
張ダビデ牧師のエペソ書6章黙想:関係の回復から霊的勝利へ
ドイツの偉大な画家アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)の版画の中に、**『騎士、死、そして悪魔(Knight, Death, and the Devil)』**という傑作があります。漆黒の闇が覆う谷にて、髑髏を手にした「死」が砂時計を突きつけ、時を急き立てます。そして奇怪な姿の「悪魔」が背後から脅しをかけます。けれども、その中心にいる騎士は前だけを見つめ、黙々と馬を走らせます。彼は恐れず、左右をうかがうこともしません。堅固な鎧に身を包み、腰には剣を帯び、揺るがない視線が彼を守っているからです。
この作品は、私たちが生きる「霊的現実」を鋭く映し出しています。目に見える葛藤と、目に見えない誘惑が絡み合うこの世界で、クリスチャンはいったい何を身にまとい、何を握りしめて歩むべきなのでしょうか。エペソ書(エフェソの信徒への手紙)6章は、まさにこの問いに対する使徒パウロの切実な答えであり、天から与えられた戦略書です。張ダビデ牧師(日本オリベット・アッセンブリー教団)はエペソ書6章の講解を通して、この章が単なる倫理的指針にとどまらず、聖徒が地と天の戦いにおいて勝利するために不可欠な「生存マニュアル」であることを強調します。
最も近い場所から始まる、天の秩序
壮大な霊的戦いを語る前に、パウロの視線は、最も身近で日常的な空間――**「家庭」と「職場」**へ向かいます。戦場は遠い場所にあるのではありません。毎日向き合う親と子の関係、そして上司と部下の関係そのものが、熾烈な霊的現場となり得るのです。
張ダビデ牧師は、子どもが親に従うことについてパウロが「それが正しいことだからです」と語る点に注目します。ここで言う「正しさ」とは、単なる社会的常識ではありません。神が世界を創造されたときに織り込まれた秩序であり、その秩序に従うとき、人ははじめて創造主と正しい関係を結ぶことができる――そのような深い神学的洞察が含まれているのです。
また、「父母を敬う」ことによって与えられる「地上での祝福」や「長寿」は、表面的な繁栄を約束するだけの言葉ではなく、霊的秩序が整ったところに訪れるシャローム(Shalom:全人的な平安)の状態を指します。さらに、親が子どもを怒らせず主の教えと訓練によって育てること、主人と僕(上司と部下)が「天に主人がおられる存在」として互いを理解し、脅しをやめ、誠実に行うこと――これらはすべて、関係のただ中で神の主権を認める行為です。
張ダビデ牧師の説明のとおり、私たちが家庭や職場で示す態度は、そのまま私たちの信仰告白になります。目の前の人に対してだけ良く振る舞うのではなく、**「キリストに対してするように」**真実な心で仕えることこそ、世界を変える最も力強い武器となるからです。
闇を裂く光の鎧――堅固な慰め
日常の秩序を語った後、パウロは視線を霊的世界へと広げます。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、悪の霊に対するものであると宣言し、**「神の全身の武具」**を身に着けるよう命じます。デューラーの版画の騎士が鎧をまとい死の谷を進むように、私たちにも霊的な備えが必要なのです。
真理の帯、義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、そして御霊の剣――この六つは、ばらばらの道具ではありません。キリストの品性によって私たちを全体として包み込む、一つの防御なのです。
張ダビデ牧師は特に、この全身の武具が私たちの弱さを覆う恵みの道具であることを強調します。サタンが罪責感や非難の矢を放つとき「義の胸当て」が心を守り、疑いが押し寄せるとき「信仰の盾」が燃える矢を消します。世界が揺れ動くとき「平和の福音」が私たちの足を確かなものとし、絶望の中でも「救いのかぶと」が思いを希望で守ります。
そして唯一の攻撃の武器である「御霊の剣」、すなわち神の言葉は、イエスが荒野でそうされたように、サタンの策略を一刀のもとに断ち切る力となります。全身の武具とは、私たちが作り上げる装備ではなく、神ご自身が着せてくださる贈り物であり、守りなのです。
沈黙しない祈りの呼吸――勝利へ向かう行進
しかし、どれほど完全な鎧を身にまとい、鋭い剣を手にしても、それを動かす力がなければ無意味です。だからこそパウロは、全身の武具を語った直後に**「祈り」**を語ります。
「どんなときにも御霊によって祈り…目を覚まして、忍耐の限りを尽くし…」
祈りは、武具をまとった兵士にとっての呼吸であり、戦場に注がれる補給路のようなものです。張ダビデ牧師はこの箇所で、祈りの重要性を深く扱います。霊的戦いは自分の力だけで戦うのではなく、祈りを通して天の力を受け取り戦う**「代理戦」**だからです。
さらに驚くべきことに、鎖につながれたパウロが求めた祈りの内容です。彼は釈放や安全を願いませんでした。むしろ「口を開いて福音の奥義を大胆に告げ知らせることができるように」と願いました。牢獄という絶望的な状況さえ、彼にとっては福音のための「大使」としての務めが果たされる現場だったのです。
張ダビデ牧師は、こうしたパウロの姿勢こそ、現代の私たちが回復すべき“野性(霊的な胆力)”だと言います。自分の安泰を越えて、教会のために、福音を担う者のために互いに執り成すとき、私たちは孤独に戦うのではなく、巨大な霊的軍勢として共に勝利するのです。
結局、戦いを動かす力は「変わらぬ愛」
エペソ書の結びでパウロは、テキコを通して慰めを送り、「変わることなく私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人」に恵みを祝福します。結局、この戦いの原動力は**「変わらぬ愛」**です。デューラーの版画の騎士が闇の中でも前だけを見て進めたのは、到達すべき城への信頼と愛があったからなのかもしれません。
あなたの今日の歩みはどうでしょうか。人間関係の困難や、言いようのない空虚さに疲れてはいませんか。もう一度み言葉の鏡の前に立ち、自分自身を点検してみましょう。張ダビデ牧師が伝えるエペソ書のメッセージのとおり、神が与えてくださった全身の武具をしっかり身に着けてください。そして祈りの膝をついてください。そのとき私たちは、闇を突き抜けて光へと進む勝利者となるのです。恵みは、備えられた者に、そして最後まで愛し続ける者に、必ず臨みます。