな影響を与え、「私はパウロにつく、私はアポロにつく、私はケパにつく」という派閥ができるほど、その教えはすぐれた力と活気を帯びていた(Ⅰコリント1:12)。しかし、その出発点は「ヨハネのバプテスマしか知らなかった不完全な状態」であり、プリスキラとアクラを経て、さらにはパウロによって、徐々により完全な福音の意味へと進んでいったという過程を、私たちはこの本文で確認できるのである。

このような過程は、現代の私たちにとっても非常に重要であり、かつ実際的な示唆を与える。信仰の不完全さは決して「悔い改めていない人だけ」の問題ではない。すでに教会の中で熱心に奉仕し、聖書知識も豊富で、イエスがキリストであることを告白しているとしても、なお「ヨハネのバプテスマ」的段階にとどまる可能性がある。つまり、知的にはイエスを信じ、悔い改めたと公言していても、生活の現場において「聖霊のバプテスマがもたらす深い力と真の愛」を体験していないまま留まることがあり得るのだ。

これを教会の実際の状況に当てはめてみると、多くの人々が信仰的な熱心さや教理的知識を備えていても、共同体で聖霊のダイナミズムを十分に味わえなかったり、兄弟姉妹への仕えや献身、さらには世に対するイエス・キリストの愛を具体的に示す行動へとつながっていない場合が多々あることに気づかされる。これは「初めの愛から離れてしまった」と叱責されたエペソ教会(黙示録2章)の姿とも重なるが、驚くべきことに、あのエペソ教会はパウロが3年も直接教えるほど神学的・教理的水準が高かったのである。つまり、「レベルが高くても愛が冷める可能性は十分にある」ということを示している。最終的に重要なのは、教理的知識やかつての悔い改め体験に安住せず、日々の生活で十字架と復活の愛を改めて確認し、聖霊の働きを新たに体験し続けることである、というのが本文の根本的メッセージなのだ。

張ダビデ牧師は、教会の本質を「生命の共同体を形成すること」にあると繰り返し強調し、教会とはただ礼拝堂に集まって礼拝や教理学習をするだけの場ではないと教えている。むしろ互いの生活に関わり合い、必要を満たし合い、主が進まれた十字架の道を共に担っていくような、現実的な「同行の共同体」とならなければならないというのだ。これは、「ヨハネのバプテスマ」的次元、すなわち悔い改めと救いの確信だけにとどまるのではなく、イエスの生き方を実際に生き抜き、互いに分かち合う生活へと拡張されることを意味する。

プリスキラとアクラがアポロを直接「連れて行って教えた」という行動も、深い愛の表現と考えられる。アポロが誤った教えを広めるのを防ぎたいという狙いもあっただろうが、彼の情熱を称賛しつつ同時に「より完全な福音」を伝えたいという愛と配慮、そして共同体意識に基づいたものであったと言える。そしてアポロはそれを謙虚に受け止め、のちにはコリント教会などでパウロ・ペテロと肩を並べるほど大きな影響力を持つ人物へと成長した。「真の福音の力」を体験したアポロは、かつて「ヨハネのバプテスマしか」知らなかった時代とは比べものにならないほど力強く主の道を証し、教会を建て上げる働きに大いに用いられたのである。

同様に、聖霊のバプテスマを受けたエペソの弟子たちもまた「異言」と「預言」が現れるようになり、その地方の教会が新しく出発する決定的な契機を得た。聖書は「全部でおよそ十二人ほどであった」と記す(使徒19:7)が、これは象徴的な表現である。イエスが十二人の弟子とともに始められた新しい共同体の運動が、小アジアの中心都市エペソにおいても聖霊の臨在によって再び始まったことを意味するからだ。そしてこの十二人を中心にエペソ教会が形成され、やがてアジア全域に福音が伝えられる足がかりとなっていった。今日、張ダビデ牧師が強調する「聖霊による成長」も、まさにこの聖書的モデルに倣い、「悔い改め」にとどまらず「聖霊の油注ぎを受けた生活」へと躍進すべきであると訴えているのである。こうして聖霊に満たされた者たちは、最終的に世へと積極的に出て行き、イエス・キリストの愛と真理を証しすることになる。

結局、この一連の流れが示す核心は、「ヨハネのバプテスマ」にとどまる不完全な状態を超えて、十字架と復活、そして聖霊の内住やそのダイナミズムによって完成される「完全な福音」へと進まなければならない、という点である。これはイエス・キリストの存在を知的に理解し、悔い改めるという段階を超えた問題である。本文に登場する人々は、実際の生活にあずかることで、聖霊のバプテスマがもたらす力と愛を人生全体で享受するようになった。プリスキラとアクラがアポロを「連れて行って」教えたように、教会共同体の中でより成熟した者や牧師たちは、まだ完全に至っていない信仰者たちを細やかに世話し、彼らが聖霊のうちに成長していく道を示す役割を担うべきである。張ダビデ牧師が語ってきた「伴走的な弟子化」も、まさにこの文脈で、単に知識伝達にとどまらず、苦難を共に負い、愛を実践し、聖霊体験の場へと招く弟子養成を意味する。

実際面を考えると、教会の中である人が聖書をよく知り、礼拝や奉仕にも熱心だが、その人の生活がなお聖霊の実(ガラテヤ5:22-23)に満たされず、兄弟姉妹に対する愛が十分に表れていないとしたら、その人はある程度「ヨハネのバプテスマ」的次元にとどまっていると言わざるを得ない。その時、私たちに求められるのは小言や裁きではなく、プリスキラとアクラがそうしたように、「神の道をいっそう正確に」教える実際的な指導と世話、そして共に聖霊の臨在を慕い求める祈りをもって待ち続ける姿勢である。

その後、エペソ教会が使徒行伝以降も重要な地位を占め、パウロが長期間にわたって集中的な宣教を行った拠点になったこと、そして後には使徒ヨハネまでもがこの地で活動するようになった背景には、まさにこの「聖霊体験」がターニングポイントとなったという事実がある。使徒行伝19章に描かれた「エペソの聖霊降臨」は、パウロが他の地域で建てた教会と同じように、エペソ教会を特別な力と愛に満ちた共同体へと形成する礎となったのである。しかし同時に黙示録2章に描かれた「エペソ教会の初愛喪失」という出来事は、どれほどかつて強力な聖霊体験をしても、時が経つとその情熱と愛を失ってしまう危険性があることを警告する例でもある。すなわち、一度の熱い体験や知的な悟りによって永遠に完成される信仰は存在しないということだ。張ダビデ牧師が教会員たちに「継続的な聖霊充満」や「絶えざる御言葉の黙想と適用」、そして「犠牲的な愛の実践」を力説するのも、まさにこうした聖書の事例に照らし合わせ、「聖霊体験」と「絶えざるケア」がどれほど重要であるかを知っているからである。

まとめると、アポロとエペソの弟子たちは最初、「ヨハネのバプテスマ」しか知らなかったため、悔い改めと知的な側面には満ちていたかもしれないが、「十字架と復活、そして聖霊の新しいいのち」を知らずにいたという事実である。そしてその不足を、プリスキラとアクラ、さらにはパウロがそれぞれ異なる方法で補った結果、彼らは力強い福音の働き手に、あるいは十二名の中心メンバーとして教会に大きな恵みをもたらす働き手へと成長していった。今日の教会もまた、悔い改めや教理的知識だけでは不十分であり、聖霊にあっての実際的な体験と愛の実践が伴わなければならないことを、本文は証言している。張ダビデ牧師が強調してきた「具体的な同行」と「聖霊体験を通じた教会共同体の成長」というメッセージは、まさにこの使徒行伝の本文の核心を現代の教会に適用する非常に実践的な例だと言える。


Ⅱ. のバプテスマと完全な福音の具現化:共同体的な愛と張ダビデ牧師の現代的適用

先に見たように、アポロやエペソの弟子たちの事例からわかるのは、信仰は一度の決断や知識だけで完結しないということである。むしろ信仰は持続的な成長過程を経て、その中で「聖霊のバプテスマ」が決定的な役割を果たす。その際、聖霊のバプテスマとは単に「異言や預言」といったカリスマ的な側面にとどまらず、「キリストの愛と生を実際に生き抜かせる霊的な力」を意味する。アポロが「神の道をいっそう正確に」学んで以降、コリント教会でパウロと共に福音を築き上げる強力な同労者となったように、聖霊のバプテスマを体験した信徒は「悔い改めとイエスの知識」だけを備えた段階をさらに一歩進め、いかに険しい十字架の道であれ恐れずに歩むことができるようになるのだ。

今日、多くの教会が聖霊について語るものの、ときに過度にカリスマ的徴候だけを重視してしまうか、あるいは逆に聖霊の働き全体を神学的・知的枠組みだけで解釈して、実際の生活の中で体験しないという両極端に陥りやすい。しかし使徒行伝が示すように、真の聖霊体験とは「悔い改めとイエス・キリストの名による罪の赦し」を土台にしながら、「聖霊の力と教会共同体における愛の結合」へと結びつくものである。悔い改めは個人の魂を清め、イエスの救いにあずからせるものであると同時に、聖霊のバプテスマはキリストの体なる教会にあって豊かな愛の実践をもたらすものなのである。

張ダビデ牧師の宣教・牧会は、この点で現代教会が参考にできる特徴を備えている。彼は牧会の現場において、信徒たちが聖霊体験を単なる「カリスマ的現象」として消費せず、「真の回心と持続的な弟子道の旅路」へとつなげることを目指してきた。たとえば、ある人が異言の賜物を得たとしても、それを個人の自慢や「自分は特別だ」という優越感の材料にするのではなく、むしろ共同体を建て上げ、他者にへりくだって仕える愛の原動力としなければならないというように教えている。これはコリント第一の手紙13章、いわゆる愛の章が示している中心的メッセージと重なる。すなわち「たとえ人の言葉や天使の言葉を語っても、愛がなければやかましいドラやうるさいシンバルと同じである」(Ⅰコリント13:1)という警告を、教会共同体が実際に心に刻むべきだということである。実際、信仰が頭で学んだ知識や一時的なカリスマ体験で終わってしまうと、結局はすぐに争いや分裂を起こす教会を生み出してしまうことは、歴史的にも現代の教会現場を見ても決して珍しいことではない。

実際の教会生活では、聖書知識やカリスマ体験が豊富な人々が、むしろより深い愛をもって自己を低くし奉仕するのではなく、高慢になったり他者を教えたがる態度を取ることもしばしばある。これは本文が語る「ヨハネのバプテスマにとどまる不完全な信仰」を体現している例とも言える。外面的には大きな熱意と知識を誇っていても、実際には聖霊がもたらす「十字架的愛・自己空し・兄弟を尊重し教会を建てる謙遜」に欠けているからである。こういう人々には、プリスキラとアクラ、あるいはパウロのように誰かが近づき、「神の道をいっそう正確に示す」ケアが必要である。残念ながら、多くの教会ではこうした繊細なケアや人格的・霊的養成が十分になされないまま、結局は混乱が起きたり、教会が分裂することも少なくない。

張ダビデ牧師が特に強調する「共同体性」は、まさに前述のプリスキラとアクラのケアのあり方とも軌を一にしている。すなわち「一人だけの信仰」ではなく、「共に苦しみ、共に喜び、共に成長していく信仰共同体」を指向するのである。使徒パウロも「体のたとえ」を用いて、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が栄誉を受ければ、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)と言ったが、これはイエス・キリストの十字架が示してくださった「自己犠牲的愛」を共同体の中で実現せよという意味である。教会がキリストを頭として互いにつながるとき、聖霊の賜物は互いを分裂させる道具ではなく、むしろ教会を建て上げ、結束させ、世に福音の力を明かし示す資源へと変わっていく。

特に張ダビデ牧師は、教会の中で対立が起きて分裂する原因の多くが、「聖霊の満たしが知識あるいは個人的体験のレベルでとどまり、実際的な愛へと進まないことにある」と指摘する。これは使徒行伝18~19章が示す内容とも軌を一にする。アポロやエペソの弟子たちは「熱心」と「悔い改め」を確かに持っていたが、聖霊の働きを正しく知らなかったため、愛をもって聖徒たちを仕え、福音の力を最大化する段階へ進むことができなかった。そこでパウロやプリスキラ・アクラといった存在が訪れ、彼らに「より正確な福音」を伝え、聖霊のバプテスマを通じて彼らの人生を根本から変革していく。今日の教会の中にも、「知ってはいるが実践がない」知識重視型の信仰や、「体験はあるが愛が欠如している」カリスマ中心の信仰が蔓延する可能性は十分にある。大切なのは、その両方を「統合」し、「正しい目的」で用いるよう導く世話と教えである。

このようにして完成された福音は、決して個人主義的な信仰生活で終わらない。本物の福音を悟った者たちは、エペソの十二弟子のように地域の教会をしっかり建て上げ、アポロのようにコリントの教会でも素晴らしい影響力を及ぼして、分裂よりむしろ一致と成長を生み出す姿を示すのである。ここで言う教会の成長とは、単に数的増加だけを指すわけではない。むしろ使徒パウロが述べた「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つとなり、成熟した人間になって、キリストの満ち満ちた身の丈にまで達するのである」(エペソ4:13)という次元の「内面的・霊的な成長」を指す。教会の量的な拡大はその結果として起こり得るが、聖霊に満たされて現れる愛の力こそ、真の教会成長の原動力だと本文は示しているのである。

張ダビデ牧師もまた教会の成長とリバイバルを唱えるが、その根本は「聖霊の働きと信徒間の愛のネットワーク」にあると教える。これは使徒行伝の精神をそのまま現代教会に適用した試みと言え、牧会のあらゆる面で「聖霊に依り頼むが、その結果として必ず兄弟愛と共同体の実践が伴わなければならない」という点を確認している。人々はしばしば、教会における奉仕や活動を「義務」や「責任」と考えて嫌々やることもあるが、聖霊の満たしの中で真の愛を体験した者たちは、その奉仕を喜びとして受けとめ、共同体や世に向かって自発的に奉仕の手を差し伸べるようになる。これは「ヨハネのバプテスマ」という基準点をすでに超えた状態、すなわち「聖霊のバプテスマ」が与える変化であると見なせる。

たとえば、ある信徒が以前はただ「罪悪感」から始まる悔い改めによって信仰生活を始めたとして、彼が聖霊のバプテスマを通じて真の福音の喜びを味わい、兄弟姉妹を愛し仕える段階まで成長するには、プリスキラとアクラのようなメンターのケアや、パウロのような牧会的養成が必要である。そしてそれ自体が教会の責務でもあり使命でもある。もし教会がこうした霊的・人格的ケアに失敗すれば、その信徒はヨハネのバプテスマ的次元にとどまり、悔い改めを繰り返すだけで疲弊してしまったり、知識的・形式的な信仰に終始する可能性がある。張ダビデ牧師が「魂を生かし、育てる牧会」を強調する背景には、このような痛ましい現実認識がある。すなわち、教会がただ人数の増加に躍起になったり、大きな建物を建てることに熱を上げるのではなく、一人ひとりに聖霊の力とキリストの愛を体験させ、それを共同体の中で分かち合うように導かなければならないということである。

使徒行伝19章で言及されている「およそ十二人ほどであった」(使徒19:7)という表現が象徴するのは、「少人数であっても完全な福音を悟った人々が集まれば、そこが教会であり、そこから神の驚くべき働きが拡大していく」という事実である。十二人という数字は、イエスの十二弟子やイスラエルの十二部族を連想させ、「新しい神の国運動」の始まりを意味する。エペソがその後、小アジアの福音伝道の戦略的拠点になったことや、そこがパウロの宣教活動の最も中心的な柱となったことを考えると、この十二人が体験した聖霊の降臨は、単なる個人的な回心の出来事ではなく、教会史における重要な分岐点でもあったと言えよう。

現代においても、地域教会が始まるとき、あるいは新たなリバイバルや開拓を進めようとするとき、目に見える大きなリソースや多人数がいなくとも、「聖霊に満たされた少数者」がいれば、真の教会のリバイバルはそこから出発し得る。張ダビデ牧師は何かの働きを開拓するとき、規模や華やかさではなく、その中に「聖霊体験と十字架の愛」が生きている人がいるか、そして「真に神のビジョンをつかむ少数」が存在するかをいっそう重視すると言う。これはすなわち使徒行伝が示す教会開拓と成長の原理に合致するアプローチである。

まとめると、本稿の対象である使徒行伝18章24節から19章7節の出来事は、「ヨハネのバプテスマ」で象徴される不完全さが、「聖霊のバプテスマ」を通して完全へと進んでいく転換点が、いかにして教会共同体を建て上げる原動力になるかを鮮やかに示している。アポロという優れた人物でさえ、「神の道をいっそう正確に」知る前は悔い改めと旧約の預言知識のレベルにとどまっていたし、エペソの十二弟子も「聖霊がおられることさえ聞いたことがなかったため」、悔い改めだけを繰り返す状態にあった。しかしプリスキラとアクラ、そしてパウロの助けによって、彼らは聖霊のバプテスマを受け、異言や預言などの賜物を通して教会に大きな恵みをもたらす働き手へと変わっていった。そしてこの出来事がエペソ教会の歴史、さらに言えばコリント教会の成長とも密接につながっていたのである。

現代の教会を見ても、私たちは聖書知識や熱心さ、あるいは悔い改め経験のみを強調するあまり、実際の聖霊の力や十字架の愛によって進むべき本質を見失う危険にさらされている。これに対して張ダビデ牧師は、「聖霊のうちにある自発的な献身、共同体を建てる犠牲的な愛」を教会の核心価値として提示し、牧会のあらゆる側面でこれを具体化しようと努めてきた。これは単なる「聖霊を受けよう」というスローガンや「悔い改めよ」という標語にとどまらず、「共に御言葉を分かち合い、共に時間を過ごし、苦難を共に担い、喜びや悲しみを共に味わう共同体的な生活」へと拡大されていく。この体験を通じて教会は、エペソ教会が受けた聖霊降臨の恵みを再現でき、アポロのように不完全さから完全へと転換する信徒を多く立てていくことができるのである。

しかしここで終わりではなく、常に自分自身を顧みる必要がある。エペソ教会は確かに驚くべき聖霊体験によってリバイバルし、パウロが3年にわたって宣教するほど十分に霊的水準が高かったが、黙示録2章に記されているように「初めの愛を捨てた」と叱責を受けてしまった。これは「かつて経験した聖霊のバプテスマや強力なカリスマ体験」が永遠に信仰を保障してくれるわけではないという事実を、改めて私たちに思い起こさせる。私たちは日々神の前にへりくだり、御言葉と祈りのうちに自らを低くし、共同体愛を回復することで聖霊の力を新たに受け続けなければならない。

したがって、プリスキラとアクラがアポロに、パウロがエペソの弟子たちに助けの手を差し伸べたように、今日の教会の中でも信徒同士の霊的ケアが盛んに行われる必要がある。一部の限られた人だけがすべてを担うのではなく、互いにへりくだって立て合い、「ヨハネのバプテスマ」にとどまらないよう「より正確な福音」とは何かを共に考え、祈り、実践していくことが重要である。張ダビデ牧師の牧会の事例は、このような霊的ケアが実際に機能するとき、教会がどれほどダイナミックで健全な霊的生命力を発揮できるかをよく示している。

私たちは使徒行伝のこの本文を通じ、「不完全な信仰が完全へと至る過程」とはすなわち「悔い改めから始まって聖霊のバプテスマによって完成される道」であることを再確認した。情熱や知識を持っていても、もし悔い改めの段階にだけ留まってしまえば、その信仰はまだ完全なる福音の力を発揮できない。しかし聖霊によってキリストの十字架と復活の命にあずかるようになるとき、さらに愛の共同体のうちで互いに仕え合うようになるとき、その信仰は新たに生まれ変わって教会を堅固に建て上げ、世に福音を伝える大きな力へと変わるのである。張ダビデ牧師が絶えず強調してきた「聖霊による共同体形成と十字架的愛の実践」とは、まさにこの使徒行伝的原理を現代の教会に適用する具体的な姿と言えよう。

今日の私たち一人ひとりも、「アポロが当初はヨハネのバプテスマしか知らなかったが、神の道をいっそう正確に知ってからは力ある働き人となった」という物語を自分の信仰に当てはめて考えてみることができる。「私は悔い改め、イエスがキリストであることを知ってはいる。しかしその先で止まっているのではないだろうか」「今、私は聖霊の満たしを実際に体験し、兄弟姉妹に仕え、世に向かって福音を証しする生活を送っているだろうか」「教会共同体の中で愛を実践するために、いったいどれほど祈り、献身し、他の人の必要を満たそうと努力しているだろうか」。こうした問いを自らに投げかける必要がある。もし不完全なところにとどまっているなら、プリスキラとアクラの助けを受けたアポロのように、自分より先を歩む人々に学び、パウロのような牧会的ケアを与えてくれる指導者に導かれ、何よりも聖霊を慕い求めて祈らなければならない。

教会は互いの不十分さをともに補い合う霊的な家族(ファミリー)でなければならない。不完全さにとどまっている人は共同体のケアを通して完全へと進んでいき、すでに聖霊の力を味わっている人は、いっそうへりくだって互いに仕え、まだ知らない人々には「いっそう正確な福音」を伝えるという相互成長の構図が実現されるべきである。そしてその中心には「十字架と復活の福音」があり、それを現実で可能にするのがまさに聖霊である。張ダビデ牧師が提唱する「聖霊による伴走的弟子道」とは、このような教会モデルを実現するための具体的なオルタナティブとなり得るだろう。

重ねて言うが、アポロとエペソの弟子たちは、すでに「イエスがキリストであること」を認めていた。教理的な理解も相当に高く、悔い改めに対しても真剣だった。しかし結局「聖霊」が抜け落ちてしまうと、悔い改めや熱心、そして知識さえも、深い愛の実践と十字架的な生活へ結びついていかない。このように、悔い改めから聖霊へと進む「転換」は、私たちの信仰に不可欠な飛躍であり、教会を教会たらしめる原動力となる。使徒行伝19章でパウロが投げかけたあの問い「あなたがたは信じたときに聖霊を受けたのか」は、今もなお有効であり、私たち一人ひとりの信仰を鋭く点検する。もし「私たちは聖霊がおられることさえ知らなかった」と告白せざるを得ない人がいるなら、あるいはイエスを信じて奉仕や献金をしているが、自分のうちに愛が冷え込んで他人を裁き、共同体を分裂させてしまっているなら、あるいは神の力を知識としてしか知らず、実生活で体験できていないならば、この本文は私たちに明確な道を示している。「神の道をいっそう正確に学び、主イエスの名によってバプテスマを受け、聖霊の臨在を切に求めよ」ということである。そのとき私たちの信仰は不完全さを脱し、アポロのように力ある証人となり、エペソの十二弟子のように「新しい共同体の出発点」として用いられる可能性が開かれる。そして教会は、張ダビデ牧師が常に説いてきたように、「いのちに満ちた霊的家族」へと築き上げられていくのだ。

これは聖書時代だけの話ではなく、今も変わらず適用される真理である。教会は礼拝やプログラム、教理教育、奉仕などの外的要素だけで建てられるのではなく、「聖霊のうちにある愛と協働」によって建てられる。だからこそ使徒行伝の教会は、礼拝堂も財政も制度的基盤もなかったように見えるが、世界中を揺るがすほどの力を発揮した。その力の源は聖霊であり、そこから生まれた「十字架的愛」だったのだ。ヨハネのバプテスマから聖霊のバプテスマへと移る瞬間、すべてが変わる。イエス・キリストの死と復活、そして聖霊の臨在が信徒を動かす「生きた推進力」となり、そこから真の教会の歴史が始まる。アポロの限界と突破、エペソの弟子たちの悔い改めと聖霊体験が織りなしたこのドラマは、現代の私たちにもなお強烈な挑戦状を突きつけている。「あなたがたは本当に聖霊に満たされているか。あなたがたの教会は本当に聖霊によって一つとなり、互いを愛しているのか。」――この問いに「そうだ」と答えられる共同体が増えることを願いつつ、同時に私たち全員が「不完全から完全へ」と進む信仰の旅を歩み続けなければならない。

張ダビデ牧師が語る「聖霊とともに歩む教会、十字架の愛を実践する教会」とは、まさにそうしたビジョンである。再び使徒行伝の精神が息づき、初代教会が持っていた熱い聖霊充満と献身が現代教会にも再現されるとき、私たちはこの時代に対する福音の力を真に証明できるだろう。アポロとエペソの弟子たちが残した貴重な教訓は、このダイナミックな信仰の道へと私たちを招いている。「ヨハネのバプテスマにとどまるな、聖霊のバプテスマへと進め」。これこそが使徒行伝18章24節から19章7節が私たちの胸に刻む明確なメッセージであり、同時に張ダビデ牧師が今日の教会に提示する挑戦でもある。

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